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ちくわ幻視行  作者: 堀吉 蔵人


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ちくわ幻視行

 

 世界は一冊の、退屈な版画集のようだった。

 朝、目を開けた瞬間から、私の視界を埋めるのは白と黒、その間を埋める灰色だけだ。アスファルトのひび割れも、すれ違う人々のコートも、勤め先の壁に貼られた月間目標も、すべて同じ色に沈んでいた。


 あの夕暮れも、私はいつものように薄暗い台所に立っていた。

 スーパーで買った四本入りのちくわ。夕食はそれと、冷蔵庫に残っていた冷たい飯で済ませるつもりだった。


 袋を破り、一本取り出す。


 茶色、だった。


 表面に走る、不揃いな虎斑模様の焦げ目。

 それだけが、モノクロームの部屋の中で濡れたような色を持っていた。灰色の世界に開いた、温かな傷口のようだった。


 私は息を呑み、その不格好な円筒を見つめた。

 中央に穿たれた穴。その奥には、この世界で見慣れたものよりも、はるかに深い黒が詰まっている。


 覗き込んでも、何も見えない。

 ただの暗闇だった。


 けれど私は、なぜか分かっていた。

 これは、そのまま覗くものではない。


 ちくわの端を噛みちぎる。

 冷たく、かすかに塩気のある魚肉が口の中に広がった。私は噛み跡の残る湿った断面を、右の瞼へ強く押し当てた。


 ――その瞬間、温かな橙色が網膜を焼いた。


 そこは、夜汽車の一角だった。

 微かな揺れ。板張りの床。窓の外に広がる闇。


 真鍮製の古いカンテラが、窓辺にひとつ灯っていた。

 芯の焦げる音まで聞こえそうな、柔らかな炎だった。凍えていた眼球の奥へ、その熱がゆっくり染み込んでくる。


「あぁ――」


 声が漏れた瞬間、ちくわが指から滑り、ちゃぶ台へ転がった。

 橙色は消えた。目の前には、いつもの灰色の天井がある。


 立ちくらみのような目眩に襲われた。

 ただの幻覚だったのだと思い、何気なくちゃぶ台へ目を落とした。


 そして、動けなくなった。


 かじりかけのちくわの傍らに、真鍮製の古いカンテラが置かれていた。

 まだ熱を帯び、静かに橙色の炎を揺らしていた。



 ◇


 一度知った温もりを、忘れることはできなかった。

 ちゃぶ台の上で燃え続けるカンテラ。その灯りだけが、この四畳半で確かなものに思えた。


 私は先ほどのちくわを拾い、もう一度、右の瞼へ押し当てた。


 暗闇だった。


 裏返して左目で覗く。何も見えない。

 新しい一本を噛み、角度を変え、また噛んだ。それでも、そこにあるのは冷たい暗闇と、生臭い匂いだけだった。


「かじり方が違うのか」


 残りのちくわも、すべて試した。

 やがてちゃぶ台の周りには、噛み散らかされた茶色い欠片だけが残った。


 夜汽車は戻らなかった。


 それから一週間、私は仕事を終えるとまっすぐ部屋へ帰った。

 昼間は同じ数字を帳票へ移し、同じ確認印を押し、夕方になると机の上を拭いた。誰かが冗談を言っても、笑い声は遠くで鳴る水道管の音にしか聞こえなかった。


 部屋に戻れば、カンテラが待っていた。

 私は毎晩、その炎に手をかざした。


 最後に一本だけ残しておいたちくわを手に取ったのは、七日目の夜だった。

 もう見えなくてもよかった。ただ、あの世界の近くに触れたかった。


 私はゆっくり端をかじり、噛み跡を瞼へ当てた。


 ひやりとした風が吹き込んできた。


 視界が、青く染まった。


 カンテラの橙色に照らされた夜汽車の車内。その窓際に、深い青色のモケットの座席があった。

 誰も座っていない。

 けれど背もたれには、つい先ほどまで誰かがいたような窪みが残っていた。


 行かなければ。

 あの座席に、誰かがいる。


