第01話 白紙の本
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犬ほどの白い獣が、跳んだ。
編み針のように細い前肢の先が、まっすぐ俺の心臓へ伸びてくる。林の獣、ニールレグ。地元の子供でも知っている、ありふれた獣だ。ありふれているくせに、その目は、俺の最速の動きすら紙芝居みたいに見切ってしまう。
逃げても無駄だ。躱そうとすれば、躱した先を撃たれる。この体は遅すぎて、動き出す前に何もかも読まれてしまう。
だから、俺は動かなかった。
突進してくる牙の前で、棒立ちのまま、息を止める。逃げろと全身が叫んでいる。何百万年も食われ続けてきた体に刻まれた配線が、止まれという命令を拒んでいる。
無視する。今回ばかりは、その配線が間違っている。
獣が宙にある、この一瞬。撃ち出された石と同じで、もう軌道は変えられない。針の通る線は、放物線一本に決まっている。決まってしまえば、あとはその線の上にいなければいいだけだ。
計算は、とっくに終わっている。
俺は右へ、体半分だけ、ずれた。
針が、さっきまで俺の心臓があった空間を貫いて、空を切る。風圧が頬を撫でた。空振りした獣が、狙いどおりの場所へ着地する。緩めておいた岩の、真下へ。
肩で、突っ込む。
崩れる音。土煙。長い後ろ脚が一度だけ痙攣して、それきり動かなくなった。
手は、まだ震えていた。それはそれとして、口は勝手に動いていた。
「――計算済みだ」
我ながら、強がりにしか聞こえなかった。
言っておくが、俺は勇者でも、選ばれた人間でもない。ただの、数学が好きすぎる高校生だ。剣も魔法も持っていない。持っているのは、ペン一本と、世界の全部を知りたいという、行儀の悪い欲だけ。
なぜそんな奴が、剣も魔法もある異世界で、獣を計算で殺しているのか。
話は、三日前に遡る。
第01話 白紙の本
結論から言う。世界は、ぜんぶ数式で書けるはずだ。少なくとも俺は、そう信じて生きてきた。
その信仰に基づいて算出すると、人間の一日には、無駄が約四時間もある。
内訳はこうだ。食事に九十分。風呂に三十分。生命維持のための雑務に六十分。「なんとなくぼーっとする」に推定六十分。計二百四十分。俺はこの四時間を、全部数学に回したい。
回せない。人体がそういう設計になっていないからだ。
誰の設計だ。……進化か。文句の宛先がない相手だった。
仕方がないので、せめて夕飯のほうを踏み倒すことにして、俺は今日も大学図書館の閲覧席にいる。
最上数理、十六歳。身分は高校生。生活の本拠地はここ、大学図書館だ。祖父がこの大学の名誉教授で――専門は俺にはさっぱりの、古い言語の歴史だ――その縁で、俺は職員家族の顔パスを開館から閉館まで乱用している。
両親は、長いこと海外で研究をしている。便りはたまに届く。だから家には祖父と二人だ。不便はない。祖父は穏やかで、俺の数学の話を、半分も分からないだろうに、最後まで聞いてくれる人だ。
定位置は北側の窓際、一番奥の席。空調の風が直接当たらず、夕方に西日が入らず、よく使う書架まで最短の十一歩。三年かけて最適化した結果であり、誰にも譲る気はない。今日も無事に確保した。
今日の獲物は閉架書庫から取り寄せた五冊。位相幾何の入門が二冊、グラフ理論が一冊、あとは数学史と、面白半分の天文学。
位相幾何と、グラフ理論。我ながら、偏った二本柱だ。理由は分かっている。家の本棚の、一番手の届くところにあった分野だからだ。子供の頃から、その背表紙を眺めて育った。父の棚と、母の棚。
節操がない、とよく言われる。その実、入り口だけは、ずいぶん偏っている。
それでも、俺は世界の全部が知りたい。物理も化学も天文も――つまり、数学で書けるもの全部だ。
今朝の話をしよう。
食卓に進路希望調査票が出された。第一志望の記入欄は一行。俺は「世界の全て」と書いた。
昼前に担任から連絡が来て、三者面談が決まった。保護者欄に祖父の名を書きながら、ふと、こういう書類はいつも祖父の名で出してきたな、と思った。それだけのことだ。深くは考えなかった。
悪いのは一行しかない記入欄のほうだと思う。世界は一行に収まらない。様式側の怠慢だ。
祖父は調査票を見て、困ったように笑った。
「全て、か。お前の親も、似たようなことを言っていた気がするよ」
「父さんと母さん、何の研究してるんだっけ」
訊いてから、自分でも妙に思った。家族のことだ。即答できて当然のはずなのに、答えが、ぼんやりと霞む。位相幾何と、グラフ理論。専門は言える。なのに、その二人がどんな顔で数式を語っていたかが、うまく像を結ばない。
まあ、長く会っていないからだろう。そう片付けた。
