79話 新たな拠点、新たな始まり①
夏の日差しが、やけに強かった。
空は雲ひとつない青で、庭の草木もどこか元気すぎるくらいに揺れている。
「……あつい」
ぽつりと呟きながら、私は日陰へと逃げ込んだ。
じりじりとした熱が肌にまとわりつく。
まだ朝のはずなのに、すでに夏本番みたいだ。
「エレノア様、お水をどうぞ」
「ありがとう、メル」
差し出された冷たいグラスを受け取り、一口飲む。
ひんやりとした感触が、体の中にすっと広がった。
「ふぅ……生き返る……」
思わずそんな言葉が漏れる。
その様子を見て、メルがくすっと笑った。
「今日は特に暑いですからね」
「うん……」
頷きながら、私は空を見上げる。
強い日差し。
澄んだ空気。
そして――
「……今日だったよね」
ぽつりと呟く。
「新しい屋敷、できたって」
胸の奥が、少しだけ弾んだ。
昼食を終え、少し涼しい室内でのんびりしていると――
玄関の方から、かすかに人の気配がした。
「……お父様、帰ってきたのかな?」
そう呟いたところで、
「エレノア、いるか?」
ちょうどタイミングよく声がかかる。
「はーい」
ぱたぱたと足音を立てながら玄関へ向かうと、そこにはお父様の姿があった。
……そして。
「――失礼するよ」
その隣には、見慣れたもう一人の姿。
「宰相様……?」
思わず目を瞬かせる。
どうしてここに、という疑問が顔に出ていたのだろう。
宰相様はわずかに口元を緩めた。
「突然で申し訳ない。少し用があってな」
「用、ですか?」
首をかしげると、お父様が軽く苦笑する。
「まあ、その件もあるが……今日はもう一つだ」
そう言って、私を見る。
「エレノア。例の屋敷だがな」
「……!」
その一言で、胸がぱっと明るくなる。
「整備が完了した」
「本当ですか!?」
思わず一歩踏み出してしまう。
お父様は小さく頷いた。
「ああ。ちょうどいい機会だ。宰相殿にも一度見てもらうことになってな」
「なるほど……」
宰相様が静かに周囲を見渡す。
その視線は穏やかだが、どこか観察するようでもあった。
「王都内に新たに設けられた拠点――一度確認しておく必要があるのでね」
「……拠点?」
ぽつりと呟く。
(屋敷、だよね……?)
少しだけ首をかしげながらも、すぐに気を取り直す。
「じゃあ、今から行くんですか?」
「ああ」
お父様が頷く。
「準備はできている。すぐに向かおう」
「はい!」
自然と声が弾んだ。
馬車に揺られることしばらく。
私の新しい屋敷は、王城からほど近い場所に出来上がっていた。
窓の外に見えるのは、見慣れた貴族街の景色。
けれど――
「……あれ?」
ふと、違和感に気づく。
大きく場所が変わったわけじゃない。
通りをいくつか曲がっただけ。
それなのに、空気が少し違う。
人通りが、わずかに減っている。
屋敷同士の間隔も、少し広い。
「……この辺り、少し静かですね」
そう呟くと、
「ああ」
と、お父様が頷いた。
「王城周辺の中でも、限られた家しか持てない区画だ」
「限られた……?」
「出入りもある程度制限されている。警備も厳しい」
淡々とした説明。
「拠点を置くには都合がいい場所だ」
「拠点……」
やっぱりそういう扱いなんだ、と少しだけ思う。
でも――
「(それでも)」
胸の奥では、別の感情の方が大きかった。
「早く見てみたいです」
素直にそう言うと、
向かいに座る宰相様が、わずかに目を細める。
「楽しみなようだな」
「はい!」
即答だった。
その様子に、宰相様は小さく息をつく。
「……なるほど」
何かを納得したように呟くが、その意味はよく分からない。
そんなやり取りをしているうちに――
馬車がゆっくりと速度を落とした。
「到着だ」
お父様の声と同時に、馬車が静かに止まる。
扉が開かれ、外の光が差し込んだ。
一歩、外へ出る。
そして――
「……え」
思わず、言葉が漏れた。
目の前に広がっていたのは――
新しい屋敷。
その周囲は、金属製の高いフェンスでぐるりと囲まれている。
ただの柵、というにはあまりにも頑丈で。
どこか、侵入を拒むような圧すら感じた。
正面には大きな門。
そして、その左右には――
「……詰め所?」
門番のためと思われる小さな建物が設けられている。
人の気配はまだないが、いつでも配置できるようになっているのが分かった。
