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第21話:砂塵の予感と、王子の憂慮

旅立ちの準備は、メルセデスらしい手際の良さで、しかし極めて隠密に進められた。


王都の喧騒を離れ、西方の辺境へと向かう馬車の中。メルセデスは、セバスチャンが用意した、簡素だが丈夫な旅装に身を包んでいた。かつての華やかな侯爵令嬢の姿はなく、そこにあるのは、未知の市場を切り拓こうとする若き開拓者のような、鋭く研ぎ澄まされた気配だ。


「お嬢様、ディートリヒ殿下がお見えです。……国境の検問所にて、お待ちかねでございます」


御者席からセバスチャンの落ち着いた声が届く。メルセデスは、読み耽っていた母の手記をそっと閉じた。


「……やはり、黙って行かせてはくれませんでしたか」


苦笑まじりに呟くと、馬車がゆっくりと停車した。

王都と西方領を繋ぐ街道の最終地点。そこには、王家の紋章を隠した黒塗りの馬車と、その傍らに立つ緋色の髪の青年――ディートリヒ・フォン・アルスハインがいた。


彼は、メルセデスが馬車から降りるのを待たず、大きな歩幅で歩み寄ってきた。その翡翠の瞳には、隠しきれない焦燥と、そして彼女への深い懸念が渦巻いている。


「メルセデス! 本当に行くつもりか? 『最果ての砂漠』は、王国の法も騎士の剣も届かぬ、精霊と魔獣が支配する混沌の地だぞ」


「殿下、ご足労いただき光栄です。ですが、以前申し上げたはずですわ。私は自分の足で立ち、自分の価値を守り抜くと。……帝国の不当な要求に屈しないためには、今この手にある天秤を、誰にも頼らずに支え直す必要がありますの」


メルセデスは、ディートリヒの前に毅然と立った。

彼らの視線が交差する。一方は愛する女性を危険に晒したくないという情熱。もう一方は、自身の誇りと事業の独立を懸けた、冷徹なまでの決意。


「カトリーナ皇女の動きは、私の方でも掴んでいる」


ディートリヒは、少し声を潜めて続けた。


「彼女はすでに、砂漠の入り口にある中立都市『オアシス・ラピス』に、帝国の息がかかった傭兵団を送り込んでいる。君が原料の自給ルートを探ろうとすることなど、彼女にとっては想定内の動きだろう。……罠が待っているかもしれないんだ」


「想定内であればこそ、こちらがその上を行かなければなりません。……殿下、カトリーナ様が求めているのは、私の『敗北』ではありません。私の『屈服』です。彼女のような人間は、力でねじ伏せた相手を奴隷にするのが一番の愉悦なのですわ。だからこそ、私は彼女のルールではなく、私のルール――等価交換の土俵で彼女を迎え撃ちます」


メルセデスの言葉に、ディートリヒはぐっと言葉を詰まらせた。

彼は知っている。この令嬢が一度決めたことを曲げることはない。そして、彼女が「大丈夫だ」と言うときは、すでに勝算を計算し終えているときだということも。


ディートリヒは深く溜息をつき、自らの腰に差していた、小ぶりの、しかし細工の見事な短剣を鞘ごと抜き取った。


「……分かった。止めても無駄なことは理解している。ならば、これを持って行け。王家に代々伝わる『守護の魔石』が組み込まれた短剣だ。君の魔力結晶には及ばないかもしれないが、不測の事態に君の身を一度だけ守る盾となるだろう」


メルセデスは一瞬、戸惑いを見せた。それは「対等なパートナー」としての契約を超えた、あまりにも純粋な真心の贈り物だったからだ。


「殿下、これほどの品、私のような商売人が対価もなしに受け取るわけには……」


「対価なら、すでに支払われている」


ディートリヒは、彼女の細い手を取り、短剣を握らせた。


「君がこの国にもたらした光。そして、私という人間に与えてくれた、希望という名の価値。……その利息だと思って受け取ってくれ。君が無事に王都へ戻り、また私とティータイムを共にする。それが、この貸しの返済条件だ」


