ちくわで味噌汁を吸う女
彼女が夜な夜なキッチンで行っているそれは、食事というより、ひどく私的な「吸入」の儀式だった。
午前二時。換気扇の低い音だけが残る台所で、彼女は小鍋の味噌汁を温めている。
具は沈んでいた。豆腐とわかめ。湯気の向こうで、彼女は椀に汁を注ぐ。
取り出したのは、蓮華でも箸でもない。
一本の、冷え切ったちくわだった。
彼女はそれを太い煙管のように咥え、片端を味噌汁へ沈めた。
頬がわずかに窄まる。
ズ、ズズ。
細い穴を、熱い汁が昇っていく。
静かな台所には不釣り合いな、湿った通過音だった。
私は廊下の闇から見ていた。
彼女の指に挟まれたちくわは、吸われるたびに色を変えた。乾いていた焼き目が濡れ、魚肉が熱を含み、少しずつ柔らかくなる。やがて先端が自重に負けて垂れ下がると、彼女はそれを噛まずに口へ収めた。
私は味が分からない。
甘い、辛い、酸っぱい。その区別はつく。だが、どれも舌の上に記号として現れるだけだった。食事をしても、身体のどこにも届かない。温かいものを飲んでも、胃の中に温度が落ちていくだけだ。
だから私は見ていた。
ちくわを通った味噌汁だけは、彼女のどこか深い場所へ届いている。
まつ毛の小さな震えを見れば分かった。
彼女は汁を飲んでいるのではない。
世界から、何かを吸い上げていた。
◇
器から直接飲む味噌汁は、私には強すぎる。
熱は一度に口へ入り、舌と喉を乱暴に占領する。味噌の塩気も、出汁の匂いも、形を持たないまま押し寄せてくる。
私はそれを受け止めきれない。
けれど、ちくわを通せば違う。
細い穴を進むあいだに、熱は少し冷める。
汁は魚の塩気と焦げた匂いを拾い、急がずに私の口へやってくる。
ズ、ズズ。
味噌汁がちくわの中を通っている。
その短い時間だけ、私は世界が私のために細く絞られているように感じる。
多すぎない。
速すぎない。
熱すぎない。
ちょうど一本分だけの世界。
「ああ」
声が漏れる。
ちくわは吸うたびにふやけていく。
硬かった管が唇の近くから柔らかくなり、最後には形を失う。その崩れかけた端を舌で受け入れると、味噌汁の熱と魚肉の塩気が、ようやく同じものになる。
廊下に誰かいることは知っていた。
冷たい視線だった。
だが、嫌ではなかった。
あの人は、私が何をしているかではなく、何が起きているかを見ている。
◇
私は街中のスーパーと練り物屋を回った。
肉厚、穴の直径、焼き目、弾力。
買っては切り、測り、湯に浸した。
薄すぎれば、汁を吸い上げる途中で裂ける。
厚すぎれば、抵抗が強い。
穴が広ければ熱が一気に通り、狭すぎれば味噌が詰まる。
理想の導管は、外径二十四ミリ、内径八ミリ。
焼き目は不規則で、表面に細かな凹凸があるもの。
私は選び抜いた一本を彼女へ差し出した。
「これを使ってくれ」
彼女は驚かなかった。
前からそうなることを知っていたように受け取った。
その夜から、私たちの調律が始まった。
私は味噌を量った。
湯の温度を測った。
ちくわを室温へ戻し、穴の中に裂け目がないか確かめた。
彼女は私の前で吸った。
ズ、ズズ。
ちくわの表面に水滴が浮かぶ。
焦げ目を伝って一滴が落ちる。
私は指で管を支えた。
熱を含んだ魚肉は、思っていたより柔らかかった。
「……ん」
彼女はさらに吸った。
汁がなくなると、ちくわの先端が折れた。
唇から落ちかけたそれを、私は口で受け止めた。
温かかった。
味は、分からなかった。
それでも初めて、何かが喉を通った気がした。
◇
それから、部屋は少しずつ変わった。
味噌汁を作っていない時間にも、甘じょっぱい匂いが消えなくなった。
壁はいつも湿っていた。
水道管の奥から、ときどき小さな吸引音がした。
ズ。
最初は一度だけだった。
数日後には、壁の中を何かが這うように、台所から浴室へ、浴室から寝室へと音が移動した。
ズ、ズズ。
蛇口をひねると、水ではなく、薄い味噌汁が出た。
私たちは驚かなかった。
ちゃぶ台を挟み、同じ椀へ二本のちくわを沈めた。
向かい合って、それぞれの端を咥える。
ズズ、ズ、ズズズ。
二つの音が重なる。
私のちくわを汁が昇る。
彼女のちくわを汁が昇る。
椀の表面が揺れるたび、部屋の壁も同じように脈打った。
壁紙の継ぎ目が開き、その奥から、茶色い焼き目のついた柔らかな管が現れた。
一本ではなかった。
天井裏にも、床下にも、壁の中にも。
この部屋を通っていたはずの水道管も、ガス管も、排水管も、すべてちくわに置き換わっていた。
無数の穴が、私たちの椀へつながっている。
ズズズズズ。
部屋中が吸っていた。
彼女が目を閉じる。
私も目を閉じた。
味は、まだ分からない。
だが、今度は確かに届いていた。
熱が、私の喉を通り、胸の奥へ落ちていく。
その先で、長いあいだ空洞だったものが、ゆっくり満たされていく。
私たちは椀へ顔を近づけた。
二本のちくわは吸われながら柔らかくなり、中央で垂れ、その先端同士が触れた。
ズ、と最後の一吸い。
椀は空になった。
その夜、隣人は壁の向こうから聞こえる音で目を覚ましたという。
ズ、ズズ。
翌朝、部屋には誰もいなかった。
ちゃぶ台の上には空の椀が一つ。
その中へ、壁から伸びた無数のちくわが先端を沈めていた。
汁はもう残っていない。
それでも部屋のどこか深いところから、吸う音だけが、いつまでも続いていた。




