表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/33

間話1:執事の回想と、若き王子の決意

王都に静寂が戻った。

ローゼンタール大公家の失脚と、それに付随する保守派貴族たちの連鎖的な自滅。王都を揺るがした「世紀の裁判」から一週間が経ち、旧クロフォード公爵邸――現在は「メルセデス・フォン・ベルンハルト侯爵令嬢」の公邸として登録されたこの屋敷には、以前にも増して秩序ある静けさが満ちている。


私、セバスチャンは、朝の光が差し込む回廊を、お嬢様の朝食を載せた銀盆を手に歩いていた。

かつての公爵邸は、贅を尽くしながらもどこか虚ろで、放漫な主の気配が漂う場所だった。だが今のこの屋敷は、お嬢様の知性と合理性によって再構築され、磨き上げられた機能美と優雅さが同居している。


お嬢様の執務室の前で立ち止まり、呼吸を整える。

私の脳裏には、まだあのお屋敷――ベルンハルト伯爵邸の片隅で、冷遇されていた頃のお嬢様の姿が焼き付いている。


あのお方は、当時から決して泣き言を言わなかった。

後妻エルナとその連れ子フロリナが、お嬢様の母君の形見を奪い、嫌がらせを繰り返しても。お父上である伯爵が、フロリナの甘言に耳を貸し、お嬢様をただの「事務処理人形」として扱い始めても。

お嬢様はただ、淡々と数字を追い、領地の問題を解決し、自らの価値を磨き続けておられた。


「……あの頃から、お嬢様はすでに天秤を操っておられたのですね」


私が小さく呟くと、背後から聞き覚えのある、涼やかな声が響いた。


「誰に対しての独り言かな、セバスチャン」


振り返ると、そこには公式の軍服を脱ぎ、動きやすい軽装に身を包んだディートリヒ殿下が立っていた。王宮からお一人で、お忍びで来られたのだろう。


「これは、ディートリヒ殿下。朝早くからのお運び、失礼いたしました」


「構わないさ。メルセデス嬢は……相変わらず、朝から仕事のようだな」


殿下は執務室の扉を一瞥し、どこか苦笑いを含んだ表情を見せた。裁判での凛々しい最高法官の姿とは違う、年相応の青年としての柔らかい表情だ。


「ええ。裁判が終わった翌日から、彼女は東部の魔力結晶を王都のインフラへ導入するための計画書を書き直しておりました。『停滞している時間は、対価の損失と同じです』とのことでございます」


「はは、彼女らしい。……セバスチャン、君に一つ聞きたいことがある」


殿下の表情が、ふと真剣なものに変わった。翡翠の瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。


「君は、彼女の傍にずっといた。……彼女がフロリナやギルベルトを追い詰めたのは、純粋な復讐心からだと思うか? それとも、彼女が言うように、ただの『精算』だったのか」


私は銀盆を抱え直し、少しだけ考えを巡らせた。

お嬢様の心の内は、私のような一介の使用人が容易に推し量れるものではない。だが、その背中をずっと見守ってきた私だからこそ、確信していることがある。


「殿下。お嬢様は、復讐のために人生を費やすほど、非効率な方ではございません。……もし、あのお二人が、お嬢様から奪ったものを正しく使い、お嬢様以上の価値を生み出せていたならば、お嬢様は彼らを放っておかれたでしょう」


「……価値を生み出せていれば、か」


「はい。お嬢様が許せなかったのは、彼らが『奪う』という行為の責任を取らず、与えられた価値を無為に浪費し、腐らせたことです。お嬢様にとっての復讐とは、相手を苦しめることではなく、不当に歪んだ世界の天秤を、あるべき場所へ戻す作業そのものだったのではないかと、私は愚考しております」


ディートリヒ殿下は、私の言葉を噛みしめるように沈黙した。

そして、窓の外に広がる、お嬢様が手入れさせた美しい庭園へと視線を向けた。


「……私は、彼女に救われたのだと思う」


殿下の声は、低く、熱を帯びていた。


「王族として、腐敗した保守派を排除したかった。だが、私一人では法と秩序の限界に突き当たっていた。彼女が持ち込んだのは、力でも暴力でもない、圧倒的な『正当性』だった。……セバスチャン、私は彼女の隣に立つにふさわしい男になりたいと思っている。王としての権力ではなく、彼女の天秤に載せられても恥じないだけの、価値のある人間に」


その言葉は、もはや一国の王子としての矜持ではなく、一人の女性を慕う青年の切実な誓いだった。


「殿下。お嬢様の天秤は、非常にシビアでございますよ」


私が少しだけ茶目っ気を出して言うと、殿下は明るく笑った。


「分かっているさ。だからこそ、やりがいがある。……さて、仕事中毒の令嬢を、少しは散歩にでも連れ出すとしよう。セバスチャン、その朝食は私が運んでもいいかな?」


「……お任せいたします、殿下」


私は殿下に銀盆を譲り、深々と一礼した。

扉の向こうで、お嬢様が驚いたような、それでいて少しだけ困ったような声を上げる。

かつて孤独な氷の彫刻だったお嬢様の周囲に、今は確かな温もりが集まり始めている。


私はその光景に満足しながら、新しい時代の風が、この屋敷を優しく吹き抜けていくのを感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