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第17話:嵐の前の告白

庭園に吹き込む風が、わずかに湿り気を帯びてきた。

春が終わりを告げ、本格的な夏の到来を予感させるような、少しだけ重たい空気。

ディートリヒ殿下が馬車で去った後、私は再び温室へと戻り、手元に残された契約書の山に視線を落としていた。


「お嬢様」


温室の入り口から、セバスチャンが静かに足を踏み入れた。その手には、王都の裏組織から上がってきたばかりの、最新の報告書が握られている。


「フロリナ様たちの動向に、少々変化がございました」


「あら、あの贅沢な貸邸宅で、何か別の問題でも起こしたのかしら?」


私は紅茶のカップを指先でもてあそびながら、問いかけた。


「フロリナ様とギルベルト殿の諍いが、日を追うごとに激化しているようでございます。大公家から支給される資金は、表面上は十分な額に見えますが……ハインリヒは非常に狡猾です。生活費として渡している金貨のほとんどを、フロリナ様が豪奢なドレスや宝飾品の購入に充ててしまうため、肝心の『生活基盤』を支える資金が底を突きかけているとのこと」


「ふふっ。相変わらず、お金の使い方も知らないのね」


私は呆れを通り越して、おかしさが込み上げてきた。

フロリナは、自分がかつて実家でどれほど優雅に暮らしていたかが、すべて私の財務管理によって成り立っていたことを知らない。

ただ手元に金貨があれば、それをすべて目の前の欲望のために使い果たしてしまう。

大公家が差し出したのは「餌」であって、彼女たちの未来を保証する「資産」ではないということに、あの子は永遠に気づかないのだろう。


「ギルベルト殿は、そのことでフロリナ様を激しく責め立て、連日、怒号が響いているそうでございます。……しかし、それ以上に問題なのは、ハインリヒの動きです」


セバスチャンの声のトーンが、わずかに低くなった。


「彼は、今回の訴訟の審理において、お嬢様を精神的に追い詰めるだけでなく、物理的な『排除』も視野に入れている動きがございます。王都の腕利きの暗殺者ギルドと、ハインリヒの側近が接触したとの情報が入りました」


「暗殺……? 法廷で私を潰すだけでは足りないとでも言うのかしら」


「おそらく、お嬢様がディートリヒ殿下と手を組み、大公家の不正の証拠を握っているのではないかと、ハインリヒ自身も警戒し始めたのでしょう。裁判の前に、お嬢様の身柄を押さえるか、あるいは――」


