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幕間1:執事セバスチャンの観察記録

王都の旧クロフォード公爵邸――もとい、我が主メルセデス様が完全にその所有権を掌握されたこの大邸宅の執務室は、いまやかつての陰鬱な空気を一掃し、冴え冴えとした静寂に包まれている。


私は、メルセデス様が好まれる、温度と蒸らし時間を完璧に調整したダージリンの紅茶を銀盆に載せ、静かに部屋の扉をノックした。


「お嬢様。お茶をお持ちいたしました」


「ええ、ありがとう、セバスチャン。ちょうど少し、目を休めようと思っていたところよ」


羽根ペンを置き、細く白い指先で眉間を軽く揉むメルセデス様。その表情には、ここ数カ月の激動による疲労の色が微かに滲んでいるものの、その瞳に宿るアイスブルーの輝きは、以前よりもずっと力強く、澄み渡っているように見えた。


私は音を立てずに紅茶を給仕し、一歩下がって控える。

主が優雅にカップを取り、香りを楽しまれる様子を観察しながら、私はかつての――まだあの、ベルンハルト伯爵家の冷え切った屋敷で息を潜めるように暮らしておられた頃の彼女の姿を思い出していた。


あのお屋敷でのメルセデス様は、まさに「氷の彫刻」だった。

先妻である実の御母堂を亡くされ、後妻エルナと義妹のフロリナが我が物顔で屋敷を歩き回る中、お嬢様は誰にも弱音を吐かず、ただ一人で伯爵家の膨大な実務をこなしておられた。

お父上である伯爵は、あざとい後妻の連れ子を溺愛し、メルセデス様の「完璧さ」を不気味がり、疎まれた。


当時の私は、ただの老いぼれた一介の使用人に過ぎず、お嬢様がどれほど理不尽な重荷を背負わされているかを知りながらも、表立って救い出すことができなかった。

だからこそ、あの夜会での「婚約破棄」の報せを聞いた時、私は絶望したのだ。

ついに、あのお優しいお嬢様が、邪悪な義妹によってすべてを奪われてしまった、と。


しかし、それは私の浅はかな誤解に過ぎなかった。


「……セバスチャン。どうかした? 私の顔に何かついているかしら」


「いえ、滅相もございません。ただ、お嬢様の横顔を拝見しながら、人間の『価値』というものについて、少々考えておりました」


「人間の価値、ね」


メルセデス様は紅茶を一口飲み、ふっと皮肉げな笑みを浮かべられた。


「私が持っていた『価値』は、あの子たちにとってはただの邪魔なものでしかなかったわ。そしてあの子たちが欲しがった『価値(ギルベルト様)』は、私にとってはただの負債でしかなかった。価値観の違いというのは、時に恐ろしい結果を招くわね」


「左様でございますな。ですが、お嬢様が蒔かれた種は、いまや誰も無視できないほどの巨木となって王都に根を張っております」


そう、メルセデス様が東部別荘から引き出された、あの魔力結晶の権利と、後妻エルナの裏金。

それらを元手に、お嬢様が王都の金融市場で仕掛けられた「クロフォード公爵家への包囲網」は、まさに芸術的な手腕だった。


お嬢様はただ、奪われた復讐のために暴力を振るわれたわけではない。

相手が「欲しい」と望んだものを快く差し出し、相手が「いらない」と捨てたものの真の価値を見抜いて回収しただけだ。

そして、価値の不均衡を正すという『等価交換の誓約』の魔法の力を、最大限に利用された。


「フロリナ様も、ギルベルト殿も……あのお二人は、自らの欲望の大きさに、自分たちの器が耐えられないことを知らなかったのです。まるで、小さな水瓶に大河の水を注ぎ込もうとするかのように」


「ええ。欲張るのなら、それを受け止めるだけの器を用意すべきだったのよ。あの子たちは、ただお姉様の持っているものを奪えば、自分がその地位にふさわしい人間になれると信じ込んでいた。……奪った後の責任をどう果たすかなど、考えもしないでね」


メルセデス様は窓の外、美しく整えられた庭園へと視線を向けられた。

我が主の命令によって、庭師たちが再び息を吹き込ませた庭園には、いまや色鮮やかな薔薇が咲き誇っている。

かつてギルベルト殿たちが放置し、枯れかけていた屋敷が、本来の主を迎えて輝きを取り戻したのだ。


「セバスチャン。私はね、これであの子たちへの復讐が終わったとは思っていないわ」


「と、おっしゃいますと?」


私は、主の冷徹な、しかしどこか楽しげな声音に耳を傾けた。


「あの子たちは、まだ生きている。……すべてを失い、平民同然の暮らしに堕ちて、初めて自分たちの『無能さ』という現実に直面しているところよ。本当の絶望は、これから始まるの。自分がどれほど無価値な存在だったのかを、毎日、身をもって知るという絶望がね」


「……まことに、お嬢様のご慧眼には恐れ入ります」


私は深く頭を下げた。


このお方は、ただの被害者でもなければ、ただの復讐者でもない。

自らの手で人生の天秤を操作し、世界の歪みを正していく、真の支配者なのだ。

私はこの老骨が朽ち果てるまで、この美しき氷の令嬢の影として、その歩みを見守り続けることを、改めて心に誓うのだった。

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