空飛ぶ少女と奇跡の男(2)
「青子」
夏休みが終わり、学校が始まって二週間後の放課後。
美術室に向かう途中、後ろからかけられた声に青子は振り返った。
眉が濃く、顔立ちのはっきりした少年が立っていた。
背も高い、なかなかのイケメンである。
「佐南」
「松田な」
すっかりカッコよくなった佐南は、中学に入学して再会してからというもの名前で呼ばれることを嫌がるようになった。実は小学生の頃から嫌がっていたが、青子はすっかり忘れている。
松田と名字で呼ぶように言われているが、青子は佐南と呼び続けている。
嫌がる理由が分からないし、なにより佐南は佐南だ。
いつものように佐南と呼ぶと、佐南は嫌そうな顔をした。
だが、それも今は諦めたように軽く頭を掻いて、廊下の前後を見る。
「あいつは?」
「あいつ?」
「高野」
「……誰?」
「……柊だよ」
「あー……柊の名字だっけ」
柊としか呼ばないため、柊の名字もすっかり忘れていた。
「もう部室行ったんじゃないかな。佐南も来る?」
「なんでだよ」
「柊に用があるんじゃないの」
「違うって。いないならちょうどいいや。あのさ……」
佐南は少し慌てて言うと、声をひそめた。
「あいつ、なんかあったのか?」
「なんか?」
「夏休みに滉くんに会ったんだけど」
「あたしも会ってたよ」
「勉強会してたんだろ。聞いた。滉くんの金髪も見てるんだよな」
「見た。イケメンだった」
「だよな。かっこいいよな」
「今は黒髪イケメンになってる」
「学校始まって色戻したんだ?」
青子はうなずいた。
夏休みが終わる直前まで勉強会は続けていたが、学校が始まる前日に滉征は黒髪に戻していた。
「滉くんはやっぱかっこいいよな」
しみじみとつぶやく佐南に、青子は小首をかしげた。
「佐南はしないの?」
「なにを……って、ああ、金髪? まだしねぇよ」
金髪の滉征に会ったときから、金髪に憧れるようになった佐南だったが、ふとしたことで姉にそれがバレた瞬間、「お前に金髪は5年早いんだよ!」と怒鳴られている。染めたらバリカンだから、と頭を剃るジェスチャー付きで言われたため、最低でも5年は髪を染めることはできない。
そこまで思い出して、佐南は軽く首を振った。
「そうじゃなくて……。そのとき滉くんに、柊のこと気にかけてやってくれって、なんか言われたんだよ。特になんかあったわけじゃないって言うけど……。なんかあったのか?」
佐南は少し怒っているような表情で言うが、それは心配を隠すためのものだ。
柊になにかあったのかと言われても、青子はなにも答えられない。思いつくようなことがなかった。
「さあ、分かんないや。佐南と柊って同じクラスじゃなかったっけ?」
「クラスでも別に変わったところはないんだよ。まあ、よく知らねーけど」
「ふーん……柊に聞く?」
「なにを?」
「……さあ?」
「おい。……まあ、なんかあったら青子に言うと思うけど。別に悩みとかあるわけじゃねえんだろ?」
「さあ? 知らない」
「なんだよ。頼りねーな」
「そう?」
「これじゃ、なんかあっても青子には言わねーかな」
「そうかも」
「そうかもじゃねえだろ。青子がそんなんだから、滉くんも俺に言うんじゃねえの」
「そうかも。佐南の方が頼りになるし」
佐南はぐっと言葉を詰まらせた。
「まあ、青子よりはそうかもな」
少し得意気に言う。
「青子も分かってねーんならいいや。じゃあな」
そうして、佐南はあっさりと部活へと向かっていった。
佐南は今、バスケ部に入っている。一年の頃からレギュラーになっていて、今は部活にハマっている。
佐南の背中を少しだけ見送って、青子も美術室へと向かった。
青子は美術部に入っている。なんとなく絵を描いてみたいと思ったのがキッカケだった。
入ってみると、色を塗る作業が案外楽しいものだと分かった。部員たちとの関係も比較的良好である。
運動部の三年生はもう部活は引退しているようだが、この学校では文化部は十月の文化祭まで三年生は引退しない。
青子が美術室に入ると、ほとんどの部員が来ていた。
みんな、それぞれ話をしていたり、絵を描いたりと好きなことをしている。
二年の女子が集まったグループの中に、柊の姿もあった。
柊は中学に入学すると、青子がいるという理由で美術部に入部した。
同級生ともうまくやっているようで、今もみんながハマっている漫画のキャラを描いている横で、一人その漫画を読んでいた。学校に漫画を持ってくるのは禁止されているが、美術部員はこっそりと持ち込んで部活の時間に読むことが多かった。
部室に来た青子に気付いて、何人かの後輩が「おはようございまーす」と挨拶してきた。朝でも昼でも放課後でも、部活のときの挨拶は「おはようございます」が美術部の伝統らしい。
