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怪物は涙しない

 真理愛まりあはそんなルールはあんまりだと叫び出したい気分だった。天国に立ち入っただけで帰れなくなるなんて、横暴にもほどがある。


「どうしたの?」


 こちらの目を覗き込むカイルスの瞳は澄み渡っていて、邪悪さの欠片もなく、それが恐ろしかった。


 ごくりと唾を飲み込み、必死で頭を働かせた。ここまでやり遂げたのに元の世界に戻れないなんて、受け入れられない。供物はすでに捧げて願いも叶えられてしまったが、絶対に手があるはずだ。ロゼッタが闇を抜けて夜の国へ戻れたように、自分も必ず戻れるはずだ。


「帰らないといけないの、天国には戻れない」


 カイルスの爪が皮膚に食い込んだ。すさまじい力だった。思わず痛みに顔をしかめる。


「どうして戻ってこないの? ここはお姉ちゃんが言った通りの場所なんだよ? この国にないものはない、誰だって幸せになれる、誰も寂しくならない。なのにどうして帰りたいの?」


 かつての自分の言葉がぐさぐさと突き刺さって、悔しさを覚える。天国がどこより素晴らしい地であることは否定できなかった。


 すでに背後では天国に迎え入れられた吸血鬼たちの楽しそうな声がしており、それが恐ろしいほど魅力的で、決心をぐらつかせる。


「それでも、それでも戻りたい。会って話をしないといけない人が向こうにいるから、絶対に帰らないといけないの」

「そんなのだめだよ、どんな理由だってだめ。僕の領域にあるものはすべて僕のものなんだよ」


 カイルスと呼びそうになって、はっとした。今の彼は、あえて自らの神としての貌を隠し、我が儘が許される幼いカイルスとして振舞っているのではないのかと思ったのだ。


 真理愛は彼を天を統べる神としての名で呼んだ。


「ですが、私はまだ死んでおりません。地上のどんな場所より優れた国であっても、ここは死んだ吸血鬼たちを迎える場であって、生きた人間が留まってよい場所ではありません」


 自分の言い分が正しいかは半分賭けだったが、カイルスの口元にかすかな笑みが浮かんだのを見て、首の皮一枚繋がったのを知った。それと同時に意図的に真実を隠されていたこと教えられて腹が立った。


「君の言うことも真実だ。だが、この地にあるものは全て僕のものであることも真実だ」

「では――」


 カイルスの指が真理愛の口に当てられていた。たったそれだけで真理愛は口がきけなくなった。


 いつの間にかカイルスと目線の高さが同じになっていた。彼はまた背が伸びていた。幼さはすっかり影を潜め、口元の笑みは妖艶にも見えた。


「条件を出すのはこの僕だ、所有物たる君じゃない。だが、もし条件を飲んで天国から出られたら、生者である君はこの国へ戻ってこなくてもいい。どうする?」


 条件の内容を教えてほしいと言おうとしたが、まだ声が出なかった。カイルスははいかいいえの返事を強制しており、頷く他になかった。


 真理愛が承諾するとカイルスはにっこりと笑った。彼の姿はまたしても幼い少年になっていた。


 もう彼のその姿を見るのが嫌になってきていた。先ほどから彼は自分の貌を都合よく使い分けているようにしか見えず、しかも幼い姿を取る時は無邪気さを悪用してばかりいる。


「じゃあ、お姉ちゃんが帰らないといけない理由を貰うね」

「え……?」


 赤い瞳がじいっと真理愛を見つめる。その瞳が何を映し出しているのか、不思議とわかった。彼は真理愛の心を覗いている。触れられるはずのない形の無い体の内側に触れられている感触があった。


 気が付けば膝を折っていた。


 自分の全てが、これまでの人生で積み重ねたものが、感じる思いが、その瞳によって腑分けされる。他人に覗き込まれるはずがなかった内側を具に観察され、暴かれる。


 それはこれまで受けたどんな仕打ちよりも真理愛を打ちのめした。恐怖を通り越して、無の境地にまで至っていた。


 やがて、その瞳は求めるものを抉り取り、喜びによって眩く赤く輝いた。


「大事な人がいるんだね。その人のために帰りたいんだね。素敵だなあ、綺麗だなあ、これが誰かを想う気持ちなの?」


 結んでいたはずの髪がほどけて、真理愛は髪を抑えた。手が掴んだ髪はなぜか短く、髪がばっさりと肩のあたりで切れていた。長い髪の束はカイルスの手の中にあった。


「天国を抜けて夜の国に戻れたら、君は天国へ戻らなくていい。だけど、この国から出られなければ、君はこのまま僕のものだ」

「私は帰ります、絶対に」


 震える声で言って、真理愛はどうにか立ち上がった。すべてを暴かれたショックで、もうカイルスの目を見られなかった。


 よろめきながら離れて行く真理愛を、カイルスが見つめていたが、追いかけてはこなかった。


 真理愛は天国の門をくぐり、吸血鬼たちの間をすり抜けて、カイルスの姿が見えなくなったところで走り出した。死んだ吸血鬼たちが、天国から逃げていく真理愛を哀れみの目で見ていた。


 果てなく続くように見える階段を駆け下りて、美しい湖や花畑に目もくれず、走った。カイルスの目がどこまでも追ってくる気がして、あの目が今まさに真理愛の焦燥や不安を見ている気がして、おかしくなりそうだった。


