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空飛ぶ少女の弟(2)


 それから青子が黒介の部屋の窓をノックすることは無くなった。

 黒介は心の表面では(良かった。もう俺には関係ない)と安心してみたが、心の奥底がモヤモヤとしていた。それがなんとなく分かって、なんだかイライラする。

 その日の夜――九時くらいだったか。一階の居間にいた黒介は、二階に上がった。部屋で漫画でも読もうと思って上がれば、バルコニーに繋がるドアが少し開いているのに気付いた。

 もしかしてと思ってドアを開ければ、青子がバルコニーから浮かび上がり、空へと飛んでいく姿が見えた。

「青子!」

 思わず呼ぶと、青子は振り返る。

 黒介を見ると、へらりと笑った。

 そして、軽く手を振ると、空へと吸い込まれるように飛んでいく。

 呆然と黒介をその背中を見ていた。

 そして、そのときになぜか――悟った。

 母親が、妹が、父親が、黒介が、姉を見捨てたのではない。

 姉が、家族を捨てたのだ。


 黒介は姉に捨てられたのだ。


 その事実が、衝撃だった。

 黒介が捨てた、関係ないと思っていたのに――本当は逆だったなんて。

 そんなことが、こんなにもショックだなんて。

 今まであんな態度をとっておいて、どうしてそんなことを思うのか全然分からない。

 これが血の繋がりというものなのか。

 それとも自分が見捨てたと思っていたものに捨てられて、プライドが傷ついたのか。

 でも、もう二度と青子はこの家に帰ってこないかもしれない。

 今までの家族の態度を考えれば、そうなってもおかしくない。

 そのときこそ、青子が家族を捨てたなによりの証拠だ。

 その日、黒介は怯えながら、青子の帰りを待った。

 窓の鍵も開けておいた。

 バルコニーの鍵は、二階に上がってきた母親が閉めていたことも分かった。母親は戸締りをしているだけなのかもしれないが、黒介には母親が青子を追い出しているように見えた。母親が寝室に入ってから、黒介はバルコニーに続くドアの鍵も開けておいた。

 部屋に窓のない青子は、戸締りをされると家の中に入ることができない。だから、黒介を頼っていたのだと、やっと分かった。

 ずっと待っていたが……いつの間にか眠っていた。

 ハッとして起きたときには、もう朝になっていて。

 黒介は慌てて青子の部屋へと向かった。

 中に青子の姿はなかった。

 居間に行って、母親と顔を合わせる。顔色の悪い黒介を、母親は心配した。青子以外には、母親はあくまで普通の母親だった。

 そのことが、今はなんだか恥ずかしかった。怒鳴りたくなった。なじりたくなった。「お前のせいだ」と叫び、「どうしよう」と泣いて縋りたくなった。

 それでも黒介はなにも言えない。

 そして、登校するため家を出るとき、青子が帰ってきた。

「あ……」

 目が合う。いつもなら何も言わずに通り過ぎる。

 でも、黒介は心底安堵して、思わず笑った。

「おかえり」

 青子はキョトンとして黒介を見ていたが、へらりと笑った。そして、言う。

「ただいま」

 ――その夜、黒介は青子の部屋に行った。

 まだ飛んでいく前で、青子は布団の上に座っている。

 そこで黒介は言った。

「帰ってきたとき、俺の部屋の窓開けるから」

「……ん」

 それから青子は帰ってくるときは、黒介の窓をまたノックするようになった。

 黒介が中学に上がってからは、バルコニーの鍵を開けるようにしておいた。――黒介も思春期で色々あるのだ。

 もしバルコニーの鍵が閉まっていたら、黒介の窓をノックするように伝えた。

 朝帰りすることも増えたが、青子は必ず帰ってくる。

 今のところ、まだ青子は帰ってきてくれる。

 それさえ分かっていれば良かった。


   ※   ※   ※


「ねえ、クロ。これ見てよ」

 妹が母親のスマホを持ってきた。まだスマホを買ってもらえない妹は、よく母親のスマホをいじっている。

 その画面には、動画が映っている。

 遠く顔も見えない誰かが空を飛び、そして、落ちていく姿だった。

 黒介はぞっとして言葉が出来ない。しかし、妹はニヤニヤと笑っている。

「これ、青子かな?」

「そんなわけねーだろ」

 そう言いつつ、黒介はこれが青子にしか見えない。

 一応、妹には母親には言うなと釘を刺しておく。「分かってるよ、めんどくさいし」と妹はニヤニヤと笑った。

 黒介は部屋に戻って、また怖くなる。

 黒介もスマホは持っていない。青子と連絡が取ることもできずに、ずっとモヤモヤしていたが……夜に青子は帰ってきた。

 玄関ドアが開いた音を聞いて、黒介は本当にホッとした。

 居間には顔も見せずに青子は二階へと行く。黒介は追いかけるように、二階へと行った。

 青子は黒介の部屋の前にいた。

「青子」

「クロ」

 振り返った青子は、ちょっとだけ驚いていた。黒介が部屋の中にいると思っていたのだろう。

 あの動画のことを聞こうとしたとき、青子が先に言った。

「柊は女の子だよ」

「え?」

「柊がクロに言えって言ってたから」

「は?」

「あ、あと……滉くんと付き合うことになった」

「へ?」

「うん、まあ……それだけ」

 そう言って、青子は部屋に戻っていこうとする。

 いや……。

「ちょ、待て待て待て」

「なに?」

「なにじゃなくて」

 滉くん、というのは青子のバイト先に来ていた男のことだろう。

 ノートを買いに行くために父親に車で本屋まで乗せて行ってもらい、その後に青子のバイト先に迎えに行った。父親に青子のバイト先が近いと言うと、いつもの罪滅ぼしのつもりか青子を迎えに行こうと言ったのだ。結局、一緒に帰らなかったが……。

 そのとき会った滉くんは、黒介に対しても警戒しているようだった。だから、てっきり青子の彼氏だと思っていた。

 そうだ。その後に、青子がシュウという男の家に行っているというから、二股か、ビッチなのかと軽蔑してしまって……。

「柊……って、え、女?」

「そう。……勘違いしてた?」

「……してた」

「柊の言う通りだったんだ」

「え、じゃあ……え……。で、滉くんと付き合う?」

「そう」

「あー……そう、うん。まあ、別にいいけど……」

 あの勘違いから最近、態度が悪くなってしまった自覚がある身としては、無茶苦茶いたたまれない。

 素直に謝ることも出来ない黒介に、青子はまた部屋に戻ろうとする。

「青子」

 とっさに呼び止めれば、また青子は振り返った。

 小首をかしげる青子に、黒介はやはり謝ることは出来なくて、

「おめでとう?」

 誤魔化すように言っていた。最後の?マークは余計だった気がするが……。

「ありがと」

 青子はへらりと、幸せそうな笑顔を浮かべた。

 そして、今度こそ部屋へと入っていった、

 ついに青子にも彼氏ができた、と。

 別に姉の恋愛事情なんてどうでもいいけど……。

 黒介は、青子が高校を卒業するころには、黒介を含めた家族全員が青子に完全に捨てられることになると思っている。

 そのときに青子が一人じゃないなら。

 青子を大切に想う彼氏でも隣にいるなら、その方がきっといい。

 そう思った黒介は安心したように笑っていたが、それを本人が気付くことはなかった。


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