「……殿下は、本当に割の合わない商談がお好きですね」


メルセデスは、少しだけ頬を緩めた。その微笑みは、氷の令嬢と呼ばれた彼女が見せる、数少ない、そしてディートリヒだけが知る「温かな光」だった。


「承知いたしました。この貸し、必ずや利子を付けてお返しいたしますわ。――セバスチャン、行きましょう」


「畏まりました」


メルセデスは再び馬車に乗り込み、一度だけ振り返ってディートリヒに一礼した。

馬車が走り出し、赤茶けた荒野の彼方へと消えていく。ディートリヒはその姿が見えなくなるまで、立ち尽くして見送っていた。


数日後。

馬車の車窓から見える景色は、豊かな緑から、渇いた岩肌とまばらな灌木が目立つ荒涼とした風景へと変わっていた。


「お嬢様、間もなく『オアシス・ラピス』に到着いたします。ここが、砂漠地帯への最後の入り口。そして、帝国の目が最も光る場所でございます」


セバスチャンの警告通り、街の入り口には、王国の衛兵とは明らかに質の違う、重厚な鉄の鎧を纏った帝国の監視員たちが立っていた。


メルセデスは、手元の鏡で自分の姿を確認した。

今の彼女は、没落した貴族の商人を装っている。名前は「メル」。かつての栄華を捨て、砂漠の珍しい交易品で一攫千金を狙う、野心的な女性商人。


「……セバスチャン、母の手記によれば、この街の地下水路の奥に、かつて母が接触した『星を読む一族』の末裔が住んでいるはずよ。まずは彼らと接触しましょう。帝国の犬たちが地上を嗅ぎ回っている間に、私たちは地下から砂漠の心臓部を目指すわ」


「心得ております。……しかしお嬢様、砂漠の民は『価値』を計る基準が、王都のそれとは大きく異なります。金貨や宝石よりも、一滴の水、あるいは一言の『真実』を重んじる者たちです。お嬢様の天秤が、彼らにどう映るか……」


「面白いわね。水一滴の価値が金貨千枚を超える世界。……私の求めていた『真の等価交換』が、そこにあるのかもしれないわ」


街に入ると、熱気と砂の匂いがメルセデスを包み込んだ。

雑多な人込み、香辛料の刺激的な香り、そして奴隷市場の陰鬱な気配。王都の洗練された美しさとは対極にある、生々しい「命のやり取り」がここにはあった。


メルセデスたちは、帝国の監視を潜り抜け、街の端にある薄暗い酒場へと足を踏み入れた。

そこは、砂漠を渡るキャラバンや、訳ありの傭兵たちが集う場所だ。


「……あそこに座っている男に声をかけて」


メルセデスが指差したのは、酒場の隅で、顔をボロ布で覆い、一人で独り言のように何かを呟いている老人だった。彼の前には、水も酒もなく、ただ古い砂時計が一つ置かれている。


セバスチャンが近づき、お嬢様から預かった「ある物」を老人の前に置いた。

それは、母の遺品の中にあった、不思議な紋様が刻まれた魔力結晶の欠片だ。今の王都で普及しているものとは違い、どこか有機的な、脈打つような光を放っている。


老人の動きが止まった。

砂時計の砂が落ちる音だけが響く静寂の中、老人はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、濁っているようでいて、宇宙の星々をすべて映し出しているかのような、深い闇を湛えていた。


「……この光。……二十年ぶりか。あるいは、千年ぶりか」


老人の声は、枯れ葉が擦れるような、微かな響きだった。


「『天秤を持つ女』の娘か。……それとも、砂漠に毒を撒きに来た、帝国の手先か」


「私は、どちらでもありません」


メルセデスは自ら老人の向かいに腰を下ろし、真っ直ぐにその瞳を見つめた。


「私は、この砂漠に眠る『価値』を正当に評価しに来た、ただの商売人です。――私の母、エルザが果たせなかった契約を、私が完成させに来ました」


エルザ。

メルセデスの亡き母の名。

その名を聞いた瞬間、老人の手元にあった砂時計の砂が、逆流するように上へと舞い上がった。


「……面白い。等価交換の誓約者の末裔が、再びこの砂に足を踏み入れるとは。……良いだろう、小娘。お前の天秤が、この渇いた大地を潤すほどの価値を持っているか、試してやろうではないか」


老人は不気味に笑い、懐から一枚の古びた地図を取り出した。

それは、帝国のどの調査隊も辿り着けなかった、伝説の「純粋結晶」が眠るという、最果ての地の入り口を示すものだった。


「ただし、忘れるな。砂漠は、嘘を対価に命を奪う。……お前が差し出す『誠実』が足りなければ、その美しい髪も、その傲慢な瞳も、すべて砂の下に埋もれることになるぞ」


「望むところですわ。……偽りのない価値だけが、最後に残る。それが、私の信じる世界の理ですから」


メルセデスは、老人の差し出した地図を、一切の躊躇なく受け取った。

背後でセバスチャンが、静かに剣の柄に手をかける。帝国の追っ手が、酒場の入り口に姿を見せていた。


「お嬢様、ネズミたちが嗅ぎつけました」


「ええ。……さあ、行きましょう。嵐の砂漠へ」


メルセデスは立ち上がり、酒場の裏口へと向かった。

灼熱の太陽が、地平線の彼方で燃えている。

帝国の鋼の支配が届かない、命の極限の地。

メルセデス・フォン・ベルンハルトの、真の意味での「自己の価値」を懸けた戦いが、いま、砂塵舞う荒野から始まった。

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