空飛ぶ少女と飛べない少年(4)
「……っ」
重力に従った髪が下に流れて、おでこが丸出しになっている顔。
頭を下に、体を上に。上下逆さまに浮かんでいるからそんな風に見えるのだ、と気付くのに数秒かかった。
「え、あ……」
吹き荒れていた怒りが、一気に抜けた。
呆気に取られたせいだろう。
逆さまでも、見覚えがある顔だ。そもそも滉征が知る中で、こんな真似ができるのは一人しかいない。
「柳さん?」
小学校の同級生である少女。
滉征のヒーロー。
彼女はくるんと一回転すると、滉征と真正面に目線を合わせた。裸足の足が3センチほど道路から浮いている。
丸い輪郭に、少し垂れた二重の目。全体的にぼんやりというか、のんびりというか、ボーっとしているというか。そんな印象を与える顔立ち。
髪が小学校の時より長くなっている。柔らかそうな髪が、顎のラインまで伸びていた。
Tシャツにハーフパンツという部屋着のようなラフな格好をしている。
小学生の頃は、ベリーショートだったこともあって男子に間違われることもあったと言っていたが、今は間違いなく『女子』にしか見えない。
なぜだか滉征は顔が熱くなって、思わず腕で口元を隠す。
彼女はへらりと、小学生の頃から変わらない気の抜けたような笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、滉くん。こんな時間にどうしたの?」
気の抜けたような言い方も、小学生のときのままだ。
「俺は……コンビニに行こうと思って。……柳さんこそ、こんな時間になにしてんの? ……しかも裸足じゃん」
「散歩」
「裸足で?」
「飛んでるから」
言葉が足りないのも相変わらずだ。
飛んでいるから裸足でも大丈夫ということだろう。
「でも、女子が一人で散歩って危なくない?」
「飛んでるから」
また飛んでいるから問題ないと言いたいらしい。
確かにこの時間は空の方が安全だろう。
大人は飛べないし、こんな時間に飛んでいる子供もいない。
今、この瞬間、この空には彼女一人しかいないのだ。他者から被る危険など一切ない。
「相変わらず、柳さんは空にいるんだね」
小学生の時も、よく空に浮かぶ彼女を見てきた。
ふわふわと飛ぶ彼女のことが、どこまでも自由に見えて憧れていた。
ふいにあの頃とは全然違う自分が恥ずかしくなる。
滉征は視線を落とした。青子のつま先が視界に入る。白い脚先が、夜の闇の中に浮かび上がっていて、視線をはずせなくなった。
「滉くんも飛ぶ?」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
ハッとして顔を上げれば、青子が小首をかしげている。
言われたことを数秒遅れで理解して、滉征は苦笑を浮かべた。
「俺はもう飛べないよ」
小学校の卒業式のあと、青子たちと飛んだのが最後だ。
あれから一度、空を飛ぼうとして飛べなくなっていることが分かった。
あれは中学一年で、成績が落ちてきた頃だ。
個人差はあるものの、一般的には十二歳――中学に上がる頃には子供は空を飛べなくなる。
滉征もその一般に含まれていたのだ。
もともと高所恐怖症で、いつも飛んでいるわけではなかったが、そのときは酷くショックだった。
「飛べないんじゃなくて、飛ばないだけじゃないの?」
しかし、青子は不思議そうに聞いてくる。
「なにそれ?」
「滉くん、あんまり飛ぶの好きじゃなさそうだったから」
確かに高所恐怖症の滉征は飛ぶことが好きではない。
だから、今までの人生で飛んだことなんてあんまりないし、高さもたいしたことはない……が。
彼女の前ではそれを見せないようにしてきたのに、なんでバレているんだ。
だが、バレたくなかった見栄はまだ残っていて、滉征は「そんなことないけど」とぼかして言った。