 さらに外へ外へと向かって行く。辺りの景色は変わっていく。見覚えのあるもの、ないもの、それらを気にする間もなく走っていく。


 いつしか吸血鬼たちの姿はまばらになり、空はどんどん暗くなり、闇の中をひた走っていた。どこが前かもわからないまま、恐怖心が擦り切れても、とにかく足を動かした。


 徐々に真理愛の足は重くなっていった。光のない、しんと静まり返った場所にいた。息が切れて、どうにか一歩一歩踏み出して、とうとう足を止めた。


 耳鳴りに似た静寂が波のように押し寄せてきた。視界もきかない闇の中で、真理愛はそこに浮かび上がっているように感じられた。立っているのか、倒れこんでしまったのかさえ、はっきりわからなくなっていた。目を閉じても開けても広がる闇の色は同じで、世界と自分との境界線が溶けていく。


 もう一度帰り道を探そうとして、体に力が入らないことに気が付く。


 疲れ果てていた。今すぐ泥のように眠りたいほど、もう瞬きさえも億劫なほど、ただ疲れていた。


 このまま眠ってしまおうか、そんな考えが頭の中でもたげる。すこしだけ、すこしだけでいいから休みたい。


 夜の国へ辿り着けなくても、おそらく神はエヴァルドへ贈り物を要求するための使者を送るだろう。追放されたディアマンテのことも、エヴァルドが知れば放ってはおかないはずだ。そして、夜の国の崩落が止まり大地が戻ったことで、彼は白夜を終わらせ、吸血鬼たちを目覚めさせるだろう。


 考えれば考えるほど、もう自分が夜の国に行く必要はないように思われた。


 元の世界へ戻ることも、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくる。元の世界より天国で過ごす方がずっと良いに決まっている。何しろ文字通りの天国だ。ここよりも美しい土地はなく、ここより楽しい国はない。


 言い訳を並べて、もう休んでいいのだと、そう結論付けたくてたまらなかった。


「私、どうして、帰りたかったんだっけ――」


 これまで歯を食いしばって屈辱に耐え、死を覚悟して危険に飛び込んできた。そうしてきた理由があったはずなのに、そしてそれはどんな極限の状態でも行く先を示してくれる道標だったのに、今は思い出せなかった。


 手のひらがさらさらとした砂を撫でた。親指の腹が砂に触れた時、鈍い痛みのかすかな記憶が想起された。だが、想起されたのは記憶だけで、胸をかき乱す感情は湧き上がらなかった。


 奪われたものを悟り、真理愛は乾いた笑い声をあげて、一筋の涙を流した。


 真理愛はがくがく震える腕で地面を押し返し、鉛のように重い体でどうにか立ち上がった。それだけで息が上がり、再び倒れそうになる。だが、気力だけで立ち続けた。


 一歩踏み出すだけで、足の裏を針で刺されたような痛みを感じた。それでも歩き続けた。今度こそ立ち止まるわけにはいかなかった。立ち止まったら最後、動けなくなると理解していたからだ。


 カイルスは、人間の感情というものがよくわかっていないのだ。全てを見通したというのに、理解できなかったのだ。好きという気持ちを奪えば、自分の元へ戻ってくると思ったのだろう。だが、それは大きな間違いだ。感情は常に心の中で絡み合い、複雑で、純粋であることがない。


 彼に抱いていたのは、恋心だけではない。彼は心強い味方であり、助け合う仲間だ。寂しがり屋であることに自分で気づいていなくて、思い詰めると周りが見えなくなるところがあるけれど、心から彼を尊敬している。


 吸血鬼たちが用済みの夜の乙女を長い生の中で忘れていこうとも、きっとクラウディオだけは千年先でも待ち続ける。そんな彼を、どうして放っておくことができようか。


 光を探して闇の中を彷徨い歩いた。無心で歩き続けるうちに、かすかに闇が揺れたのが見えた。それは揺らぎではなく、半透明の少女の姿だった。表情はほとんどわからないが、ほっそりとした手で真理愛に方角を指し示していた。


 真理愛がその方角へ進みだすと、少女の姿は闇に溶けて消えた。そして再び別の少女の姿が現れ、またしても真理愛に道を示した。彼女たちが誰かは、闇と同じ髪の色が教えてくれた。


 少女たちに示された道を進んでいくと、ずっと遠くに光が見えた。光が差し込む場所の手前で、幼い少女が手を振っていた。彼女はこれまで道を示してくれた少女たちの中でもっとも幼く、まだ小学生くらいに見えた。


 焼けるように熱い喉をこじ開けて、ありがとう、と礼を言った。少女は本当に嬉しそうに笑い、姿を消した。


 真理愛はほとんど感覚のない脚で前へと進み、手を伸ばして光に触れた。白い闇の向こうから伸ばされた手が真理愛の手を掴み、強い力で引っ張り上げた。一気に周囲が明るくなり、真理愛はぎゅっと目を閉じた。


 ぽたり、と熱い水が頬に落ちた。真理愛が目を開けると、潤んだ赤い目がこちらを覗き込んでいた。


 真理愛は額をクラウディオの肩に預けた。体から完全に力が抜けて倒れこむ前に、クラウディオが真理愛の体をしっかりと抱きしめてくれた。


 空が暗くなっていくのを感じながら、目を閉じた。


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