第12話:蜘蛛の糸、あるいは同盟
「――なるほど。つい先ほど、ローゼンタール大公家が動きましたか」
王都の旧クロフォード公爵邸の執務室。窓から差し込む午後の柔らかな光が、メルセデスの机の上に広げられた何通もの報告書を白く照らし出していた。
彼女はセバスチャンから手渡されたばかりの、まだインクの香りが微かに残る羊皮紙に視線を落とし、くすりと小さく笑った。その声音には、怒りも動揺もなく、ただ計算通りの結果を得た者だけが持つ静かな愉悦が宿っていた。
「ええ、お嬢様。ハインリヒが、貧民街の粗末なアパートに住むフロリナ様たちに直接接触した模様です。多額の金貨と訴訟の計画、そして王都でも指折りの法廷弁護士の後ろ盾を持ち込みました。フロリナ様たちは、大公家が用意した最高級の貸邸宅にすぐさま移り、かつての貴族のような暮らしを早くも取り戻したと、悦に浸っております」
セバスチャンは懃懃に頭を下げ、手元の帳簿を脇に抱え直した。
「ハインリヒ自身も、彼らがただの捨て駒であると割り切っているようですな。フロリナ様たちがどれほど愚かに散財しようとも、大公家にとっては小遣い銭ほどの痛手にもなりません。彼らの狙いはあくまで、お嬢様を法廷の場に引きずり出し、魔力結晶の権利と資産を凍結させること……。世論を味方につけ、一気に押し潰す腹づもりでしょう」
「本当に、期待を裏切らないほど愚かで、分かりやすい子たちね」
メルセデスは、手元の報告書を机の端へ滑らせると、ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
完璧に整えられた庭園。かつてギルベルトたちが放置し、枯れかけていた植栽は、今やすっかり息を吹き返し、大輪の薔薇が誇らしげに咲き誇っている。彼女はその真紅の花弁に細く白い指先をそっと這わせた。
フロリナたちが、奪われた復讐のために再起しようと動くことは、最初から予測の範囲内だった。
人間の持つ身勝手な欲望と執着は、一度火がつけばそう簡単には消えない。ましてや、あの甘やかされて育った義妹が、冷たく湿ったアパートで一生を終えることなど耐えられるはずがなかった。必ずどこかの権力者がその恨みと「血統の残滓」を利用しようと近づいてくる。
そして、その大物がローゼンタール大公家であったことは、メルセデスにとって最高に都合の良い展開だった。
「ローゼンタール大公家は、王国内の旧態依然とした保守派の筆頭。私の魔力結晶事業が、彼らが長年独占してきた旧来の魔石採掘の利権を脅かしているから、どうしても私を排除したいのでしょう。……でも、これでようやく、あの腐った巨悪を合法的に、そして一網打尽にする理由ができたわ」
メルセデスのアイスブルーの瞳が、獲物を確実に追い詰めた鷹のように、静かで鋭い光を帯びる。
彼女にとって、義妹への個人的な復讐は、第1幕の時点で事実上終わっていた。
いまや彼女の視線は、個人の怨恨を遥かに超え、この国の歪んだ権力構造そのものに向けられている。
「お嬢様。その件に関連して、王家から『賓客』がお見えになっております。……すでにお嬢様の帰還を察知し、階下の応接室にてお待ちです。今回は非公式の訪問ゆえ、供回りも最小限でございます」
「あら。ずいぶんと早いわね。……すぐに向かうわ。お通ししてちょうだい」
メルセデスは手鏡で自身の姿を軽く確認した。
月光を溶かしたようなプラチナブロンドの髪は、一筋の乱れもなくタイトなシニヨンにまとめられている。纏うのは、フリルを廃したシックなアイスブルーのドレス。
無駄のないその装いは、彼女がこれから臨む「取引」への決意を象徴しているようだった。
重厚な応接室の扉が開かれ、メルセデスが静かに足を踏み入れると、そこには一人の若い男がソファーに腰掛けていた。
燃えるような緋色の髪と、理知的な光を湛えた翡翠の瞳。仕立ては極上だが、華美な装飾をあえて抑えた青い軍服を身に纏っている。
彼こそが、現国王の第二王子であり、王立高等裁判所の最高法官を兼任する、ディートリヒ・フォン・アルスハインだった。
「――お待たせいたしました、ディートリヒ殿下。我が家への突然のご来訪、光栄に存じます」