青子ものんびりと「おはよ」と返して、美術室の後ろ、いつも自分が絵を描いているところへ向かうため柊の後ろを通る。
そのとき、柊の後ろで立ち止まり、なにも言わずにその丸い頭を撫でた。
「え?」
キョトンとして、柊が振り返る。柊の隣で話していた後輩たちも、同じような表情で青子を見た。
何回か撫でて満足すると、青子はなにも言わずにいつもの場所に向かったが、
「うわ」
背後からいきなり抱き付かれた。
犯人はもちろん、柊だ。
「ちょっと。なんですか、もー。なんですか」
柊は明らかに浮かれた声で言うと、ぐりぐりと頭を背中に押し付けてくる。
「柊、痛い。邪魔。歩けない」
「邪魔とかなにそれ。もー、なに。なんなの」
青子が文句を言っても離れることはなく、青子が歩けば、柊が一緒にくっついてくる。
他の美術部員は「またか」と言うように、そんな二人を見ていた。
すっかりお馴染みの光景だった。
※ ※ ※
暑さが和らいでくると、柊の家に泊まりに行くことは無くなったが、天気がいい限り夜の散歩は続けている。
青子がいつものように散歩していると、コンビニの近くで滉征に会った。
滉征は塾が無い日でも、よくこのコンビニに来るらしく、ここに来れば絶対と言えるほど滉征に会える。
青子に会って笑顔を見せる滉征に、青子もへらりと笑い返した。
そして、飛んでいる青子と、歩いている滉征が並んで帰る。
そのときに、青子はふと思い出して聞いてみた。
「柊ってなにかあったの?」
「え?」
突然の言葉に驚く滉征に、青子は続けて言う。
「柊が心配?」
「えっと……なに? 柊になにかあった?」
「なにもないと思う」
「なら、なんで?」
「佐南に聞かれたから」
「……佐南? 佐南がなに?」
「柊になにかあったのかって」
「佐南がなんでって……あー……」
なにかを思い出したように、滉征は口元を押さえた。
キョトンとする青子に、滉征はハハハと乾いた笑みを浮かべる。
「佐南に余計な心配かけさせたかも……」
「うん?」
「それって俺が佐南に、柊のこと気にかけてくれって頼んだから、柊になにかあったのか佐南が心配して、柳さんに聞いたってことでいい?」
「そういうことだったかも」
「それなら気にしなくていいよ。……なんていうか、柊は一人で抱え込むタイプみたいだから、佐南に気にかけてやってほしかっただけで……深い意味なんてないし」
「……そうなの?」
滉征はなぜか慌てて言う。
「ほら……なんか、柳さんも卒業したら、柊もまた寂しくなるだろうし。柊は柳さんのこと大好きだから……。うん、だから……なんだけど……。あー……俺、こういうところが柊に気遣い下手って言われるんだろうな」
なにかを誤魔化すように、でもどこか自嘲するように言う滉征に、青子は小首をかしげた。
「気遣い下手なの? 滉くんが?」
「うん。……まあ、ちょっと前に言われたことあって」
滉征は乾いた笑みを浮かべた。
青子は不思議に思う。
「滉くんは優しいよ」
だから、言った。
「滉くんは優しい」
気遣い下手ではないだろう。
「え、と……気を遣ってくれなくてもいいよ」
滉征はそう言うが、別に青子は気遣って言っているわけではない。
「気を遣ってなんかないよ。滉くんは優しい」
滉征は夏休みも、学校が始まったら週末に、いつも勉強を教えてくれる。
滉征が教えてくれるから青子は勉強するのであり、わざわざそれに付き合ってくれる滉征は十分優しいだろう。
それだけじゃなくて、小学校のときから今までずっと優しい。
色々と出来てない青子の面倒を、嫌がらずに見てくれているのだから。
「滉くんは優しい」
だから、青子は普通に、淡々と、本当のことを言う。何度も。
「…………うん、ありがと」
滉征が口元に手をあてて、顔を伏せた。
飛んでいるため滉征より数センチ高いところにいる青子には、その顔が全然見えなくなる。
「滉くん? どうかした?」
「なんでもないよ、うん。なんでもない」
滉征は顔を上げて、青子を見る。
優しく微笑んでいた。
「俺、頑張るよ。やっぱり柳さんと一緒に高校に行きたいし」
「頑張らなきゃいけないのは、あたしじゃないの?」
滉征はなんの心配もないだろうが、青子は違う。……と、青子は思っている。
しかし、滉征は微笑んだまま「俺も頑張る」と言った。
青子に勉強を教えるのを頑張るという意味だと思って、青子は「うん」とうなずいた。
「あたしも頑張るよ」
※ ※ ※
柳青子。性別、女。
この春、無事に私立山央学園高等部に合格。
現在、高校一年生。
丸い顔に垂れ目。肩まで伸びた柔らかな黒髪。表情も雰囲気も、どこかボーっとしている印象を与える彼女は、
いまだに飛ぶことが出来ていた。




