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第15話:緋色の王子の天秤

王立高等裁判所、最高法官執務室。

夕暮れ時の王都を、燃えるような茜色が染め上げていく。私は窓辺に立ち、赤く染まる街並みを静かに見下ろしていた。


机の上には、一ヶ月後に控えたある大規模な訴訟の資料が山と積まれている。

表紙に記された名は、『フロリナ・フォン・ベルンハルト、およびギルベルト・ディ・クロフォードによる、被告メルセデス・フォン・ベルンハルトへの訴え』。

一見すれば、没落した者たちが起死回生を狙って起こした、よくある泥沼の親族間紛争だ。しかし、この訴訟の背後に蠢く巨大な影を、私は誰よりも正確に把握していた。


「……ローゼンタール大公。相変わらず、やることに品がない」


私は手元に持っていた報告書に視線を落とし、小さくため息をついた。

大公の腹心であるハインリヒが、スラム同然のアパートにいたフロリナたちに接触し、贅沢な衣装と邸宅を与え、この訴訟をけしかけたことは完全に掴んでいる。

彼らの狙いは、メルセデス嬢個人への嫌がらせではない。彼女が独占する東部別荘の「魔力結晶」の採掘権と、彼女が築き上げた王都での経済基盤。そのすべてを、合法的な手続きを装って強奪することだ。


ローゼンタール大公家をはじめとする保守派貴族たちは、長年、旧来の粗悪な魔石採掘の利権を独占し、甘い汁を吸い続けてきた。そこに突如として現れたのが、メルセデス嬢だ。彼女が開発した高純度の魔力結晶は、従来の魔石の数倍のエネルギー効率を誇り、王国の魔導技術と産業を根底から変えようとしている。


保守派の老人たちにとって、それは自らの利権を脅かす、最も排除すべき脅威だったのだ。


「だが、あの者たちは決定的な過ちを犯している」


私は机に戻り、メルセデス嬢から預かったばかりの『闇ルートの証拠書類』を指先でなぞった。


彼女の知性と、冷徹なまでの先見性。

それをただの「運良く成り上がった小娘の知恵」だと侮っていることこそが、彼らの最大の敗因になる。


私は幼い頃から、王族として、そして法を司る最高法官として、数多くの貴族たちを見てきた。

彼らは皆、自らの欲望を「正義」と言い換え、他者から奪うことでしか自らの価値を証明できない、浅ましい生き物だった。ベルンハルト伯爵も、クロフォード公爵家も、そしてあのフロリナという娘も、その枠から一歩も出ていない。


しかし、メルセデス・フォン・ベルンハルトという令嬢は、そのどれとも違っていた。


初めて彼女と対面した日のことを、私は鮮明に覚えている。

あの日、王都の旧クロフォード公爵邸を訪れた私は、彼女の完璧に整えられた所作と、一切の迷いがないアイスブルーの瞳に、深い衝撃を受けた。


彼女は、自分を裏切った妹や元婚約者に対して、怒りや憎しみといった「無駄な感情」で動いていなかった。

ただ淡々と、相手の無能さと自らの知性を天秤にかけ、世界で一番正しい方法――等価交換――によって、相手からすべてを奪い返したのだ。


『私が奪ったのではありません。彼らが手放したものを、私が正当な価値で買い取っただけですわ』


そう言って静かに微笑んだ彼女の姿は、まるで法そのものが人の形を取ったかのように、冷徹で、そして美しかった。


私はその時、確信した。

この令嬢こそが、王国の古い膿を出し切り、新しい時代を切り開くための、最良のパートナー(天秤)であると。


「殿下。裁判官たちの買収に関する、追加の調査が完了いたしました」


影のように控えていた私の側近が、音もなく歩み寄り、一通の書類を差し出した。

そこに記されていたのは、大公家から多額の裏金を受け取り、今回の訴訟でフロリナ側に有利な判決を下そうと企んでいる、三人の保守派裁判官の名前だった。


「やはりな。ルノー、ヴァル、そしてジルの三人か。いずれも大公家に長く連なる息のかかった者たちだ。ハインリヒめ、確実にメルセデス嬢の権利を凍結させるため、法の番人である裁判官まで買収するとは」


「いかがなさいますか、殿下。彼らを今すぐ解任なさいますか?」


「いや、その必要はない」


私は、翡翠の瞳に鋭い光を宿し、書類を机に置いた。


「今ここで彼らを処分すれば、大公家は警戒し、別の手を打ってくるだろう。むしろ、彼らには当日まで『うまく買収できている』と信じ込ませておく。そして、裁判のその瞬間に、私が最高法官として法廷に立ち、彼らの不正の証拠と共に、その権限を完全に剥奪する」


これこそが、私とメルセデス嬢が結んだ『同盟』の真価だ。

彼女が法廷の場でフロリナたちの主張を論理的に、そして魔術的に完膚なきまでに叩き潰し、大公家の闇ルートを暴露する。

そして私が、王家の名において、買収された裁判官ごと、ローゼンタール大公家の不正を法的に断罪する。


それは単なる姉妹の諍いなどではない。

王国を蝕む古い病巣を、法と経済の両面から完全に切り取るための、大規模な公開処刑劇なのだ。


「メルセデス嬢。君の言う通り、これは実に割に合わない等価交換になるだろう」


私は、彼女の冷たく美しい横顔を思い浮かべながら、独りごとのように呟いた。


「君をただの小娘だと侮り、利用しようとした大公家。そして、自分たちの無能さを棚に上げ、再び偽りの栄華に酔いしれているフロリナたち。……彼らは、自分たちが引き換えに差し出すものが、自らの家名と、人生そのものであることに、まだ気づいていない」


茜色に染まっていた王都の空が、ゆっくりと深い群青色へと溶けていく。

一ヶ月後、この街の最高裁判所で、偽りの天秤は砕け散り、本物の天秤が真実を告げるだろう。


私は、メルセデス嬢と共にその天秤の前に立ち、愚かな者たちが奈落へと落ちていくその瞬間を、最高法官として、そして彼女のパートナーとして、静かに見届けるつもりだった。

二人が交わした、冷徹で強固な誓いは、夜の帳が降りた執務室の中で、緋色の炎のように静かに燃え続けていた。

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