祖父は何か言いかけて、やめた。代わりに、湯呑みに茶を注ぎ足した。
「……気をつけて行っておいで」
たったそれだけの朝だった。今になって思い返すと、祖父はあのとき、何かを言いそびれた顔をしていた。だが当時の俺は、頭の中の証明の続きで手一杯で、気にも留めなかった。
図書館の話に戻る。
閉架請求の受け取りカウンターには、いつもの司書がいた。
名札には片仮名で「ボイド」とある。外国の人だろうか。年齢不詳、見た目は四十くらい。銀縁の眼鏡に、灰色がかった司書エプロン。そして、いつ来てもいる。朝一番でもいる。閉館間際でもいる。日曜でもいる。学生の間では「住んでいる」説が最有力で、次点が「三つ子」説だ。
仕事は丁寧で、無口で、そして質問には絶対に答えない。
一度、「この定理について詳しく書かれている丁度いい入門書はどれですか」と訊いたことがある。彼は答えなかった。代わりに、翌日、三冊の本が黙ってカウンターに積まれていた。一冊目で分かり、二冊目で唸り、三冊目で殴られた気分になった。完璧な選書だった。
つまり――答えの代わりに、貸出をする男だ。
ついでに言うと、俺はこの人が本を読んでいるところを、一度も見たことがない。司書なのに、だ。運ぶ、並べる、繕う、押す。書物にまつわる動詞のほぼ全てをこなして、「読む」だけが、ない。本に興味がないのか――いや、違うな。棚に本を戻すときの手つきは、眠った子供を布団に戻す親のそれだ。興味がないんじゃない。たぶん、もう……なんだろう。うまい言葉が見つからないので、観察事項として保留しておく。
カウンターの背後には職員用の書架がある。その一番奥、影になった棚に、手書きの札が一枚だけ掛かっている。
【未刊】
未刊。図書館の分類で、そんな棚は見たことがない。刊行されていない本の棚とは何だ。訊いたことはある。答えはなかった。スタンプの音だけが返ってきた。
席に戻って、まずは本命から。位相幾何の入門書を開く。
三章の途中、曲面の分類の証明で、見事に詰まった。
行間が飛んでいる。「明らかに」と書いてあるのに、明らかじゃない。著者の「明らか」と俺の「明らか」のあいだに、推定三ページ分の崖がある。
……いいぞ。こういうのがいい。
「分からない」は鉱脈の匂いだ。胸ポケットからペンを抜き、尻の側でこめかみをぐりぐり押しながら、三十分掘る。崖の底に細い橋が一本架かったところで、ふと視線を机に落とした。
取り寄せは、五冊のはずだった。
六冊、あった。
一番下に、見覚えのない一冊。背表紙に文字がない。表紙にもない。請求票も、蔵書ラベルも、バーコードもない。
配架ミスだろう。そう思って、ぱらりと開いた。
白紙だった。
次のページも白紙。その次も白紙。最後までぱらぱらと流して――全部、白紙。
ああ、なんだ。束見本か。製本の仕上がりを確かめるために作る、中身が白紙のダミー本。出版社の備品がなぜか紛れ込んだんだろう。
そう思い、納得して、閉じて――閉じる寸前に、指が止まった。
角が、丸い。
小口が、薄く灰色にくすんでいる。天の縁が日に焼けている。ページの端には、めくられ続けた紙だけが持つ、あの独特の柔らかさがある。
つまりこの本は、読み込まれている。一度だけではない。白紙にも関わらずだ。
誰が白紙の本を読み込むんだ。……俺みたいな暇人か?いや、俺でも白紙は読まない。読みようがない。
検証する。
まず、透かし。窓際に持っていき、ページを夕方の光に翳す。透かし、なし。すき入れの紋も、なし。
次、不可視インク。定番は炙り出しだが、出所不明とはいえ本を火で炙る度胸はない。代替手段、斜光。スマホのライトを点け――電池残量87%、よし――紙面すれすれの角度から当てる。筆圧の痕、消した跡、インクの照り。何か書かれた過去があれば、浮く。
なし。完全に、なし。
ページ数を数える。二百五十六。きりがいい数字だ。疑って、数え直す。二百五十六。よし、俺の目は正常。
念のため、匂いも嗅いだ。古い紙と、インクの匂い――インク? 白紙なのに、ごくかすかにインクの匂いがする。気のせいの範囲かもしれない。判定保留。
綴じは糸かがりで、今どきの無線綴じじゃない。紙は厚口で、わずかに黄ばんでいる。装丁だけ見れば上等な古書だ。中身は、無。
最後に、巻末の貸出カード用ポケットを探した。ない。蔵書印もない。つまりこの図書館の本ですらない、ということになる。じゃあ、なんで取り寄せの山に紛れていた。
手帳を出そうとして、家に忘れたことを思い出した。仕方なく、左腕の内側にボールペンで書く。
《白紙・手擦れ有・透かし無・斜光反応無・256p》
誰かに見つかると怒られそうな記法だが、紙がないのだから仕方がない。
結論。説明が、つかない。
……最高だな?
