第13話:開戦の狼煙と偽りの支援
王都の北側に位置する高級住宅街。そのさらに奥まった場所に佇む、ローゼンタール大公家の息がかかった豪奢な貸邸宅。かつてスラム同然の安アパートで埃と飢えに塗れていたフロリナは、今、窓から差し込む明るい陽光を浴びながら、目の前の光景にうっとりと息を漏らしていた。
広い応接室のテーブルの上に並べられているのは、王都でも指折りの仕立て屋が今朝がた持ち込んできたばかりの、目の覚めるようなピンクの最高級シルクドレスだった。幾重にも重ねられた柔らかな生地には、職人の手による緻密な金糸の刺繍がこれでもかと施され、胸元には大粒の真珠が惜しげもなく輝いている。
「まあ……素晴らしいわ! 本当に、なんて美しいドレスなの!」
フロリナは、安アパート暮らしのせいでパサつき、艶を失っていた髪をそっと撫でつけながら、ドレスの滑らかな生地に愛おしむように指先を滑らせた。その頬は、失っていた贅沢な日常を取り戻した喜びに赤く染まっている。
「お気に召していただけましたかな、フロリナ嬢。我が大公家がお抱えにしている職人たちに、君の美しさを最大限に引き出すよう、特別に作らせたものだ」
ソファーに深く腰掛け、優雅に葡萄酒のグラスを傾けているのは、大公の腹心であるハインリヒ・フォン・ローゼンタールだ。彼の背後には、大公家が今回の訴訟のために用意した老獪な法廷弁護士、ギデオンが、獲物を狙う禿鷹のような鋭い視線を光らせて控えている。
「ええ、ハインリヒ様! まるで夢のようですわ。あんな薄汚れたアパートで、お姉様に怯えながら暮らしていた日々が、今となっては遠い昔の出来事のように思えます。やはり、私にはこのような華やかな暮らしこそがふさわしいのですわ」
「ふん。当然だろう。あの冷酷な女に不当に奪われたものを取り戻すための戦いだ。これはその準備のための、ほんの端金に過ぎないよ」
フロリナの隣に座るギルベルトが、大公家から買い与えられたばかりの特注高級スーツの袖口を直しながら、尊大に鼻を鳴らした。だが、その言葉とは裏腹に、彼の瞳の奥には、再び手に入りかけた贅沢な暮らしへの執着と、自分をどん底に追い詰めたメルセデスへのどす黒い怒りが渦巻いていた。かつてメルセデスを捨ててフロリナを選んだときの白馬の王子様のような面影は消え失せ、いまやその顔には、失った権力への妄執だけが張り付いている。
「ギルベルト殿、フロリナ嬢。喜ぶのはまだ早い」
ハインリヒが、カツンと音を立ててグラスをテーブルに置き、冷徹な双眸を二人に向けた。その一言で、応接室の空気が一瞬にして張り詰める。
「我が大公家が君たちを支援するのは、ただの慈善事業ではない。一ヶ月後に王立高等裁判所で開かれる審理において、メルセデス・フォン・ベルンハルトを完全に社会から抹殺するためだ。そのための準備を、今から徹底的に行ってもらう」
ハインリヒの合図を受け、弁護士のギデオンが音もなく一歩前に進み出た。彼は脇に抱えていた分厚い書類の束をテーブルの上に広げる。その書類には、メルセデスの資産状況や、これまで彼女が関わってきた取引の記録がびっしりと記されていた。
「フロリナ様。王立高等裁判所での裁判は、貴族同士の通常の諍いとは根本的に異なります」
ギデオンは、低くしわがれた声で語り始めた。
「特に今回の相手は、あの『氷の令嬢』と恐れられるメルセデス様です。彼女はすでに、王都の主要な金融機関を味方につけ、一分の隙もない完璧な書面を用意してくるでしょう。ですから、我々が正面から数字や法的な正当性だけで争っても、分が悪い。そこで、我々は『感情』と『血統の権利』を徹底的に武器にするのです」
「感情と、血統……?」
フロリナが小首を傾げると、ギデオンは不気味な笑みを浮かべ、さらに書類をめくった。
「そうです。メルセデス様が禁忌の魔術『等価交換の誓約』を用いて、知識の乏しい年若い妹であるあなたを精神的に追い詰め、不当に資産を強奪した……という、分かりやすい物語を法廷の場で作り上げるのです。法廷では、あなたがどれほど傷つき、絶望したかを涙ながらに語っていただきます。おぞましい姉によって、住む家も、愛する人も、母の形見すらも奪われ、貧民街にまで落とされたと……裁判官や、傍聴席に詰めかける貴族たちの同情を引くのです」
「そんなことなら、いくらでもできますわ! 私、本当にお姉様に酷いことをされたのですもの。あの方は昔から、私が何をしても冷たい目で見下して、最後には私のすべてを奪っていった悪魔ですわ!」
フロリナは自信満々に胸を張り、唇を歪めた。彼女の頭の中では、すでに自分が悲劇のヒロインとして法廷で称賛され、メルセデスが悪女として糾弾される光景が出来上がっていた。自らが先に姉の婚約者を奪い、追い出そうとした事実など、彼女の都合の良い記憶からは完全に消去されている。
「素晴らしい。その調子です、フロリナ様。裁判においては、真実が何であるかよりも、観衆がどちらに同情するかが重要なのです」
ギデオンは満足そうに頷き、今度はギルベルトに向き直った。
「そして、ギルベルト殿。あなたには、最も重要な証人として法廷に立っていただきます。かつてメルセデス様の婚約者であったあなたの言葉には、非常に大きな説得力がある。彼女がいかに冷酷な本性を隠し持っていたか、そして魔術的な支配によってあなたの公爵家の資産をも我が物にしたかを、ありのままに証言していただく。大公家が裏から手を回し、すでに裁判官への根回しも着々と進めております。世論と裁判官、その双方を味方につければ、あの女の有罪は確実です」
「……ああ、分かっている」
ギルベルトは拳を固く握りしめ、かつての婚約者の顔を思い浮かべた。
「あの女の、あの鼻につく冷たい顔を絶望で歪ませてやるためなら、私は何だって証言してやる。私がどれほど彼女に精神的な苦痛を与えられていたか、法廷の全員に分からせてやるさ」
ギルベルトの言葉を聞きながら、ハインリヒはフードの奥で、誰にも気づかれないほどの嘲笑を浮かべていた。
彼らがどれほど息巻こうとも、ハインリヒにとっては、メルセデスを法廷に引きずり出すための道具に過ぎない。メルセデスを失脚させ、大公家が魔力結晶の権利を手に入れた後は、この二人など用済みだ。むしろ、自分たちの計画の全貌を知る者として、口封じのために排除する腹づもりだったのである。
だが、そんな大公家の思惑など露ほども知らないフロリナとギルベルトは、手に入りかけた「偽りの栄華」に酔いしれていた。
「お姉様……見ていらっしゃい。今度こそ、私があなたからすべてを奪い返してあげるわ」
フロリナは、目の前の豪華なドレスを胸に抱きしめ、狂気的な喜びに目を輝かせた。
一ヶ月後に控える王立高等裁判所の審理。そこが自分たちの「最高の復讐劇」の舞台になると信じて疑わない哀れな小鳥たちは、大公家という巨大な蜘蛛が張り巡らせた網の上で、自ら破滅への階段を登り始めていたのだった。




