表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ちくわ幻視行  作者: 堀吉 蔵人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/3

二本のちくわを髪留めにする少女

 

 六月の風は、世界をあまりにも透明に磨き上げていた。


 放課後の音楽室には、西日がまっすぐ差し込んでいた。白いカーテンが揺れ、その向こうから、たどたどしくも美しいショパンのノクターンが聞こえてくる。


 グランドピアノの前に座っているのは、小夜子だった。


 白い肌と、静かな目。長い黒髪。

 誰もが彼女を見ていたが、誰も近づかなかった。


 ――ただ、その頭部に飾られた異物さえなければ。


 彼女の黒髪は、左右で二つに束ねられていた。

 その束を、簪のように貫いているもの。


 二本のちくわだった。


 どこにでもある、茶色い焦げ目のついた練り物の筒。

 それが彼女の髪を留め、西日を受けてわずかに油を光らせている。


 ピアノの音に混じって、魚のすり身の匂いが漂っていた。


 不釣り合いだった。

 だからこそ、目を離せなかった。


 最後の音が消える。

 小夜子は鍵盤から手を離し、入口に立つ私を見た。


「うるさいね」


 彼女はピアノの蓋を閉めた。


「世界が、少しうるさすぎるの」


 そう言って、耳のすぐ上にあるちくわを指差す。


「だから、この穴に吸い込んでもらっているの」


 焦げ目に縁取られた、二つの暗い空洞。


 小夜子は、その向こうにだけ静かな世界があるような顔で微笑んだ。



 ◇



 七月に入ると、教室の空気は湿った熱を帯びた。


 どれほど美しく装っても、ちくわは生ものだ。


 彼女の髪に刺された二本は、朝にはまだ張りがあった。

 だが授業が進むにつれ、頭皮の熱を吸って少しずつ柔らかくなっていく。


「なんか、この辺、生臭くないか」


 前の席の男子が鼻を押さえ、机をずらした。

 教室のあちこちから笑い声が漏れた。


 小夜子は何も言わなかった。

 窓の外の入道雲を見ていた。


 私は彼女の斜め後ろから、髪に刺さったちくわを見ていた。


 表面には薄く湿り気が浮き、焦げ目の間に小さな水滴が光っている。

 そこには確かに彼女の体温が移っていた。


 冷たく整った教室の中で、彼女の頭にだけ、温められた異物がある。


 そのことに、私は妙な安らぎを覚えた。


「汚いって、思ってる?」


 放課後、誰もいなくなった教室で、小夜子が言った。


「思わないよ」


 私は少し考えた。


「ただ、温かそうに見える」


 小夜子は目を見開いた。

 それから、右側のちくわに触れた。


「うん。温かいよ」


 彼女は小さく笑った。


「私の血が、ここに流れているみたいに」



 ◇



 その日の夕方、激しい雨が学校を襲った。


 雨音が窓ガラスを叩き、教室を白いノイズで満たしていた。

 私と小夜子は、薄暗い教室に二人きりだった。


 小夜子は髪を留めていたちくわを、ゆっくり一本引き抜いた。


 片側の黒髪が肩へ落ちる。


 手のひらに乗せられたちくわは、彼女の体温を吸って、驚くほど柔らかくなっていた。


「これ、食べていいよ」


 彼女は私へ差し出した。


 一瞬ためらった。

 けれど私は、それを受け取った。


 指先に伝わったのは、ぬるい温度だった。


 魚の匂い。

 彼女の髪の匂い。

 夕立の湿気。


 私は端をかじった。


 塩気が広がる。

 次に、彼女の体温が口の中へ移ってきた。


 それは味ではなかった。


 温度だった。


「美味しい?」


 小夜子が尋ねた。


「温かいよ」


 私が答えると、小夜子は少しだけ安心したように目を細めた。


 私はもう一本も彼女の髪から抜いた。

 黒髪がすべて肩へ流れ落ちる。


 その瞬間だった。


 教室の音が、急に遠くなった。


 窓を叩いていた雨音。

 廊下の蛍光灯の唸り。

 どこかの教室で椅子を引く音。


 すべてが、二本のちくわの穴へ吸い込まれていく。


 小夜子の輪郭が、雨の向こう側へにじんだ。


「小夜子?」


 呼びかけた声さえ、ひどく遠く聞こえた。


 彼女は笑っていた。


「静かでしょう」


 その声を最後に、教室から音が消えた。



 ◇



 翌朝、空は抜けるように晴れていた。


 小夜子は学校に来なかった。


 彼女の席は、ぽっかりと空いていた。

 クラスの連中は誰も、そのことを話題にしなかった。


 まるで最初から、そこに誰もいなかったようだった。


 私は彼女の机の前に立った。


 机の上には、二本のちくわの残骸が並んでいた。


 水分を失い、細く、硬くなっている。

 昨日まであった温度も、匂いも、もう残っていない。


 私は一つを手に取った。


 耳元へ近づける。


 穴の奥から、かすかな音がした。


 ショパンのノクターンだった。


 たどたどしく、遠い音。

 その向こうに、誰かの指が鍵盤へ触れる気配がある。


 私は目を閉じた。


 世界は、まだうるさかった。


 けれど、それ以来、どうしても耐えられなくなると、私はちくわの穴を耳に当てる。


 すると、ほんの少しだけ。


 魚の焦げた匂いと一緒に、彼女のいた静けさが戻ってくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