第10話:選択の余地なき天秤
「……な、なんだ、この条件は……!」
父が、卓上に置かれた契約書を震える指で掴み、血走った目で文字を追っていた。
横から覗き込んだギルベルト様もまた、絶望に顔を歪め、言葉を失って立ち尽くしている。
契約書に記された条件は、極めてシンプルにして残酷なものだった。
第一条: メルセデス・フォン・ベルンハルトが所有するクロフォード公爵家のすべての債権(総額五万ゴールド)について、一括返済の期日を「本日中」とする。
第二条: 返済が不可能な場合、債権の担保として、クロフォード公爵領の全領有権、および鉱山、森林の全ての権利をメルセデスに無条件で譲渡すること。
第三条: ベルンハルト伯爵家は、クロフォード家への連帯保証を解除する代わり、フロリナ・フォン・ベルンハルトの「伯爵家継承権」を完全に剥奪し、メルセデスにその地位を返還すること。
「ふ、ふざけるな! メルセデス!」
ギルベルト様が、怒りに顔を真っ赤にして私に詰め寄ろうとした。
だが、その一歩を踏み出す前に、私の背後に控えるセバスチャンが静かに懐から取り出した書類――王都の裁判所と、魔術管理局の公印が押された、正式な差し押さえの執行令状――を彼らの前に突きつけた。
「言葉を慎んでいただきたい、ギルベルト殿」
セバスチャンの低く冷ややかな声が、応接室の空気を凍らせる。
「これは、法に則った正当な手続きでございます。メルセデスお嬢様は、あなたがたが踏み倒し続けてきた借用書を、正当な対価を支払って買い取られた。あなたがたに、これを拒否する権利など、最初から存在しないのです」
「お姉様……そんな、酷いわ……!」
フロリナが、ついに大粒の涙をこぼしながら私の足元にすがりつこうとした。
琥珀色の瞳を潤ませ、男たちの庇護欲を掻き立ててきた、いつものお決まりの泣き落とし。
だが、その視線を受け止める私の瞳は、彼女のピンクのドレスよりも遥かに冷たい、冬の湖のようなアイスブルーだ。
「酷い? どの口がそれを言うのかしら、フロリナ」
私は一歩も引かず、すがりつこうとする義妹の手を、扇で冷たく払いのけた。
「あなたと後妻のエルナが、私に仕掛けた『等価交換の誓約』。あの呪いは、相手の持つ一番価値のあるものを奪うためのものだったはずよね? ――あなたはあの日、私のすべてを奪って絶望させるつもりだった。違うかしら?」
「それは……!」
「私が傷つき、泣き叫び、泥水をすする姿を見て、優越感に浸りたかったのでしょう。……けれど、残念だったわね。私はあなたの思惑をすべて見抜き、あなたの奪った『一番大事なもの(ギルベルト様)』が、ただの無価値な負債であることを証明した」
私は机の上の書類を指先で軽く叩いた。
「魔法はね、正直なのよ。私があなたから引き出した裏金も、別荘の鉱脈も、あなたが私に押し付けた『ギルベルトという名の巨額の負債』を相殺するには、まだまだ足りないの。……だからこうして、私はあなたから、次の『対価』を受け取りに来ただけ。これは不当な強奪ではないわ。正当な、等価交換よ」
「う、嘘よ……そんなの嘘……!」
フロリナは頭を抱え、床に崩れ落ちた。
彼女が信じていた「輝かしい未来」が、自らが仕掛けた呪いの魔法によって、今まさに跡形もなく引き裂かれようとしている。
「メルセデス……頼む、考え直してくれ!」
今度はギルベルト様が、プライドをかなぐり捨てて私に懇願してきた。
あの高慢だった次期公爵が、哀れな敗北者のように肩を震わせ、私を見上げている。
「私が悪かった! 君をないがしろにし、フロリナの甘言に乗ってしまったことを謝る! 婚約破棄は、なかったことにしてくれ! 私は君を愛しているんだ、メルセデス! 君が私の妻となり、公爵家を支えてくれれば、すべては元通りになる!」
「……耳を疑うわね、ギルベルト様」
私は冷笑を浮かべ、彼を憐れむように見つめた。
「婚約破棄をなかったことに? 一度手放したゴミを、どうして私がわざわざ拾い直さなければならないの? それに、私があなたを支えていたのは、義務感からであって、愛などという不確かなものではありませんわ」
私はギルベルト様から視線を外し、最後に、俯いたまま震えている父(伯爵)を見据えた。
「お父様。選択の時は、もう終わりですわ。……あなたが選ぶのはどちらかしら? この場でクロフォード家と共倒れになり、ベルンハルト家を完全に破滅させるか。それとも、フロリナを切り捨てて継承権を私に戻し、我が家の誇りを守るか」
父は、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
彼の愛した亡き後妻エルナの面影を残すフロリナと、完璧すぎて愛せなかった先妻の娘、私。
だが、この期に及んで、どちらを選べば家が生き残るか、計算できないほど父も愚かではなかった。
「……すまない、フロリナ」
父の絞り出すような声が、応接室に響いた。
「お、お父様……!?」
フロリナが、信じられないものを見るかのように父親を見上げた。
「メルセデスの言う通りだ……。このままでは、我が家も破産する。……お前の継承権を、メルセデスに返還する書類に、私は署名する」
「嫌っ! 嫌よ、お父様! 私を見捨てないで! お姉様、お願いだから許して、許して――!」
フロリナの絶望の叫びが部屋を満たす中、父は震える手で、私の差し出した契約書にペンを走らせた。
カリカリ、とインクの走る音だけが、不気味に響き渡る。
署名が完了した瞬間、私の左手の甲に刻まれた『等価交換の誓約』の紋章が、一際強く、青白く輝き――そして、役目を終えたかのように、静かにその光を失って消え去った。
呪いの天秤は、今、完全に釣り合いを取り、契約は完了したのだ。
「――お取引成立ですわ、お父様。そして、さようなら。ギルベルト様、フロリナ」
私は署名済みの書類を優雅に回収し、絶望に沈む三人を見下ろしながら、最高に美しく、冷徹な微笑みを浮かべた。
奪われたものの何倍もの価値を奪い尽くす、私の『割に合わない等価交換』は、こうして完璧な形で幕を閉じたのだった。




