空飛ぶ少女と奇跡の男(4)
高校に入って、青子はバイトを始めた。
バイト先に選んだのはラーメン屋のチェーン店である。
接客よりは裏方の方がいいと思ったので、キッチンで野菜を切ったり皿を洗ったりしている。
バイトが終わるのは夜九時。
その日も時間になって、青子は挨拶して裏口から外に出た。
今日は朝から雨が降っていたが、天気予報が当たって夜からは降っていない。しかし、まだアスファルトには湿り気が残っている。
裏口にあるごみ箱の横にしゃがんで、青子はスマホを見た。
休憩室で確認してから五分。新しいメッセージは入っていない。
ふ、と息を吐いて顔を上げると、近付いてくる人影が見えた
夜の暗がりで顔が見えないが、近付くほどにだんだんとハッキリする。
青子は少し驚いて立ち上がった。
人影が――少年が青子を見つける。
青子より頭半分ほど背が高い。丸い顔に、垂れた目をしている。黒縁の大きな眼鏡が、垂れた目をさらに小さくしていた。
「青子」
声変わり真っ最中のかすれた声。
「クロ」
クロ――黒介は青子の二つ下の弟だ。
青子はパチパチと瞬きする。どうしてここに黒介がいるのか分からなかった。
「どうしたの?」
キョトンとして、首をかしげる。
「バイト終わりだと思ったから、ついでに迎えに来た」
「ついで?」
「ノート買うの忘れてて、今、父ちゃんと買いに行ってた。んで、その帰り」
「そっか……」
「あっちの駐車場に父ちゃんいるから」
「あー……」
店の表側にある駐車場へ向かおうとする黒介だったが、青子はためらいを見せた。
黒介は眉根にしわを寄せる。
「……なんだよ」
「あたし、後から帰る」
「は? なんで?」
「……なんでも?」
「はあ?」
不機嫌そうになる黒介に、青子は情けなく眉を下げると――
「青子ちゃん?」
滉征の声が届く。
その声に、青子の表情はへらりと緩んだ。
「滉くん」
しかし、暗がりから見えてきた滉征の表情はどこか厳しい。
黒介を見据えながら、急いで青子に近付いてくると、青子に背を向けるように黒介と向き合った。
黒介は滉征をチラッと見て、青子を見る。この状況に戸惑いを見せた。
「……だれ?」
「滉くん」
黒介の問いに答えれば、そういうことじゃないと言わんばかりの表情を見せる。しかし、軽く頭を掻くと「ま、いーや」とつぶやいた。
「で? どーすんの?」
「自分で帰るよ」
「ふーん」
黒介はまたチラッと滉征を見ると、駐車場のほうへと歩いていった。
その背中をしばらく見てから、滉征は青子へと振り返る。
「青子ちゃん……今の、誰?」
厳しい表情は変わらない。
滉征のこんな顔を見るのは初めてで、青子は戸惑った。
「滉くん、どうかした?」
「どうもしない。……今のって誰? 知り合い?」
どこか冷たい声だ。こんな声も、初めて聞く。
青子はわずかに恐怖を感じた。滉征にそんな感情を抱く自分が信じられない。
「青子ちゃん」
答えを促すように名前を呼ばれて、青子は戸惑いつつ答えた。
「えっと……クロ」
「クロ? それが名前? 知り合いだった?」
「弟」
「……弟?」
滉征の大きな目が、さらに大きく見開かれた。
「……えっ、あ、あー……弟か……」
滉征は深く息を吐くと、両手で顔を覆った。
どこかホッとしたような、恥ずかしがっているような態度である。
いつもの滉征の雰囲気に戻った気がして、青子も息を吐いた。
「あー……焦ったぁ。……それで、クロくんはなんでここに?」
滉征は両手を顔から離して聞いた。
青子はいつものように淡々と答える。
「迎えに来てくれた」
「バイト帰りの青子ちゃんを迎えにきたってこと?」
「そうみたい」
「え、それなら良かったの? 一緒に帰らなくて」
「うん。だって、いつも滉くんと帰ってるし」
滉征はバイト帰りの青子を迎えに来てくれることが多い。塾帰りの時間と重なるから、と。
青子のバイト先は滉征の帰り道とは逆の方向になるのだが、いい運動だから、と滉征は言っていた。
そして、いつもは青子のバイトが終わる前には滉征が到着して待っていてくれるのだが、今日は塾の講師と話があったらしく、迎えに行く時間が遅くなるとスマホにメッセージが入っていたのだ。
さっき青子が裏口を出てスマホを確認したのも、滉征からの連絡を待つためだった。
「滉くんは自転車?」
「うん」
青子はいつも自転車で登校し、バイトにも自転車で来ているが、今日は雨だったためバスを使っていた。だからこそ、黒介もついでに迎えに来てくれたのだろう。
「青子ちゃんはバスだったよね? どうする? 飛ぶ? それとも……後ろに乗る?」
滉征だけが自転車のときは、その横を並走するように飛んで帰ったこともある。
でもなんだか今日は飛ぶよりも。
「うん。乗る」
滉征の後ろに乗ることを選べば、滉征はなんだか嬉しそうに笑ってうなずいた。
※ ※ ※
青子は家に帰ると、そのまま二階へと上がっていった。
階下からは母親と妹の笑い声が聞こえる。バラエティ番組でも見ているのだろう。
二階に上がって、すぐ目の前にあるドアが黒介の部屋のものだ。そして右手に伸びる廊下。黒介の隣が、妹の部屋。そして突き当りが両親のもの。
青子の部屋は妹の部屋の前にある。
青子が部屋に入ろうとしたところで、後ろでドアの開く音がした。
振り返れば、黒介が部屋から顔をのぞかせている。
「……」
「……」
「……」
「……なに?」
青子が聞けば、黒介は部屋から出てくる。
「さっきのって……誰?」
「滉くん」
「だから誰だよ。……なに、いつも一緒に帰ってんの?」
「ん」
「バイト仲間とか?」
「違う。友達」
「友達? 彼氏じゃなくて?」
「友達」
黒介は眉根を寄せた。
「……いつも夜に飛んで行ってんのって、あの人のところか?」
「違う。夜に行ってるのは柊のとこ。滉くんのところに行ったら、柊は絶対に許さないって言ってるけど」
「じゃあ、そいつが彼氏?」
シュウという名前に黒介が性別を勘違いしているとは気付かず、青子はキョトンとする。
「友達だけど」
青子の答えに、黒介の目がスッと冷めた。
最近は黒介からそういう目で見られたことがなかったため、青子の心臓がドクリと嫌な音をたてる。
黒介は嫌悪をにじませて言った。
「なに……。お前、男友達に迎えに来させて、夜は別の男友達の家に泊まってんの? うわ、うぜぇ」
「……え?」
意味が分からずキョトンとする青子が、黒介にはどこかわざとらしく見える。
あのときの滉征の目には、黒介に対しての警戒と嫉妬が混ざっていた。だから、青子の彼氏なのかと思ったのだ。しかし、これではいいように弄んでいるように見える。
「お前、キモイ。いつか見捨てられるわ」
吐き捨てるように言って、黒介は部屋の中へと戻った。そのときドアが、バンっと勢いよく音を立てて閉められる。
青子は、黒介が突然怒りだした意味も分からず、呆然とそこに立っていた。
見捨てられる。
なぜか、黒介の言葉が頭の中を回る。
『滉くんが可哀想だと思う』
いつだったか柊に言われた言葉まで思い出して、青子はなんだか急に怖くなった。
どうしよう――
青子は、いつか滉征にも見捨てられるのかもしれない――。