 私は手を伸ばした。

 指先が何かに触れた瞬間、ちくわが瞼から外れた。


 灰色の天井が戻る。

 だが、右手には一枚の布があった。


 純白のレースのハンカチだった。


 鼻先へ近づけると、かすかに石鹸と、知らない花の匂いがした。

 それは、この部屋には存在しない匂いだった。



 ◇


 ちゃぶ台の上に、二つの品が並んだ。

 橙色のカンテラと、白いレースのハンカチ。


 ハンカチの網目を指でなぞるたび、青い座席の窪みを思い出した。

 あちら側には、誰かがいる。

 少なくとも、いた。


 二度目の幻視のあと、私はもう、むやみにちくわを噛まなくなった。

 失敗するのが怖かった。

 スーパーで何袋買ってきても、台所に並べたまま手をつけられなかった。


 仕事中、同僚の口がちくわの穴に見えることがあった。

 書類の丸印も、コピー機の給紙口も、すべてが向こうへ通じる入口のように思えた。


 ただ覗くだけでは、もう足りなかった。

 私は自分の身体ごと、あの夜汽車へ行きたかった。


 霧の深い夜だった。

 私は台所に残っていた一本を手に取った。


 端を深くかじり、湿った断面を両方の瞼へ押し当てた。


 ――ガタン、ゴトン。


 耳元で、鉄輪がレールを踏む音がした。


 そこは、夜汽車の窓際だった。

 窓の外を、見たこともない星々と巨大な山影が流れていく。車体の振動が足元から胸へ伝わり、世界全体がどこかへ向かって走っていた。


「ああ、動いている」


 私はちくわを目元から離した。

 幻視は消えた。


 けれど、音は消えなかった。


 ――ガタン、ゴトン。


 四畳半の床が、小さく揺れている。

 私は窓へ駆け寄り、カーテンを開けた。


 電柱が、隣のアパートの壁が、ゆっくりと後ろへ流れていた。


 私の部屋ごと、このひび割れた一室ごと、見えない線路の上を走り出していた。


 背後で、カンテラの炎が揺れた。

 その脇に、見覚えのない硬い紙が落ちている。


 切断線の入った、古い切符だった。

 行先はない。

 茶色いインクで、小さな文字だけが印字されていた。


 ――『一回限り、有効』。



 ◇


 ガタン、ゴトン。


 振動は、もう肋骨の奥まで届いていた。

 窓の外では、灰色の街が次々と後ろへ置き去りにされていく。


 部屋の四隅が軋み始めた。

 壁紙が端から剥がれ落ちる。


 その下から現れたのは、茶色い虎斑模様の焦げ目だった。


 壁が、天井が、床が、柔らかなちくわの内壁へ変わっていく。

 世界が縮んで私がちくわの中へ入り込んだのか、この四畳半が引き伸ばされて世界を呑み込んだのか。もう、どちらでもよかった。


 私はちゃぶ台から、カンテラとハンカチと切符を拾い上げた。


 目の前には、暗い円筒形の道が伸びていた。

 私はそこへ一歩踏み出した。


 足裏に、湿り気のある柔らかな肉の感触が伝わる。

 カンテラの灯りが、茶色く焼けた内壁を丸く照らしていた。


 私はその光を追って歩いた。


 どれほど進んだだろう。

 トンネルの先が、白く開けた。


 そこは、夕闇の底に沈む小さなプラットホームだった。

 まっすぐに伸びる錆びた線路。頭上には、本物の星が瞬いている。


 私は足元にカンテラを置き、ポケットのハンカチに触れた。


 風の中に、石鹸と花の匂いが混じった。


 遥か彼方から、汽笛が響いた。

 低く、温かな音だった。


 ガタン、ゴトン。


 光を灯した夜汽車が近づいてくる。

 先頭の窓を横切った青い座席。その隣に、白い影が立っていた。


 人の姿だったのか、カーテンが揺れただけなのかは分からない。


 私は切符を握りしめた。

 そして、静かに微笑んで、その光を待った。


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