「抹殺する、ということね」


私は小さく息をついた。

いかにも保守派の重鎮がやりそうなことだ。法で勝てないと悟り始めれば、すぐに暴力へと訴える。

だが、そんなことをすれば、王家を巻き込んだ国家反逆の罪に問われるだけだということに、なぜ気づかないのだろう。

権力という麻薬は、時に人間の判断力をここまで狂わせてしまうらしい。


「セバスチャン。警護を強化してちょうだい。それと……この件、ディートリヒ殿下にも耳に入れておいて。彼がどう動くか、少し興味があるわ」


「畏まりました。ただちに対策を講じます」


セバスチャンが退出した後、私は一人、静まり返った温室で考えに耽っていた。


私の人生は、いつからこんなにも血なまぐさいものになってしまったのだろう。

ただの伯爵家の令嬢として、無能な婚約者を支え、実家の帳簿を合わせるだけの日々。

あの頃の私は、感情を押し殺し、ただ義務を果たすだけの操り人形のようだった。

それを壊してくれたのは、皮肉にもフロリナとギルベルト様だった。

彼らの裏切りによって、私は自分の足で立ち、自分の意志で天秤を操作する術を学んだ。


その結果が、今、私の手元にあるこの強大な力だ。


「……怖くはないわ」


私は自分の左手を見つめた。

あの日、等価交換の誓約が刻まれていた手の甲は、今は滑らかな肌のままだ。

だが、私の魂には、今もあの魔法の法則が深く刻み込まれている。

何かを得るためには、それ相応の対価を支払わなければならない。

私が平和な未来を手に入れるためには、あの古い病巣を、自らの手で完全に切り取らなければならないのだ。


その夜。

私は、久しぶりに訪れた王都の夜の街を、セバスチャンと共に馬車で移動していた。

ディートリヒ殿下に呼ばれ、王宮の裏手にある、非公式の面会室へと向かうためだ。

暗殺の噂が流れる中での移動は危険を伴うが、ここで殿下からの呼び出しに応じないわけにはいかない。


馬車が静かに止まり、私はセバスチャンに伴われて、人目のつかない通路を通って面会室へと案内された。


「――来てくれたか、メルセデス」


そこには、昼間とは違い、王族としての厳しい表情を崩さないディートリヒ殿下が待っていた。

彼の翡翠の瞳には、明らかな焦りと、そして私への深い心配の色が宿っていた。


「殿下、わざわざこのような時間に、いかがなさいましたか?」


「セバスチャンから、ハインリヒの動きを聞いた。……暗殺者を雇ったというのは、事実だ。王家の情報網でも、裏社会の資金の動きを確認した」


ディートリヒ殿下は私の前に歩み寄り、私の両肩にそっと手を置いた。

その手の温かさに、私の胸が一瞬だけ、不規則な鼓動を刻む。


「メルセデス。君をこれ以上、危険に晒すわけにはいかない。……裁判の当日まで、王宮の私の離宮で過ごしてくれないか? そこならば、王家の近衛兵が君を二十四時間、守ることができる」


「……殿下、お言葉ですが」


私は、彼の優しさを嬉しく思いながらも、静かにその手を外した。


「私がここで王宮に逃げ込めば、ハインリヒは『メルセデスが罪を恐れて逃げ出した』と世間に触れ回るでしょう。それでは、彼らの思う壺です。私は、正々堂々と自分の屋敷で、彼らの罠を待ち受けます」


「しかし、メルセデス! 君の命が狙われているんだぞ! もし君に何かあったら、私は――」


ディートリヒ殿下の言葉が、途中で途切れた。

彼の瞳の中に宿る、単なる「ビジネスパートナー」としての枠を超えた、激しい感情。

それは、彼が昼間に言っていた『無駄な時間』や『人を救うもの』の、本当の意味のようだった。


「私は、君を失いたくないんだ。……たとえこの同盟が破綻しようとも、君が生きていてくれなければ、何の意味もない」


彼の真摯な告白に、私は氷のように冷たかったはずの自分の心が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。

復讐のために凍りつかせていたはずの私の心が、この緋色の王子の前では、どうしても揺らいでしまう。


「殿下……」


私は少しだけ目を伏せ、そして、再び顔を上げて彼を真っ直ぐに見つめた。


「ありがとうございます。そのお言葉だけで、私は十分に救われます。……ですが、私は氷の令嬢、メルセデス・フォン・ベルンハルトです。ただ守られるだけの弱い存在ではありませんわ。……私が彼らの毒刃に倒れるか、それとも彼らを天秤の底へ叩き落とすか。――どうか、法廷の場で、私を信じて見守っていてください」


ディートリヒ殿下は、私の強い眼差しを受け止め、やがて諦めたように深く息を吐いた。


「……君は、本当に頑固で、そして強いな。……分かった。君を信じよう。だが、これだけは約束してくれ。少しでも危険を感じたら、すぐに私の元へ逃げてくること。いいな?」


「ええ、お約束いたしますわ、ディートリヒ殿下」


私は優雅に微笑み、彼に一礼した。


王宮を辞し、夜の静寂に包まれた王都を馬車で戻る道すがら。

私は、自分の胸の奥に残る、あの温かな感覚をそっと抱きしめていた。

これは復讐のための戦い。けれど、その先にある未来には、もしかしたら私を待ってくれている人がいるのかもしれない。


天秤の傾きは、もう誰にも変えられない。

裁判まで、あと一週間。

嵐の前の静けさの中で、私は最後の決戦に向けて、静かに、しかし熱く、その牙を研ぎ澄ませていくのだった。

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