メルセデスが優雅にカーテシーを披露すると、ディートリヒは立ち上がり、穏やかな、しかしどこか鋭い笑みを浮かべて一礼した。
「いや、突然の訪問を許してほしい、メルセデス嬢。……君が東部から帰還し、この王都の経済に新たな風を吹かせていると聞いてね。王家としても、これ以上黙って見ているわけにはいかなくてね」
ディートリヒは再びソファーに腰を下ろし、メルセデスが差し出した紅茶を一口飲んだ。
「素晴らしい茶だ。茶葉の温度、蒸らし加減、どれをとっても完璧だ。……さすがは、かつてベルンハルト伯爵家の実務を一人で回し、今は王都の経済を裏から動かしていると言われる『氷の令嬢』の屋敷だ」
「殿下、お戯れを。私はただ、妹が仕掛けた不均衡な契約を、魔術の法に則って正しく精算したに過ぎませんわ。それを世間がどう呼ぼうと、私には関係のないことです」
「はは、相変わらず手厳しいな。だが、その君の冷徹な合理主義、私は嫌いではないよ」
ディートリヒは翡翠の瞳を細め、カップをソーサーに戻した。その表情から笑みが消え、最高法官としての真剣な顔つきに変わる。
「さて、本題に入ろう。君のその『精算』のせいで、ローゼンタール大公家が本格的に牙を剥き始めた。君を『禁忌の魔術による不当な略奪者』として訴える準備を、あのハインリヒが進めている。フロリナ嬢とギルベルト殿を担ぎ上げ、世論を味方につけて君を失脚させるつもりだ」
「ええ、存じております。貧民街のアパートにわざわざ馬車を差し向け、着飾らせて訴訟を起こさせる……大公家らしい、実につまらない悪あがきですわ」
「君が驚かないことは分かっていた。だが、今回の件は単なる姉妹の諍いでは済まない。ローゼンタール大公家は、君が独占している東部の魔力結晶の権利を、訴訟に乗じて国に差し押さえさせ、最終的に自らの息のかかった商会へ払い下げさせる腹づもりだ。……つまり、君の技術と資産を丸ごと強奪しようとしている」
ディートリヒの言葉に、メルセデスは小さく息をついた。
「王家としても、これ以上ローゼンタール大公家の専横を許すつもりはない。彼らは王国の魔導技術の進歩を阻害し、自らの古い利権だけを守ろうとしている。君が開発した純度の高い結晶は、これからの王国の発展に不可欠だ。……メルセデス嬢。君と私は、目指すべき場所が同じはずだ」
「……等価交換、でしょうか?」
メルセデスが問いかけると、ディートリヒは満足そうに深く頷いた。
「その通り。王家は、君の魔力結晶事業を全面的に保護し、王室御用達としての専売権を正式に付与しよう。これで大公家による経済的な嫌がらせは完全に封じることができる。……その代わり、君の持つ『経済的な影響力』と、今回ローゼンタールが仕掛けてくる訴訟を利用して、あの保守派の重鎮たちを法的に、そして完全に叩き潰してほしいのだ」
「つまり、私を囮に使われるということですね」
「囮という言い方は語弊があるな。私は君に、最高の大舞台を用意したいのだ。君の無実を証明し、同時に大公家の不正を白日の下に晒すための舞台をね。……君なら、囮どころか、罠そのものになれると確信している。……どうだろうか?」
ディートリヒが差し出した手。
それは、かつてギルベルトが差し出してきた、中身のない虚飾と傲慢に満ちた手とは全く違っていた。
そこにあるのは、互いの実力と知性を認め合い、利害を一致させた「対等なビジネスパートナー」としての敬意と誓いだった。
メルセデスは、ディートリヒの翡翠の瞳をじっと見つめ返した。
彼女の胸の奥で、再び冷徹な計算が始まる。
王家との同盟。それは彼女の事業に絶対的な安定をもたらすだけでなく、かつて自分を虐げた者たちを、今度こそ二度と這い上がれない奈落の底へと叩き落とすための、最大の武器になる。
メルセデスは、少しだけ口元を緩め、その手を静かに握り返した。
「喜んでお受けいたします、ディートリヒ殿下。……割に合わない等価交換を、今度は国家規模で実行して差し上げましょう。あの子たちが望んだ『偽りの救済』が、どれほど残酷な結末を招くか……法廷の場で、しかと見届けていただきますわ」
復讐の天秤は、いまや個人を離れ、王国の命運を賭けた戦いへと大きく動き出したのだった。




