人は地に
体力と気力が回復してもなお、クラウディオと対峙するのは恐ろしかった。彼を前にしただけで体が震えるほど絶大な力を感じ、ひれ伏して許しを請うべきだと思うほどだった。
そう感じる自分が、変わってしまった彼が、悲しかった。
「クラウディオさん、そこを退いてください」
声を発しただけで疲労感を覚えるほど空気は重かった。この場だけではなく、世界の全て、空気や光に至るまでクラウディオの支配下にあるのだと理解する。
クラウディオは足を止めた。真理愛をじっと見つめるその目からは、強い猜疑心が見て取れる。
「いいや、できない。あなたを門に近づかせるつもりはない。あなたが行くべき場所は元の世界だけだ」
「でも、私の魂を捧げないでも世界を救えるかもしれないんです」
反射的に言葉を返してから、クラウディオを説得しないと約束したことを思い出したが、もう手遅れだった。
「ではあなたは何を捧げる? あなたはあなたのままで戻って来られるのか? そもそもあの闇に足を踏み入れて戻って来られる確証はあるのか? その魔法使いが信用できるという証拠は? なぜ私よりその魔法使いの手を取る?」
舌鋒鋭く質問攻めされ、真理愛はたじろいだ。しかもその質問がやけに冷静なので、だめだと分かっていても、彼がまだ正気なのではと期待してしまう。
「何を捧げるかはまだわかりません、危険かもしれません、でも――」
「ならやめなさい」
ぴしゃりと否定され、真理愛はかちんときた。
「そんなのおかしいでしょう、私に危険なことは何もするなって言うんですか?」
「そうだよ、あなたはすでに十分傷ついた、もうこの世界のために傷つく必要はない」
「そういうあなたは? 吸血鬼たちを殺すのも、世界を壊すのも、本当はやりたくないはずです」
「あなたが知っている男はそうだったかもしれないけど、私は誰しもが思っていたような怪物に成ったんだよ」
真理愛が何と言い返そうか考えていると、耳元でディアマンテの声が聞こえた。
「喧嘩してるんじゃないよ馬鹿、説得はしないと約束したじゃないか。向こうは言葉を発してるだけであんたと会話する気なんてないよ。こっちの隙を窺ってるだけさ」
背後にいるディアマンテが魔法で真理愛にだけ聞こえるよう声を届けてきた。あらかじめ念話をすると言われていたが、実際にやると反応しないようにするのが大変だった。
「それはそちらも同じことでは?」
と、クラウディオが言った。それはまるでディアマンテの念話を聞いて口を挟んだようだったので、真理愛は硬直した。クラウディオの目線がディアマンテへと向けられているのを見て、まさしくその通りなのだと理解させられた。
「私を無力化できないかずっと隙を窺っているんだろう。そして地獄の門に彼女を送りこもうとしている。あの時は随分遠くまで飛ばされてしまったが、同じ手は食わない」
「人の話を盗み聞きとはいい趣味してるね、あんた」
ディアマンテは念話をすぐにやめて声を発して言った。
「世界中を支配下において、また魔法で私に負けるのがそんなに怖いかい?」
それはあからさまな挑発だった。ディアマンテは魔法ではクラウディオに敵わないと言っていたはずなのに、なぜか彼女は魔法での勝負へと誘導していた。
クラウディオは一瞬眉根を寄せたが、すぐに無表情になった。
「……もう壊してしまったが、あるレリーフによって魔法の行使ができないことがあった。とあるパターンが魔法の成立を妨害する性質を持っているためだ」
クラウディオが一歩踏み出した瞬間、空気の感触が変わった。重かった空気がさらに重みを増した。背後でディアマンテが息を呑んだのが聞こえた。それが演技か本気か、真理愛にはわからない。
「今、それを世界中に張り巡らせた。もう私以外の誰も、魔法を使えない」
クラウディオは悠然と歩み寄ってくる。ゆっくりとだが確実に距離を詰められ、真理愛は助けを求めて後ろを振り返った。ディアマンテはぶつぶつと呪文らしき言葉を唱えており、こちらを見なかった。真理愛にはその意図は理解できなかったが、ディアマンテがまだ諦めていないのは理解できた。
真理愛は震える手で鞄から銀のナイフを取り出した。どうにか鞘から引き抜いたが、鞘を持っていられず地面に落とした。
クラウディオはナイフを一瞥したものの、その歩みは止まらなかった。
「来ないでください、お願いですから」
「その頼みは聞けないよ。私はあなたを助けたいだけだ、どうか私を拒まないで」
真っ白な手が伸びてくる。真理愛は反射的に顔を背け、ナイフを振り回した。攻撃の仕方など当然知らないので、そうすることしかできなかった。
ぴしゃっと何かが地面に撒き散らされる音がした。
真理愛は赤い水の落ちた地面を見て、それから前を向いた。クラウディオの真っ白な手のひらに一筋赤い線が引かれていた。そこからぽた、ぽた、と血が流れて落ちていた。
手からナイフが滑り落ち、地面にぶつかって甲高い音を鳴らして、音は真理愛の耳に溶けて耳鳴りとなった。
真理愛は現実から遠ざかるように一歩一歩後ずさった。そうすることで、全てが視界に収まるようになっていく。
地面に落ちた血とナイフ、手のひらの雪原に氾濫する赤い河、驚愕で見開かれた瞳。その唇が動いていたが、何を言っているか聞こえなかった。
遠くに見える瓦礫の山が崩れた。地震が起こり、地面がぱっくりと裂けていく。瓦礫を飲み込み、光さえ呑む暗黒が裂け目の向こうにはあった。
「聖域の門を開くのに必要なのは魔法ではない、ただ言葉によって呼び掛ければいい。奉献を求める我らのために道をお示しください、と。それから、地獄の門と呼ぶのはやめておくれ、本来それは、天国の門だった」
耳鳴りに紛れてディアマンテの声が聞こえた。
「余計なことを」
苛立たし気に言って、クラウディオが地面を強く踏みしめた瞬間、ディアマンテの姿が消えた。あっという間のことだった。
ひときわ強く地面が揺れ、真理愛はよろめいた。次の瞬間、視界には青い空だけが映っていた。足を踏み外したと気づいた時には、背中がひんやりと冷たい闇の表面に触れていた。門の闇に完全に飲まれると、真理愛の意識は途絶えた。




