第5話:華やかなる略奪者の憂鬱
「お姉様、本当にお可哀想。でも、仕方ないわよね」
私は鏡の前で、新しいドレスを合わせながら小さく呟いた。
王都の屋敷の自室。そこはかつてメルセデスお姉様が使っていた部屋よりもずっと広く、装飾も豪華なものに変えさせた。今の私にふさわしい、公爵家へ嫁ぐ前の準備部屋だ。
お姉様が去ってから、屋敷の中は驚くほど静かになった。
いつもなら、冷ややかな視線で私の行動を監視し、非の打ち所のない完璧な計算で家を取り仕切っていたあの「氷の令嬢」の姿が、どこにもない。
お父様は「これでベルンハルト家も、ようやくお前の時代だ」と喜んでくださっている。
ギルベルト様も、毎日欠かさず高価な花束と宝石を贈ってくださるようになった。
すべてが私の思い通り。完璧な勝利。
そう思っていたはずなのに、どうしてだろう。胸の奥に、得体の知れないモヤモヤとしたものが、少しだけ居座っているような気がする。
「……気にすることなんてないわ。お姉様は、私がお姉様から『一番大事なもの』を奪い取ったことで、自分の敗北を認め、静かに隠居することを選んだのだから」
私は自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
そう、私は勝ったのだ。あの完璧で、周囲から称賛され、常に私の存在を霞ませてきた姉に、完全に勝利したのだ。
婚約者も、屋敷の主導権も、そしてお父様からの愛情さえも、すべては私のもの。
けれど、あのお姉様の最後の微笑みが、どうしてか頭から離れない。
「あの方……どうしてあんなに、穏やかな顔をしていたのかしら」
屋敷を去るあの日、お姉様は一度も私を責めなかった。
それどころか、あのような屈辱的な婚約破棄を突きつけられたにもかかわらず、まるで「ゴミを掃除してくれてありがとう」とでも言いたげな、慈愛に満ちた(今思えば、どこか他人事のような)微笑みを浮かべていたのだ。
普通なら、泣き叫んだり、罵ったりするのが人間ではないかしら?
なのに、あの方は違った。
まるで最初から全てが自分の計算通りであったかのように、淡々と、静かにその場を去っていった。
「まさか、何かを企んでいる……?」
その考えが脳裏をよぎった瞬間、私は激しく首を振った。
「いいえ、ありえないわ。お姉様は、私に婚約者を奪われ、家を追われ、これからは東部の寂れた別荘で、ただの貧乏な令嬢として一生を終えるのよ。今のあの方に、私に対抗できる力なんて残っているはずがないわ」
お父様から譲り受けたあの古い別荘だって、ただの痩せた土地の集まりに過ぎない。
エルナ様から引き継いだ遺品にしても、どれも埃をかぶった古い装飾品ばかりで、換金しても大した額にはならないはずだ。
私は机の上に置かれた、ギルベルト様からの手紙を手に取る。
そこには、『結婚式の準備が着々と進んでいる』ことと、『早く君を自分の妻として公爵家に迎え入れたい』という、情熱的な言葉が並んでいた。
そう、これが私の選んだ道。
華やかな公爵夫人としての人生。それこそが、私にふさわしい幸せなのだ。
「……そうだわ。こんなところで悩んでいても仕方ない。今日は、ギルベルト様と新しい領地の管理について話し合う約束をしているの」
私は気持ちを切り替え、鏡に向かって最高の笑顔を作る。
琥珀色の瞳を潤ませ、少しだけ上目遣いで、男性の庇護欲を刺激するいつもの表情。
私は、誰からも愛され、誰からも羨まれる、完璧な令嬢フロリナ。お姉様のような、冷たくて面白みのない人間とは違うのだ。
午後のティータイム。私はギルベルト様と、王都で一番人気のテラス席にいた。
彼は相変わらず素敵だった。完璧に整えられたシルバーアッシュの髪、私を見る優しいグレーの瞳。
「フロリナ、今日の君は一段と美しいね。……あの冷たいメルセデスとは、大違いだ」
ギルベルト様が私の手を取り、甲に口づけを落とす。
周囲の貴族たちから、羨望の眼差しが向けられるのを感じる。
私は、心の底から満たされるような気持ちで微笑んだ。
「ギルベルト様……。お姉様のことは、もう忘れましょう? 私たちには、これからの未来があるのですから」
「ああ、もちろんだ。……ただ、少しだけ困ったことがあってね」
ギルベルト様が、急に表情を曇らせた。
私は首を傾げる。
「どうしたのですか? 何かあったのですか?」
「……実は、我が家の領地の負債について、少しばかり厄介な話が入ってきていてね。これまでベルンハルト伯爵家が色々と融通を利かせてくれていたのだが、最近、どうも様子がおかしいのだ」
「様子がおかしい……?」
「ああ。これまで滞りなく続いていた支払いの猶予について、急に複数の債権者から『一括で返済せよ』という通達が届くようになったんだ。しかも、どの債権者も、私が直接交渉をしようとすると、代理人ばかりを立ててきて、まともに取り合おうとしない」
ギルベルト様の言葉に、私は胸騒ぎを覚えた。
「それって……誰かが、意図的にやっているということでしょうか?」
「分からない。だが、誰かが裏でクロフォード公爵家の借用書を買い集めている可能性が高い。……まるで、我が家を破滅させようとしているかのようにね」
ギルベルト様は、苛立ちを隠せない様子で、手元のティーカップを強く握りしめた。
私は、彼を支えなければという思いで、その大きな手に自分の手を重ねた。
「大丈夫ですわ、ギルベルト様。私たちが協力すれば、どんな問題だって乗り越えられるはずです。お父様に相談して、ベルンハルト家の資金を……」
「……いや、フロリナ。それも難しいかもしれない。伯爵家の方でも、最近になって急に、これまで管理していた資産の精査が始まっているらしいんだ。君のお父様も、今は自分の家の立て直しで手一杯のようで……」
私は言葉を失った。
伯爵家の資産精査? お父様が?
(そんな……お姉様が屋敷を出ていった直後に、そんなことになっていたなんて)
ふと、お姉様が屋敷を去る直前に言っていた言葉が、頭をよぎる。
『お父様、フロリナ。……これで私も、諦めがつきますわ』
あの方は、全てを知っていたのだろうか。
私が屋敷を乗っ取ったこの瞬間が、実は「終わりの始まり」であったとでもいうように。
「ギルベルト様……私、少し怖いですわ」
私は震える声で呟いた。
テラスを吹き抜ける風が、なぜか急に冷たく感じられる。
ギルベルト様は私の不安を察したのか、優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫だ、フロリナ。何があろうと、私は君を離さない」
その言葉は、まるで何かに追われる人間の、必死の強がりのように聞こえた。
私は彼の胸に顔を埋めながら、鏡の中の自分を見た。
あんなに華やかだったはずの私の笑顔が、どこかひどく脆く、今にも壊れてしまいそうなほど、頼りなく見えた。
(……ねえ、お姉様。あなたは今、どこで何をしているのですか?)
遠く離れた東部の別荘で、あの人は今も、氷のような冷徹な微笑みを浮かべているのだろうか。
私たちが築き上げたはずの幸せが、少しずつ、確実に崩れ去っていく音を楽しみながら。
私は恐怖に震えながら、ギルベルト様の胸にしがみつくことしかできなかった。
もう後戻りはできない。
私たちは、自分たちが奪った「ゴミ」という名の呪いを、自分たちの手で開けてしまったのかもしれない。




