第11話:再起の甘い罠
「――信じられませんわ。私たちが、このような薄汚れた場所で、あの女に怯えながら暮らさなければならないなんて」
王都の北側、貧民街と隣接する湿った裏路地の安アパート。
フロリナは、手入れもされずパサついた髪を苛立ちまぎれに掻きむしり、窓の外の濁った景色を睨みつけていた。
彼女の傍らには、かつて「白馬の王子様」と称えられたギルベルトが、無精髭を生やし、疲れ果てた顔でうなだれている。彼は今日、日雇いの荷運び仕事でわずかな銅貨を稼いできたばかりだった。次期公爵としての誇りなど、飢えと屈辱の前にとっくに消え失せていた。
「もうやめろ、フロリナ。メルセデスは今や、あのクロフォード公爵邸の主だ。王都の金融市場を牛耳り、魔力結晶の権利まで独占している。……私たちがどれだけ呪い言を吐いたところで、あの女には届きはしない」
「嫌よ! 私は絶対に認めない! あのお姉様が、私からすべてを奪って高笑いしているなんて、許せるはずがないわ! 私たちがこうなったのは、あの方が仕組んだ罠のせいなのに……!」
フロリナが涙ながらに叫んだ、その時だった。
トントン、と、安アパートの薄い木製の扉が、不釣り合いなほど規則正しく、静かにノックされた。
「……誰だ?」
ギルベルトが警戒して立ち上がる。
このスラム同然の場所に、自分たちを訪ねてくる者などいるはずがない。借金の取り立てか、あるいは治安維持の兵士か。
怯える二人の前で、扉がゆっくりと開き、一人の長身の男が姿を現した。
男は、仕立ての良い漆黒の外套を身に纏い、顔を深いフードで覆っていた。だが、その隙間から見える冷徹な双眸と、指先にはめられた大ぶりな金の印章リングが、彼がただ者ではないことを物語っている。
「……ギルベルト・ディ・クロフォード殿。そして、フロリナ・フォン・ベルンハルト嬢とお見受けする」
男の声は低く、どこか尊大だった。
ギルベルトは息を呑み、男の指先にある印章に目を凝らした。
「そ、その紋章は……財務大臣、ローゼンタール大公家のものか!?」
ローゼンタール大公。
王国内の保守派貴族の頂点に君臨し、王家すらも容易に手を出せないほどの権力を持つ大物だ。
「いかにも」
男はフードを脱ぎ、貴族特有の傲慢な笑みを浮かべた。
彼の名は、ハインリヒ・フォン・ローゼンタール。大公の腹心であり、一族の裏の差配を担う男だった。
「没落した元公爵嫡男と、家を追われた伯爵令嬢が、このような豚小屋で寄り添っているとは。……実に見窄らしいものだな」
「な、何をしに来た! 私たちを嘲笑いに来たのか!?」
ギルベルトが怒りに拳を握りしめるが、ハインリヒは気に留める風もなく、懐から一通の書類と、ずっしりと重い絹の袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
袋の口からこぼれ落ちたのは、目が眩むような輝きを放つ、数十枚の純金貨だった。
「金……!?」
フロリナが、渇望に満ちた目で金貨を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。
「私は、君たちを救いに来たのだよ。……正確に言えば、共通の敵である『メルセデス・フォン・ベルンハルト』を引きずり下ろすための、協力の提案に来たのだ」
「お姉様を……引きずり下ろす?」
フロリナの琥珀色の瞳に、歪んだ希望の光が宿る。
「そうだ。あの女は、東部別荘から湧き出る魔力結晶の権利を独占し、我がローゼンタール大公家が進めていた経済計画を著しく妨害している。王家もあの女の財力に毒され、調子に乗らせている始末だ。……実に不愉快なことだと思わないかね?」
ハインリヒは、フロリナの前に一歩歩み寄った。
「フロリナ嬢。君はかつて、メルセデスと『等価交換の誓約』を交わしたそうだな。……その契約の魔法の残滓が、君の魂にはまだ微かに残っている。これを利用し、メルセデスを法廷で糾弾するのだ」
「私が、お姉様を糾弾する……?」
「そうだ。『メルセデスは禁忌の魔術を用い、妹から正当な権利と資産を不当に強奪した』と、王立高等裁判所に訴え出るのだよ。大公家が裏から手を回し、君たちに最高の弁護士と、かつての地位にふさわしい最高級の衣装、そして生活資金を提供しよう」
「本当ですか……!? 私たち、また貴族に戻れるのですか!?」
フロリナは、ハインリヒの手を握りしめ、必死の形相で問いかけた。
「ああ、約束しよう。メルセデスから魔力結晶の権利を奪い返した暁には、クロフォード公爵領の半分をギルベルト殿に返還し、フロリナ嬢、君には大公家からの後ろ盾を与えよう。……あの生意気な氷の令嬢が、法廷で泣き崩れ、すべてを失う姿を見たくはないかね?」
「見たい……見たいわ! あの女から、私のものを全部、奪い返してやるのよ!」
フロリナの顔が、狂気的な喜びに歪んだ。
ギルベルトもまた、目の前の金貨と「公爵領の返還」という甘い言葉に、完全に理性を失っていた。
彼らは、自分たちが大公家の単なる使い捨ての駒に過ぎないことにも気づかず、再び手に入りかけた「偽りの栄華」に飛びついたのだ。
ハインリヒは、フードの奥で冷酷な笑みを浮かべた。
メルセデスの手腕は確かだが、まだ若い娘に過ぎない。大公家の権力と、法廷という公式の場を使えば、いくらでも握りつぶせる。そう確信していた。
だが、彼らは知らない。
この動きのすべてが、すでにメルセデスの網に掛かっているということを。