「嫌いなわけじゃないけど……だいたい、もう飛べなくなってもおかしくない年齢でしょ。俺ら、もう中学生だし。いつまでも子供のままじゃいられないよ」
キョトンとする青子は、自分が飛べなくなるとは考えたこともなさそうだ。
年齢的にはいつ飛べなくなってもおかしくないのに。
「柳さんも、きっともうすぐ飛べなくなる。もうすぐそんなに自由じゃいられなくなるよ。飛べるのは子供だけなんだから。今の年齢で飛んでたらおかしいと思われそうだしさ。柳さんはそんなこと気にしなさそうだけど、自分の見られ方とかさ、考えたほうがいいかもよ。馬鹿にされたくないでしょ?」
青子がゆっくりと目を見開いていく。それはまるで、滉征の言葉を理解する速度を示しているようだ。
その様子に、滉征は苦い気持ちを味わった。
自分が持っている能力を失う。自分の力の限界を思い知る。人から馬鹿にされる。
滉征にとってその感覚は、今まさに自分が感じているものだ。
こんなの、ただの八つ当たりだ。
滉征は思わず視線をはずした。
「滉くん」
逸らした滉征の顔をのぞきこむように、青子は顔を近付けた。
「飛ぼうか」
「え? ……わっ」
すい、と音もなく滉征の背後に回ると、青子は後ろから滉征を抱きしめた。
「わ、ちょ、えっ……」
背中にあたる柔らかい感触とか、首にあたる温かい息とか。
滉征の頭は一気にパニックになった。
「ちょ、マジでなに!? え、柳さん!?」
「行こう」
ぐん、と空に引っ張られるような感覚。
足元の重力が消えた心許なさ。
下を見れば滉征の身長ほど地面は離れて……どんどんそれ以上に離れていく。
「おろ、おろして、柳さん!」
空を飛ぶときの懐かしい感覚。
しかし、それは滉征にとっては恐怖しかない。
背筋が一気に寒くなる。
心臓が縮みあがり、嫌な音を立てている。
滉征の身体は暴れることも出来ないほどに、固まった。
「上。上、見て。滉くん」
「…………っ!」
視線も体も、口も、耳まで固まったように、滉征はもうなにも動けない。
恐怖がすべてを縛りつける。
青子はそんな滉征を落とさないためか、腕の力を強めると、両脚で滉征の脚を挟んだ。
そして、家の屋根を超える高さまで行くと、背中を反らせる。
水の中を泳ぐラッコのように、今度は水平に空を飛ぶ。
どうしても下が気になる滉征は、引き寄せられるように顔を横へと向けた。
そして見えたのは――
「滉くん、前見て」
遠く離れた地面なんかじゃなくて、頬が触れそうなほどに近い青子の顔。
青子の声が、息が、唇に触れるような近さ。
「ぎゃあっ!」
思わず叫んだ滉征は顔の位置を戻す。
心臓がさっきとは違う意味でドキドキとうるさく鳴り始めた。
背中の感触も思い出して暴れ出したくなったが、ここで暴れてしまえば落ちてしまう。
どうしようもない状況に、滉征はぎゅっと目をつむった。
「……滉くん。見えてる?」
青子はなにも意識していないようで、変わらない普通の口調だ。
「な、なにが?」
「前。上? とにかく空、見てみて」
耳元にかかる息にしんどくなりながらも、滉征はうっすらと目を開けた。
「…………っ」
最初に引き付けられたのは、夜の闇に浮かぶ一点の光。
一番星。
「あ……」
一つ気付けば、視界は大きく広がった。
白く輝く月が低い位置にあった。
散らばる星々だって見える。
微かに、
小さく、
瞬くようにいくつも。
でも、満点の星空とは言い難い。
一つ一つ、ポツリポツリとある星は、数えていくことも出来そうだ。
だからこそ宝探しのように次の星を探してしまう。
星をつなげれば星座が出来そうだ。
建物も、そこから発する人口の照明すら届かない、ただ空だけがある視界。
端にまだ薄い紺色が残っていて、深い夜に染まり切っていない夏空の色。
滉征の視界も思考も、すべてが空に染まった。




