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第七話『獣共に敬意を払う用意など無いのですが、マスター殿はみんなひっくるめて「ヒト」と呼んでいます』
ドロテーアが言う『向こう』とは、確認するまでも無くトロール達のことだ。
「大臣閣下は恐ろしく腕の立つ密偵を飼うようになったみたいね。
彼等と直接付き合いのある私達ですらこれほどの情報は得られなかったわ。
見る?」
老婦人はベッドの傍の机を指差した。
グリムは机の引き出しから一枚の書状を取り出す。
そこにはトロール達の近況が極めて子細に渡って記されていた。
グリムは唸り、横から覗いたアーリヤは『おや』という顔をした。
「この痒い所に手の届く実に細やかな仕事ぶりは……」
「間違いなくキリゥさん達であります。
トロールやゴブリンが支配する領域の情報を個人名に至るほど集められるのはあのお三方以外にいません」
「だなあ……ただ大臣さんもあんまり連中を使い潰さないで欲しいんだけどなぁ。
俺の代理人でもあるんだから……」
ためつすがめつ書状を眺めながらゴリゴリと頭を掻くグリム。
ドロテーアは軽く驚いたように片眉を上げた。
「なに、ちょっと。
まさか知り合いってわけ?」
グリムは誤魔化すような苦笑いを浮かべ、なぜかアーリヤはドヤ顔で胸を張っていた。
「ま、いいわ。あんたが信憑性を持てるなら話も早いし。
ともかく閣下の使いはこう言ったわけ。
『宜しければ兵をお貸ししましょうか?』ってね」
ドロテーアの微笑に自嘲の色が混じる。
グリムは感情を消した声音で後を紡いだ。
「こうとも聞こえるな。
『助けてやる代わりにお前達の領地を寄越せ』」
「そ。言われるがままに陛下直属の兵を入れれば、遠くない内に我が家は理由をつけてお取り潰し。
この土地は陛下の直轄領になって、結界はヴォルフが再構築して守護者も彼の直弟子達が担うことになるでしょうね。
領民は恐ろしい怪物の魔の手から守られて、ピカピカの新しいご領主サマを迎えてめでたしめでたしってわけ」
ドロテーアが言葉を区切ったその刹那、老婦人の顔に嵐が巻き起こった。
「ざッッッけんじゃないわよッ!!!!」
彼女は咆哮した。
もはや伯爵夫人の仮面も淑女の慎みをかなぐり捨てたそこには猛り狂う一人の老魔女がいるばかりだ。
「あたしと……主人が、このろくでもない領地を使い物になるまで仕上げるのに、どれだけ苦労したと思ってるの?」
小麦も十分に育たない土地、大河も交易路にも通じぬどん詰まりの土地、その土地すらも王都の目を盗んで削り取りにかかる隣領、いつ気まぐれに山を越えて来るやも知れぬトロール達。
それを領民の一人として飢えることなく、誰一人欠ける事無く冬を越えられる領地へ変えたのは誰か。
当然ヨセフィンとボリスではない。二人を残して早世したドロテーアの息子夫婦でもない。
他でも無い、ドロテーアと彼女の夫だ。
「確かに……ボリスはまだ頼りないし、ヨセフィンも未熟よ」
ドロテーアは悲鳴を上げる肺を無理やり押さえつけるように胸に手を当てた。
「でも、でもね。あたしと主人の血と汗が染み込んだこの土地を見す見す明け渡せると思う?」
喉は出来の悪い笛のような音を立てている。
彼女は歯を食いしばり、拳を握り、あらん限りに目を見開いて血を吐くように思いの丈をぶちまけていた。
「いやよ……!
絶対にいや……!!
