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ちくわ幻視行  作者: 堀吉 蔵人


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2/3

ちくわで味噌汁を吸う女

 

 彼女が夜な夜なキッチンで行っているそれは、食事というより、ひどく私的な「吸入」の儀式だった。


 午前二時。換気扇の低い音だけが残る台所で、彼女は小鍋の味噌汁を温めている。

 具は沈んでいた。豆腐とわかめ。湯気の向こうで、彼女は椀に汁を注ぐ。


 取り出したのは、蓮華でも箸でもない。


 一本の、冷え切ったちくわだった。


 彼女はそれを太い煙管のように咥え、片端を味噌汁へ沈めた。

 頬がわずかに窄まる。


 ズ、ズズ。


 細い穴を、熱い汁が昇っていく。

 静かな台所には不釣り合いな、湿った通過音だった。


 私は廊下の闇から見ていた。


 彼女の指に挟まれたちくわは、吸われるたびに色を変えた。乾いていた焼き目が濡れ、魚肉が熱を含み、少しずつ柔らかくなる。やがて先端が自重に負けて垂れ下がると、彼女はそれを噛まずに口へ収めた。


 私は味が分からない。


 甘い、辛い、酸っぱい。その区別はつく。だが、どれも舌の上に記号として現れるだけだった。食事をしても、身体のどこにも届かない。温かいものを飲んでも、胃の中に温度が落ちていくだけだ。


 だから私は見ていた。


 ちくわを通った味噌汁だけは、彼女のどこか深い場所へ届いている。

 まつ毛の小さな震えを見れば分かった。


 彼女は汁を飲んでいるのではない。


 世界から、何かを吸い上げていた。



 ◇


 器から直接飲む味噌汁は、私には強すぎる。


 熱は一度に口へ入り、舌と喉を乱暴に占領する。味噌の塩気も、出汁の匂いも、形を持たないまま押し寄せてくる。

 私はそれを受け止めきれない。


 けれど、ちくわを通せば違う。


 細い穴を進むあいだに、熱は少し冷める。

 汁は魚の塩気と焦げた匂いを拾い、急がずに私の口へやってくる。


 ズ、ズズ。


 味噌汁がちくわの中を通っている。

 その短い時間だけ、私は世界が私のために細く絞られているように感じる。


 多すぎない。

 速すぎない。

 熱すぎない。


 ちょうど一本分だけの世界。


「ああ」


 声が漏れる。


 ちくわは吸うたびにふやけていく。

 硬かった管が唇の近くから柔らかくなり、最後には形を失う。その崩れかけた端を舌で受け入れると、味噌汁の熱と魚肉の塩気が、ようやく同じものになる。


 廊下に誰かいることは知っていた。


 冷たい視線だった。

 だが、嫌ではなかった。


 あの人は、私が何をしているかではなく、何が起きているかを見ている。



 ◇


 私は街中のスーパーと練り物屋を回った。


 肉厚、穴の直径、焼き目、弾力。

 買っては切り、測り、湯に浸した。


 薄すぎれば、汁を吸い上げる途中で裂ける。

 厚すぎれば、抵抗が強い。

 穴が広ければ熱が一気に通り、狭すぎれば味噌が詰まる。


 理想の導管は、外径二十四ミリ、内径八ミリ。

 焼き目は不規則で、表面に細かな凹凸があるもの。


 私は選び抜いた一本を彼女へ差し出した。


「これを使ってくれ」


 彼女は驚かなかった。

 前からそうなることを知っていたように受け取った。


 その夜から、私たちの調律が始まった。


 私は味噌を量った。

 湯の温度を測った。

 ちくわを室温へ戻し、穴の中に裂け目がないか確かめた。


 彼女は私の前で吸った。


 ズ、ズズ。


 ちくわの表面に水滴が浮かぶ。

 焦げ目を伝って一滴が落ちる。


 私は指で管を支えた。

 熱を含んだ魚肉は、思っていたより柔らかかった。


「……ん」


 彼女はさらに吸った。


 汁がなくなると、ちくわの先端が折れた。

 唇から落ちかけたそれを、私は口で受け止めた。


 温かかった。


 味は、分からなかった。


 それでも初めて、何かが喉を通った気がした。



 ◇


 それから、部屋は少しずつ変わった。


 味噌汁を作っていない時間にも、甘じょっぱい匂いが消えなくなった。

 壁はいつも湿っていた。

 水道管の奥から、ときどき小さな吸引音がした。


 ズ。


 最初は一度だけだった。


 数日後には、壁の中を何かが這うように、台所から浴室へ、浴室から寝室へと音が移動した。


 ズ、ズズ。


 蛇口をひねると、水ではなく、薄い味噌汁が出た。


 私たちは驚かなかった。


 ちゃぶ台を挟み、同じ椀へ二本のちくわを沈めた。

 向かい合って、それぞれの端を咥える。


 ズズ、ズ、ズズズ。


 二つの音が重なる。

 私のちくわを汁が昇る。

 彼女のちくわを汁が昇る。


 椀の表面が揺れるたび、部屋の壁も同じように脈打った。

 壁紙の継ぎ目が開き、その奥から、茶色い焼き目のついた柔らかな管が現れた。


 一本ではなかった。


 天井裏にも、床下にも、壁の中にも。

 この部屋を通っていたはずの水道管も、ガス管も、排水管も、すべてちくわに置き換わっていた。


 無数の穴が、私たちの椀へつながっている。


 ズズズズズ。


 部屋中が吸っていた。


 彼女が目を閉じる。

 私も目を閉じた。


 味は、まだ分からない。


 だが、今度は確かに届いていた。


 熱が、私の喉を通り、胸の奥へ落ちていく。

 その先で、長いあいだ空洞だったものが、ゆっくり満たされていく。


 私たちは椀へ顔を近づけた。


 二本のちくわは吸われながら柔らかくなり、中央で垂れ、その先端同士が触れた。


 ズ、と最後の一吸い。


 椀は空になった。


 その夜、隣人は壁の向こうから聞こえる音で目を覚ましたという。


 ズ、ズズ。


 翌朝、部屋には誰もいなかった。


 ちゃぶ台の上には空の椀が一つ。

 その中へ、壁から伸びた無数のちくわが先端を沈めていた。


 汁はもう残っていない。


 それでも部屋のどこか深いところから、吸う音だけが、いつまでも続いていた。


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