そして門は開かれる
真っ白な雪を戴く山峰、清い水の流れる川、清浄な気に満ちた森、蝶の舞う穏やかな丘、数多の美しい家々や劇場、広場――それらは全てここを訪れる吸血鬼たちのためのものだった。
穏やかな風が芳しい香りを運んできた。生まれつつある天国は筆舌に尽くしがたいほど美しく、遠くから見ているだけで魂が震えるような地だった。
「カイルス君は、海や街を、見たことがあったの……?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
カイルスはなおも夢中で砂浜に天国の構想図を描いている。線を引くたびに絵は洗練されていっており、今や究極的な写実画となっていた。
「もしかして外の世界にも同じものがあるのかな? 外の世界は僕が生まれる時にはすでに僕を受け入れてくれるものではなかったから、僕は何も見たことがないのだけれど……。でも、見たことがなくても僕は全てを知っている。僕は、僕の世界は、僕が生まれなかったが故に全ての可能性を内包しているのだから」
砂浜に木の枝を置いたその手がごつごつしていて、真理愛はぎょっとしてカイルスを見た。彼は子どもの姿から真理愛と同い年くらいの少年の見た目になっており、凛々しい横顔で作り上げた天国を眺めていた。
「そうか、僕は最初から全てを持っていたのか。それを忘れていただけだったんだ」
真理愛はカイルスの横顔を見つめながら、彼に相応しい贈り物について考えた。彼は全てを持っている。それは誇張ではなく、事実だ。しかし、全てを作れるからといって、自らで作ってしまうことで価値が損なわれるものもある。それは例えば家族で、かつて彼が求めたものだった。
「貴神への贈り物として、神殿を建てるのはいかがでしょうか……?」
真理愛は思いついたままを口にした。だが、すぐに失敗したと思った。それは今すぐ彼に差し出せるものではなかったからだ。だが、カイルスの表情が徐々に明るくなってきていて、今更提案を引っ込めることはできそうもなかった。
「あ、えっと……、でも、今すぐ私が建てて差し上げるのは難しいので、たくさんの吸血鬼たちの力を借りて――」
その時、真理愛は思いつきを可能にすると同時にその義務を負うに相応しい男を思い出した。
「きっと立派な神殿を建てます、エヴァルド王子が!」
勢いで言ってから、真理愛は内心冷や汗をかいた。カイルスの機嫌を損ねるかもしれないし、氷漬けになっているエヴァルドが承知するかも定かではなかった。
カイルスは真理愛の勢いにきょとんとして、すぐにふふっと笑った。
「神殿、しかも弟から、か。でも、それは自らによって自らに作ることができないものであるし、何より吸血鬼たちからの贈り物としては悪くはない」
カイルスは立ち上がり、天国のその向こうを見据えた。
「国ができたら門を開こう。あの向こうで数多くの吸血鬼たちが待っているのを感じる。母上の気配も感じられる。僕は随分と長いこと自分の責務を果たすことができていなかった。だが、こうして僕は僕自身を思い出し、望みさえもが叶おうとしている。礼を言うよ、マリア」
カイルスの流し目は芳しい風よりも匂い立つようで、真理愛はくらくらするのを感じた。ヴェールがなければ直視することさえできない少年の太陽よりも強く輝く美貌が、真理愛をそうさせていた。
「僕はすでに君からの供物を受け取った。そして、君には大きな恩がある。君の願いを言ってごらん。どんな願いだろうと叶えてあげよう」
「では、夜の国の崩落した大地を、元に戻していただけませんでしょうか」
真理愛は涙が出そうなほどの幸福を感じていて、喋るのも精いっぱいだったが、どうにか願いを口にすることができた。
「わかった、いいだろう。その願い、契約に基づき私が叶えよう」
かちりと二つのものがぴったりと組み合わさったような感覚があった。それが神とひととの間で取り交わされる契約が果たされた合図だと自然と理解できた。
「時は満ちた。国は完成した。門を開く時だ」
カイルスが真理愛の手を引いて、一歩踏み出した瞬間、天国の景色が一気に視界を過ぎ去って、次の瞬間には白亜の巨大な門の前にいた。
神が眼差し、門が開いた。門の向こうの闇へと光が差した。
門の前で待ち続けていた吸血鬼たちが満ち足りた表情で天国へと足を踏み入れ、それぞれが思い思いの場所へと向かって行く。
「母上」
感極まった声で、カイルスが呼び掛けた。次々と天国に足を踏み入れる吸血鬼たちの流れの中で、門の向こうにただ一人立っている女性の姿があった。その女性の顔かたちははっきり見えなかったが、カイルスに確かに微笑んでいた。
カイルスは女性の元へ駆け寄り、二人は抱きしめ合った。
血の繋がりもなく、求めに応じてなった家族であるというのに、彼女はカイルスを愛していたのだとはっきりと感じられた。
真理愛はぼんやりとしながら視線を辺りへと移していった。死した吸血鬼たちの輝くような笑顔や、眩いほど美しい天国も、何もかもが夢のように感じられた。だが、ゆっくりと達成感を覚えるようになった。全てをやり遂げたのだと、そう思った。
こみ上げる涙を拭いて前を向くと、いつの間にか母との再会の時を終えたカイルスが真理愛の目の前に立っていた。
「マリア、この門をくぐれば夜の国へ行けるよ」
「ありがとうございます。夜の国へ戻ったらエヴァルド王子に贈り物のことを伝えるとお約束いたします」
「ああ、頼んだよ。それが終わったら帰っておいで」
真理愛は自分の耳を疑ったが、聞き間違いではなかった。
「帰ってくるとは、天国に、ですか?」
「そうだよ。どうしてそんな顔をするの? 帰っておいでと、この僕が言っているんだよ? 天国の物は水の一滴、花びらの一枚に至るまで全てが僕の物。天国へ足を踏み入れた者も全て、僕の物だよ」
幼い少年の姿のカイルスが、真理愛に抱き着いた。彼の耳はちょうど真理愛の胸のあたりにあり、痛いほど動きを速めている心臓の音が聞こえないはずがなかった。
「ずうっとここにいてね、お姉ちゃん」