ふざけんじゃないわ……!」
今にも砕けそうなほど握り固められた拳をグリムの手がそっと覆った。
彼は繊細なガラス細工を包むようにドロテーアの手を取り、彼女の目をじっと見つめる。
「そんなことはさせない」
彼の目はあまりに真っ直ぐで、普段の情けない男とは別人のように輝いて見えた。
「ドリー、俺は約束したはずだ。
お前が助けを必要とする時、必ず俺は傍に駆けつける。
いつでも、何度でも」
グリムは笑った。
懐かしい緊張感の無い笑みを。
飄々というよりは惚けた笑みを。
今のドロテーアには、それが何よりも頼もしかった。
胸が締め付けられるほど嬉しかった。
「グリム……ごめんね…ごめんなさい……」
ドロテーアは泣いた。
熱い涙の雫が幾つもグリムの手元に落ちる。
彼はドロテーアの拳を溶かすように撫でながら、おどけた調子で言葉を重ねた。
「ソッチも色っぽくて悪かないけどね。
どうせならボカァもっとポジテブな言葉が聞きたいなぁ~
ねぇドリーちゃぁ~ん、おねがぁ~い♪」
ドロテーアはくすりと笑みを漏らし、ほどけた手で目元を拭った。
その目にはかつての強気な光が取り戻されている。
「バカね……でも、ありがとう。
グリム、本当に感謝するわ」
「ああ、任せろ。
儀式の最中、いや明日の朝まで誰一人あの山を通さない」
二人は再びお互いの手を握り、視線はより強く相手をかき抱いた。
かつて塔で過した『あの時』の続きのように。
その様子をアーリヤはじっと見つめていた。
胸の中では再び狂おしい物が溢れかえり、真っ黒な津波が喉の奥から噴出しそうだった。
けれどもアーリヤはそれに耐えた。
他ならぬ愛しい主が遥かに自分よりも耐えていたのだから。
◆◇◆
「とにかく……あらためて礼を言うわ。
本当にありがとう。
あんただけが頼りだったわ」
「嬉しい台詞だがそんな顔で言われちゃ喜ぶに喜べないぞ」
「……下の連中、見たでしょう」
「ん…まあね」
下の広間に集まった礼儀正しい見舞い客。
ドレスとスーツに身を包んだハゲタカども。
ドロテーアは疲れたように瞼を落とし、薄く開いた隙間からベッドの天蓋をぼおっと見ていた。
「私も……迷ってはいたの。
いっそ大臣閣下に預けた方が良いんじゃないかって。
本当に嫌になるわ。
あんなに柵を嫌っていたこのあたしが、今では柵に雁字搦め……」
そっけなく鼻を鳴らした。
「笑っちゃう」
殆ど独り言のような調子だったが彼女は再びグリムと目を合わせる。
「でもね……あんな頼りない子達でも、あたしの孫なのよ。
何か…残してあげたい……ただの我侭かしらね」
「いや、人間らしい願いだ」
殆ど間を置かずグリムは答えた。
ドロテーアは軽く瞼を上げ、また細める。
「グリム、気を付けて」
「なあに、朝飯前よ。
戻ったらしこたま食うから宜しくな。
あ、それとデザートの手抜きは無しだぜ」
彼女は小さく笑った。
ただその声は木枯しのように乾いていた。
「甘党も相変わらずね。
ハンナに腕を振るわせるわ」
グリムはアーリヤを伴い、ベッドを離れる。
彼は扉から出る前にベッドで横たわるドロテーアへいつものしまりの無い顔で笑いかけた。
「じゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃい、グリム」
◆◇◆
二人は荷物をまとめ直すために一旦客間へ通された。
間取りとしては屋敷の中に幾つかある客間の中で一番小さい。
しかし広間からは離れていて目立たず、二人にはうってつけの閑静な良い部屋だった。
扉を開いて正面の窓からはよく手入れされた中庭が見渡せる。
すばらしいベッドもあった。
焼き立てのパンのようにフカフカで分厚い羽毛マットレスが敷かれ、アーリヤが二人大の字に並んでもまだ余る大きなベッドだ。
普段のアーリヤなら喜んで飛び込み、グリムを抱き枕にしてたっぷり一日はベッドの感触を楽しむのだと駄々をこねただろう。
だが今の彼女はそれどころではなかった。
グリムはドロテーアの寝室を出たきり一言も発さず、部屋を案内するハンナの言葉に黙って頷くだけだ。
アーリヤは恐ろしくて恐ろしくて、もう彼の顔が見られなかった。
彼女はグリムの背中の下で見えない何かが膨れ上がり、今にも破裂する寸前だったのを感じ取っていた。
そしてそれはドロテーアの部屋にいたときからずっと大きくなる一方だったのだ。
ドロテーアさえ気付かなかったそれにアーリヤだけが気付いていた。
ハンナが部屋を出て行き、足音が聞こえなくなった頃に遂にそれは爆発した。
「マスター殿ッ!!」
アーリヤが飛び付いて止める間も無くグリムは暖炉の角に手を突き、力いっぱい己の額を打ち付けたのである。
「マスター殿ッ!!
