幕間『羅刹笑う』
幕間『羅刹笑う』
竜骨山脈の向こう側は黒々とした古代の森が続く闇の土地だ。
ヒューマン、ドワーフ、エルフ、ハーフリング。
どの種族も踏み入らぬその領域はトロール達のものだった。
オルドー王国が竜骨山脈と名付けた遥かな山脈をトロール達は“ヨトゥンの背”と呼んでいる。
そして今日、ヨトゥンの背の麓には夥しい数のトロールと彼らの奴隷とされたゴブリンの氏族が集結していた。
その数、凡そ一万。
師団規模の軍勢を率いてやってきた黒髪のトロールが天幕の玉座に腰掛けていた。
机に広げられた樹皮製の地図にはヨトゥンの背を挟んで軍勢の布陣と敵地の地形が描かれている。
天幕の正面両脇に立っていた二人のトロールが闇に向かって右腕を斜めに胸へ当てた。
『敬礼』の仕草である。
深い森の底から音も無く巨大な黒毛のトロールが現れた。
トロールは枯葉や小枝で溢れた地面を大きな足で踏みしめているのに綿のように音がしない。
黒い怪物は天幕の前で膝をつき、自らの主へ平伏した。
「我が君。
伝令が戻りましてござりまする」
「嬉しい知らせか?
ドゥルーヴ」
トロールの中でも図抜けた巨漢のドゥルーヴは遠慮がちに頭を上げた。
目線は主の膝元より上には向けられない。
「……は。蛮人どもの妖術師は今宵に儀式を行うようでございます」
ドゥルーヴは主の口元から熱い高揚の吐息が漏れるのを嗅ぎ取った。
「よろしい。
では兼ねてよりの計画通りに。
ヴィマル、バラット。奴隷どもを配置へ付かせろ」
甘い、それでいて圧を持った声が森のしじまに響く。
天幕の前で警護をしていた二人のトロールは天幕の主へ敬礼した後、踵を返してすばやく走り去った。
黒髪のトロールは唇を妖しく歪めて笑う。
「不満そうだな、ドゥルーヴ。
奴隷どもを使うのは性に合わぬか」
「恐れながら、我が君。
先ずもって卑鬼どもを当てるのは戦の常道にござりまする。
しかしながら、あの逸れ卑鬼の巫術師めは……」
「信用ならぬと?
オレが使うと決めた者を、今になってそれに値せぬと申すのだな」
その声は詰問すると言うよりは面白がっていた。
だがドゥルーヴの腹の底に冷たい糸が結ばれる。
彼は目線を主のつま先まで下げた。
「滅相もござりませぬ。
ですが、いかな忠犬と言えど首綱は必要かと」
ドゥルーヴの頭の上からくぐもった笑い声が降ってきた。
「特に差し許す。
近う寄れ」
「……恐れながら、我が君。
今宵は未だ待宵の月。
すみやかにガビーアを呼んで参り」
「来い」
主の命を断る術は無かった。
ドゥルーヴは胸の内で同じ王配の兄弟に深く詫び、謝意の贈り物を幾つか選んでから主の膝元へ進み寄った。
「愛い奴。
オレはお前の真面目腐ったところが好きで堪らんぞ」
主の細い指先がドゥルーヴの針金のような顎鬚をくすぐった。
それだけで剥き出しの骨と神経を撫でられるような悦楽の電流がドゥルーヴの全身に迸る。
そのまま顎を持ち上げられると主の闇色の瞳と目が合った。
主は美しかった。
この上もなく美しいトロールの女だった。
トロールは無数の男達を一握りの女が支配する種族なのだ。
そしてトロールの女はみな男達よりも小さく、華奢で、美しく、なお男達よりも強かった。
「我が君。
真に恐れながら、問答をお許し願えませぬでしょうか」
「真に価値ある問いこそ深い躊躇いを伴うものだ。
申せ」
主の許しを得てなお、深い一呼吸の準備を要した。
戦の運びに疑問があるわけではない。
そもそも立案は参謀たるドゥルーヴの務めだ。
斥候の情報に寄れば山向こうの蛮人の妖術師は長くない。
結界の途切れは目に見えている。
卑鬼の巫術師も結界をこじ開ける巫術は確かだ。それはドゥルーヴもこの目で見た。
弱った結界の継ぎ目を突破した後は蛮人の長が住まう屋敷を襲う隊と迂回して街を襲う隊に分ける。要所に伏せる兵の準備も出来ている。
そして屋敷には既に尖兵が潜ませてある。外様の巫術師が用意した蛮人であることが気がかりではあるが。
あの街を奪い取った後はすぐさま次の街へ進む手立ても済んでいる。
挟撃を避けるために、出発前には街を焼き捨てる。
そのための鉱油は既に十分な量が用意されている。
また戦の意義を疑ってもいない。
トロールたちの土地は痩せた土地だ。
先の冬は特に厳しく、兄弟達が何人か倒れた。
ドゥルーヴは無事だったが手持ちの奴隷達の中で勇猛な者は逃げ出し、そうでないものはみな死んだ。
今年の冬は更に厳しい。既に兆候もある。
ソラナルの実は既に秋の味がした。
暖かい豊かな土地と蓄えが必要だ。
だが懸念は残った。
「司祭達は此度の我が君の征伐を快く思ってはおりませぬ。
我が君は恐ろしくは無いのですか?」
主の目がたくらむように笑った。
「暗愚な司祭どもがか?
それともまさか、ヨトゥンの背に潜むという『七つ尾の禍津神』がか?
ドゥルーヴ、迷信は勇者に相応しくないぞ」
「我が君、恐れながら迷信は迷信を呼ぶだけの『何か』あってこそのもの……
いえ、我が君がそれをご存じ無いとは到底思えませぬ」
「不遜な物言いだな?」
主は笑いながらドゥルーヴの顎に軽く爪を立てた。
痛みは無く、むしろくすぐったいほどだ。
しかしそれは竜のかぎ爪に等しい。
それでもドゥルーヴは目を逸らさなかった。
「何を……お求めなのですか?」
主は唇の端を企むように吊り上げ、ドゥルーヴを開放した。
そのまま含んだ微笑を浮かべつつ、椅子に背を預ける。
「一族のため、名誉のため、富のため……どれも正しいな?
だが肝心のオレ自身が欲するところは……本音を言えばオレにも分からん。
ところが分からんというのにオレはあの国が欲しい……いや」
主は天幕の外を見た。
ヨトゥンの背の力強く青い尾根を見通し、その向こうを見ていた。
「喉から手が出るほどオレの欲するものが……そこにある。
何故か今になってそう思えてならんのだ」




