空飛ぶ少女の弟(1)
柳黒介が人生で飛んだ回数なんて片手で足りるくらいである。
幼い頃――それこそ小学校の間なんて、高く、速く飛ぶことが一種のステータスだ。
飛べる奴がイケてて、飛べない奴なんてありえない。
そんな子供社会で、黒介はあまり飛ぶことが出来なかった。
それで同級生にからかわれたり、馬鹿にされたりすることもある。
黒介が飛べなかったのは理由がある。
姉の青子だ。
青子は高く自由に、どこまで飛んでいけるような子供だった。
そんな姉に怒る祖母や母の姿を見ると、どうしても飛ぼうとは思えない。わざわざうるさく言われることをしようとは思わない。
そういう環境にいたせいか、飛ぶこと事態にも否定的だった。
それが決定的になったのは、姉が縛られている姿を見たときだ。
縛られ、叩かれ、大泣きする姉の姿を見たとき、飛行への嫌悪感は跳ね上がり、恐怖すら覚えた。
もし飛んでいることがバレたら、今度こうされるのは自分だろうと思った。
だからこそ、黒介は同級生にどれだけ馬鹿にされても飛ばなかったし、姉と関わることも避けた。
黒介は姉が嫌いだ。
もともと同級生に馬鹿にされるのも、姉がいるときの母親の異常な様子も、すべて姉が原因だと思っていたのだ。
それは母親の影響をより強く受けている妹もそうだった。
妹にとって、姉はないがしろにしていい存在で、なにをしてもいい存在で、最もどうでもいい存在だった。
だから、妹は自分に不都合なことがあると全部姉のせいにしていた。
自分が悪いことをして怒られそうになれば、最終的に「お姉ちゃんが飛んでた!」と母親に嘘をついて、怒りの矛先をすべて姉に向けていた。
母親も嘘と分かっているのかどうなのか、そういうときは姉を怒鳴り、拘束していた。
そうやって妹は要領よく振る舞っていた。
素直に甘えて、言うこともきく妹を、母親はとても気に入っているようだった。むしろ、姉への当てつけのように、家にいるときこそよく妹を甘やかしていた。
あるとき、妹は姉を部屋から追い出した。
飛べる姉は窓のない部屋の方がいいと主張して、それが通った結果、妹は一人部屋を得たのだ。その代わり、姉は物置部屋に移ることになった。
そのとき、父親がほんの少し姉に同情を見せたが、それだけだった。
父親は、母親の機嫌を損ねることが一番嫌らしく――自分に矛先が向いてうるさいからだと思う――いつも結局は姉を犠牲にしていた。
黒介はそういう家族の様子を、いつも観察していた。
どこか歪な家族だったが、黒介には関係ない。
黒介にまで被害が及ばないならどうでもよかった。
あるとき、そんな母親の態度が一変した。
完全に姉を無視するようになったのだ。
原因は黒介にもすぐに分かった。
子供の落下動画だ。
うちの小学校の近くで起きた、とても高い高度で飛ぶ子供が落ちた事件。そして、それを助ける子供の動画。
それに姉が関係していると、母親は思ったらしい。
母親に残っていた最後の情が、そこでプッツンと切れたのだろう。
姉は完全に母親に見捨てられたのだ。
それが分かったときも黒介は「あーあ」としか思わなかった。姉を馬鹿だとしか思わなかった。なにやってんだか、と軽蔑した。
母親がそんな態度を取れば、それは家族にも伝染する。
よく姉に対して悪口や暴言を吐いて八つ当たりしていた妹も、その存在を完全に無視するようになった。
父親も今までは姉に少しは気を遣って話しかけたりすることがあったが、それを止めた。
姉は家族の誰とも目を合わせなくなった。ご飯が終わればすぐに物置部屋に戻る――これは前と同じか。
そんな中で、黒介の態度は変わらない。
やはり自分は関係ないから、そんな家族の様子を観察した。
全員、馬鹿みたいだと思っていた。
※ ※ ※
黒介が小学六年生、姉が中学一年生のときの、ある晩。
黒介の窓がコンコンと鳴った。
時間は夜十一時。
気のせいかと思ったが、コンコンとまた窓が鳴る。
黒介はヒッと息をのみ、ベッドからずり落ちた。
背中を打って痛かったが、それよりも恐怖が勝った。
なんだ、幽霊か。お化けか。なんなんだ……!
「クロ、クロ」
コンコンという音と一緒に、自分の名前まで呼ばれて「うわあ!」と後ずさる。
逃げなければと思うが、腰が抜けた。
「クロ、黒介。寝た? 起きてよ、クロ」
その声に、ハッと気付く。
恐る恐る窓に近付き、カーテンを少しだけ開ける。
窓の外に、人の顔。
悲鳴すら消えた。
しかし、一応先に予測していたおかげか、パニックにならずに済む。
窓の外の、人。
それは姉の青子だった。
「クロ、クロ。開けて」
姉が窓をノックする。コンコン、と窓が鳴った。
恐怖からの解放感が強くて、まだどこかボーっとした思考のまま、黒介は言われたとおりにした。
鍵を開ければ、青子は窓を開けて部屋の中へと入ってくる。
夜の匂いが一緒に入ってきた。
「ありがと。おやすみ」
それだけ言って、青子は部屋から出ていく。
黒介は呆然とそれを見ていた。
そんなことが、二、三回続いた。
散歩と言って、青子は夜に飛んでいるらしい。
そして、なぜか帰ってくるとき黒介の部屋の窓を使うのだ。
「なんでだよ」と黒介は怒った。青子は、「ここしか鍵が開かないから」とへらりと笑う。
確かに両親も、妹も、青子が飛んでいる姿を見て窓を開けることはないだろう。
なんだか青子にナメられている気がして、黒介は一度鍵を開けなかった。
ノックも呼びかけも無視した。
すると、すぐにそれらの音は消えた。窓の外を見たとき、もう青子の姿はなかった。
その後、青子がどうしたのか分からない。
朝に青子が姿を見せなくても、家族はなにも言わない。誰かが青子の様子を見に行くこともない。
黒介が物置部屋を開けても、青子の姿はない。
別にどうでもいいけど、と黒介は思った。思っていたが、黒介が学校に行くときにちょうど玄関ドアから青子が入ってきた。
父親が出社した後なので、玄関ドアの鍵は開けられていたのだ。
「あ……」
目が合う。しかし、ふいと視線をそらすと、なにも言わずに青子の隣を通り過ぎる。
青子もなにも言わずに二階へと上がっていった。他の家族と顔を合わせないままだ。
家を出ると、心臓がバクバクしていた。
良かった。無事だった。
そう思った。そう思ってから、心から安心した自分に腹が立った。