止めて下さい! マスター殿!!!」
アーリヤが悲壮な声が部屋に響く。
だがグリムは無言で二度三度と鈍い音を立てながら古い暖炉の石を赤く染めた。
彼の背中にしがみ付いたアーリヤの悲鳴に涙が混じった頃、ようやく彼は暖炉への頭突きを止める。
「俺は間違えたのか……?」
振り向いた彼は割れた額から溢れる鮮血で顔を染め、陰気に笑っていた。
「なあ、アーリヤ。
俺は何をやっているんだろうな?」
グリムはヘラヘラと笑っている。
顔を真っ赤にして薄笑いを浮かべている姿は凄烈だった。
アーリヤは堪らずポシェットからハンカチと消毒液、包帯を取り出した。
「マスター殿、どうして……っ」
「悪い悪い。
ちょっと頭に上った血を抜きたくなったんだ。
おかげで今は良い気分だぜ」
そんなはずは無かった。
グリムは床に『腰を下ろす』というよりは『腰が抜ける』ように脱力して床にへたり込んでいた。
彼は薄笑いを浮かべながらアーリヤの治療を受けていたが、その消耗は隠しようがない。
アーリヤは涙を零しながら手当てした。
こんなに憔悴したグリムを見たことは無かった。
グリムは一見すると不死身のように思える。
不眠不休で旅をし、ダンジョンを破壊し、無数の亡者を支配する強靭さに満ちている。
だがグリムが持つ数々の力と不屈の心の間にはモザイク模様のように脆い部分が紛れているのだ。
ちょうど彼のつぎはぎローブのように。
アーリヤはそれを知っていたはずだった。
自分こそ何をしていたのだ。
この人を守るのではなかったのか?
だと言うのに自分はただあの老婦人に嫉妬するばかりで……!!
グリムの傷口は丹念に消毒され、包帯は秩序正しく巻かれた。
アーリヤは歯を食いしばり、目元を拭う。
あの老婦人は初めから気に食わなかった。
自分の愛しい主と只ならぬ関係にあったことは事実かもしれない。
だが、だからと言って私の大切なこの人を手前勝手な都合で呼び付け、命じ、傷つける権利がどこにあるというのだ?
アーリヤはグリムの頭をもう一度丁寧に調べる。
見落とした傷が無いか、茂みに落とした針を探すような真剣さで確かめる。
あの老婦人がどうなろうと知ったことではない。
伯爵夫人ドロテーア・マキラが病に倒れ、失意の内に領地を失おうとちっとも悲しくなんて無い。
しかしそれでも、それでもだ。
そのために悲しみに沈むこの人を目にするのは我が身を引き裂かれるより辛い。
胸が張り裂けるほど苦しい。
だから。
全く気に食わないけれど、他ならぬこの人のために力を尽くそう。
アーリヤはそう決意した。
「なあ、アーリヤ。
アーリヤにはいつも嫌な想いさせてすまないな……」
「気持ち悪いでありますね。
どうせ改められないなら上辺だけの懺悔など無意味であります。
謝るぐらいならカワイイ小生をもっともっと大事にして下さい。
褒めて下さい。
頭を撫でて下さい」
「アーリヤは世界一可愛いなあ」
グリムは震える手でアーリヤを抱き寄せ、彼女の頭を撫でる。
彼女はグリムのうなじに鼻先をうずめて目を閉じ、彼の愛撫に身を任せた。
グリムに触れられる場所はいつも暖かく、くすぐったい気持ちになる。
胸の奥の自分でも知らなかった部分に、淹れたての紅茶のような温かく芳しい何かが注がれる。
いつだってアーリヤは注がれて初めて『そこ』が空っぽであったことに気付くのだ。
そしてそれがあれば彼女は他に何もいらないのだった。
「俺はこれから竜骨山脈に向かう。
日没までには尾根に辿り着くだろう。
そこで彼らを迎え撃つ」
声に幾らか力を取り戻したグリムは真っ直ぐにアーリヤを見た。
もはや手は震えていない。
「来て……くれるか?」
アーリヤはグリムに負けないくらい彼を真っ直ぐに見る。
彼女は今初めてグリムと同じくらい真剣にドロテーアを守りたいと思っていた。
だから彼女は八重歯を覗かせながら大きく口を開けて笑った。
「イヤであります」
グリムは目が点になった。




