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誰もいない天国

 真理愛まりあは突如現れた子供――自覚のない神と、手を繋いで歩いていた。


 どれだけ歩いても崩れた神殿の景色から抜け出すことはなく、石畳や階段、瓦礫や支えるものを失った柱などが続いていた。


 その子はカイルスと名乗った。お母さんがつけてくれた名前だと言って、それからお母さんと弟がいないと泣き始めたので、真理愛は一緒に探してあげることにした。


 カイルスが途方に暮れているのと同じくらい、真理愛もどうすればいいのかわかっていなかった。


 ディアマンテに言いつけられたことのうち、供物を捧げる儀式は遂行した。しかし、カイルスに願いを叶えてもらうことと、彼自身の正体に気づいてもらうこと、それからかつて神に支払われるべきだった代償を今度こそ捧げることは、いずれも糸口さえ見えていなかった。


 そもそも、カイルスには自身が神である自覚もなさそうである。そんな彼に急に全ての真実を告げても納得してもらえる気がしなかった。


「お母さんと弟君とはどこではぐれちゃったの?」


 ようやくカイルスの涙が落ち着いてきたところで真理愛は尋ねた。この状況を打開する情報は彼からしか得られなさそうなので、彼が神なのか疑わしく思えていても質問するしかなかった。


「わかんない、わかんないんだ」


 カイルスはうつむく。大きな目には涙を浮かべていて、今にも泣き出しそうだ。


「怖い男のひとが二人を連れて行ったんだ。どうしてあんなことをしたんだろう。僕の家族なのに、ひどい、ひどいよ。あれから僕は、僕は……」


 彼は足を止め、こらえきれなくなったように涙を流した。赤い目はクラウディオの瞳にそっくりなので、真理愛は様々な意味で胸がざわつくのを感じた。


 彼の言う母と弟とは、おそらく夜の国の女王クラリスと王子のエヴァルドのことだろうと思われた。かつてカイルスは家族を望み、二人を手に入れたのだろう。


 だが、当然二人はこの地にはいない。王が二人を地上へと連れ戻してしまったからだ。しかも女王は亡くなっているし、王子は現在進行形で氷漬けだ。


「すこし座って休もうか、たくさん歩いて疲れちゃったよね」


 真理愛はカイルスと一緒に階段に座って休憩した。大理石でできた階段はところどころひび割れていたが、座るのに支障はなかった。


 鞄の中に何か使えそうなものはないかと見てみたが、彼の気を引けそうなものはない。必死で運んできた重たい鞄だというのに、中のものは儀式に使った道具類しかなかった。


 ため息を吐きたい気分で天を仰ぐと、ふとカイルスに見つめられていることに気づいた。先ほどまでずっと目が潤んでいたが、すっかり落ち着いたようで、今はこちらに興味があるようだった。


「お姉ちゃんはどこから来たの?」

「吸血鬼が住んでる夜の国っていうところだよ」


 カイルスの表情がぱっと明るくなった。


「お母さんたちがいたところだ! お母さんと弟は夜の国っていうところにいた?」


 嘘を吐くべきか悩んだ。エヴァルドはともかく、お母さんと呼ぶクラリスには絶対に会えないのだ。


 真理愛はカイルスの手を握り、目を見て話しかけた。


「お母さんはね、きっと、天国に……」


 真理愛は伝えかけてやめた。自分で発した言葉に引っかかりを覚えたからだ。


 ディアマンテは聖域へ繋がる門を、地獄の門ではなく天国の門だと呼んだ。彼女の世界構想において神の座は天に在ることと合わせて考えると、聖域はすなわち天国であり、死んだ吸血鬼たちを迎え入れる場なのではないだろうか。


 夜の国で様々なことを学んで見聞きしたが、死んだ後にどこに行くかは一度も話に上がらなかった。ひょっとしたら吸血鬼たちも明確な共通認識を持っていないのかもしれない。


 この聖域には誰の姿もない。だが、それはカイルスが自分が神である認識がない上に、正しく神として機能していないからだろう。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 カイルスが真理愛の腕を遠慮がちに掴んできた。虚空を見つめていた真理愛ははっと我に返る。どくどくと心臓が早鐘を打っているのを感じた。ひょっとしたら、うまくいくかもしれない。


「天国でなら、会えるかもしれない。お母さんだけじゃなくて、他のたくさんの吸血鬼たちとも、きっと会える」

「天国って、何?」

「亡くなった吸血鬼たちが行く場所なんだよ。お空の上にあって、とっても素敵な場所なの。そこではどんな吸血鬼も幸せに暮らせて、誰も寂しい思いなんてしないんだ」


 真理愛は子どもに話して聞かせるように天国について語った。ディアマンテの構想は知らないが、少なくとも吸血鬼を罰する場所ではないだろう。それに、子どもに話して聞かせるなら夢のような場所であるべきだと思った。


「僕もそこに行ける……?」


 カイルスは不安げに瞳を揺らしていた。真理愛はカイルスの肩にそっと手を置いた。頼りなくて細い子どもの肩だったが、期待を背負える可能性を感じさせた。


「きっと行けるよ。私があなたにお菓子をあげたこと、覚えてる?」


 カイルスはきょとんとしたが、じっと考えているうちにあっと声を上げた。


「覚えてる、覚えてるよ。甘い焼き菓子でしょ? あれをくれたの、お姉ちゃんなの?」

「そうだよ。あなたに捧げたものなんだよ。あなたに叶えてほしいお願いがあるの」


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