怖くないのか? 怖いより先に「知りたい」が来た。順番の問題で、俺はそういう順番に生まれついている。
本を持って、カウンターへ行った。
「すみません。これ、取り寄せに紛れてたんですが――落丁本、というか、白本ですか」
ボイドさんは返却本にスタンプを押す手を止めないまま、視線だけをこちらに寄越した。
「いいえ」
「じゃあ、束見本」
「いいえ」
「……では、何です」
「未刊です」
こつん、とスタンプの音が止まった。
未刊。まだ、刊行されていない。
「未刊の本が、なんで製本されてるんですか。なんで手擦れがあるんですか。誰が読んだんですか。書かれてもいないものに刊行も未刊もないでしょう。中身はどこです。これから書かれるんですか。だとしたら、誰が」
一息で質問を七つ重ねた。我ながら早口だった。
ボイドさんは、その七つに、ひとつも答えなかった。
代わりに貸出処理の端末を静かに引き寄せて、言った。
「お貸しすることなら、できます」
……そうだった。この人は、そういう人だった。
「そもそも、これは誰の本なんですか。蔵書印がありませんでしたけど」
「あなたの」と彼は言った。「――今から、そうなります」
差し出された期限票には、返却日のスタンプがなかった。日付の欄が、白い。
「期限は」
「読み終わるまで」
白紙の本の「読み終わり」とは、いつだ。
顔を上げると、眼鏡の奥の目と、初めてまともに合った気がした。
ひどく疲れた目だった。何万冊も読み終えたあとのような。面白い本にはもう二度と出会えないと知っている人の――そういう目に見えた。四十歳の司書がする目じゃない。
「ごゆっくり」と彼は言った。それから、ほんの少しだけ間を置いて、もう一度。
「……どうか、ごゆっくり」
白紙の本を貸しながら言う台詞では、ないと思う。
閉館十五分前。
帰り支度の前に、もう一度だけ検証することにした。観測は、再現できて初めて観測だ。俺は数えた。二百五十六ページ、全部が白紙だと。
一ページ目。白紙。よし。
ぱら、ぱら、とめくっていく。白、白、完全な白――
最後のページで、指が止まった。
一行だけ、あった。
黒々とした、見たこともない端正な字で、しかし人が書いたような印象の残る、文字でこう書いてあった。
【知りたいか?】
…………は?
俺は数えた。確認した。三十分前、このページは白紙だった。斜光まで当てた。痕跡はゼロだった。インクが染みていれば裏写りで分かる。分からなかった。つまり、なかった。
反射的にスマホを構えて、撮った。無人の閲覧室にシャッター音が響いて、自分で少しびくりとする。画面を確認。写っている。幻覚ではない。物理的に、そこにある文字だ。よし。
……よし? 何がよしだ。
指の腹で、文字をなぞる。
文字が掠れ、指の腹に黒のインクがついた。
インクが、まだ乾いていない。たった今、誰かが書き終えたばかりみたいに。
顔を上げる。カウンターは――無人だった。
あの人が席を外すところを、俺は今日まで一度も見たことがなかったのに。
カウンターの奥、【未刊】の棚に目をやる。
ぎっしりと詰まった本の列に――ちょうど一冊分の、隙間があった。
閉館を告げるチャイムが、天井のどこか遠くで鳴り始める。誰もいない閲覧室。窓の外はもう暗い。机の上のスタンドだけが、白紙の本と、その最後の一行を照らしている。
整理しよう。問題は三つ。誰が書いたのか。いつ書いたのか。そして――なぜ、俺の意見を訊くのか。
三つ目が一番おかしい。本というのは、読み手の返事を待たない。一方的に書いてあるから本なのだ。質問してくる本は、本というより――
手紙だ。あるいは、扉だ。
心臓がうるさかった。
これは恐怖の脈動か?――違うな。俺はこの脈をよく知っている。解けそうで解けない問題を前にしたときの、あれだ。今朝の調査票の、一行の欄には収まらなかったやつだ。
知りたいか、と本は訊いた。
……愚問にも、ほどがある。
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m(_ _)mあさひあめ