「……お屋敷、だよね?」
ぽつりと呟く。
どう見ても、普通の貴族の屋敷とは違う。
どちらかというと――
「(要塞……?)」
そんな言葉が、頭をよぎった。
「ここがエレノアの新しい屋敷だ」
お父様が、当たり前のように言った。
「……そうなんですね」
もう一度、目の前の光景を見る。
高いフェンス。
重厚な門。
その両脇に設けられた詰め所。
そして、その奥に見える建物。
「(やっぱり、どう見ても……)」
言いかけて、やめた。
たぶん、言っても「そういうものだ」で終わる気がする。
「中に入るぞ」
お父様の一言で、門がゆっくりと開かれる。
きぃ、と金属が擦れる低い音。
それだけで、どこか“普通じゃない場所”に足を踏み入れるような気がした。
一歩、中へ。
「……わぁ」
思わず、声が漏れる。
外から見たときの印象とは違い、中はずっと穏やかだった。
広く整えられた庭。
手入れの行き届いた芝生。
花壇には季節の花が並び、風に揺れている。
そして――
その中央にあるものに、思わず足が止まった。
「……大きい」
そこにあったのは、噴水だった。
広場に設置されるような、かなり大きなもの。
段階状に水が流れ落ち、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
水音が心地よく響いていて、それだけで空気が少し涼しく感じられた。
「すごい……」
自然と、見入ってしまう。
「気に入ったか?」
お父様の声に、こくこくと頷く。
「はい! すごくきれいです!」
ぱっと笑うと、お父様も少しだけ表情を緩めた。
そのまま視線を巡らせると――
「……あれ?」
庭の一角に、井戸が見えた。
しっかりとした造りの、よくある石造りの井戸。
「井戸……?」
少し近づいてみる。
見た目は、特別変わったところはない。
「生活用水の確保だ」
お父様が、いつもの調子で説明する。
「井戸自体は珍しいものではない。貴族の屋敷にもよくあるものだ」
「はい」
そこは、私でも分かる。
けれど――
「ただし」
その一言で、少しだけ空気が変わった。
「この井戸には、汚染対策として防護陣が施されている」
「……防護陣?」
思わず聞き返す。
改めて見ると、石組みの縁や足元に、うっすらと紋様のようなものが刻まれているのが分かった。
「毒物、呪詛、魔力汚染――そういった外部からの干渉を遮断するためのものだ」
「水源そのものにも、干渉防止の処置を施している」
さらりと言われた内容が、ちょっとだけ物騒だった。
「つまり、この井戸の水は常に安全が保証される」
「……すごいですね」
思わず、そんな言葉が出る。
井戸は普通。
でも、その中身は全然普通じゃない。
そんな違和感。
その時。
「当然だな」
宰相様が、井戸の縁を一瞥しながら口を開いた。
「通常の井戸は、外部からの干渉に対して無防備だ」
「毒物の投与、呪詛の混入――対策はいくらでもある」
淡々と、怖いことを言う。
「それを防ぐための防護は必須と言える」
「……必須、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
「対象が一般的な貴族であれば不要だろう」
一拍。
「だが、エレノア様であれば話は別だ」
静かに、断言した。
「むしろ、この程度で十分とは言い難い」
「多層化、冗長化、代替水源の確保――検討すべき点はいくらでもある」
「……宰相殿」
お父様が、やや呆れたように息をついた。
「それ以上を求めると際限がない」
「必要なものに際限を設ける理由はない」
即答だった。
「……」
思わず、井戸と噴水を見比べる。
さっきまで、ただ「きれい」って思っていたのに。
今は――
「(やっぱり、ちょっと普通じゃない気がする……)」
そんなことを思いながら、さらに奥へと進む。
やがて、建物の全体像がはっきりと見えてきた。
「……あれ?」
思わず首をかしげる。
正面から見たときは一つの大きな屋敷に見えたけれど――
よく見ると、構造が少し変わっている。
「L字……?」
建物の一部が横に伸びていて、そこからさらに別の棟が接続されている。
まるで、L字とT字を組み合わせたような形だ。
「不思議な形ですね」
素直にそう言うと、
「意図的なものだ」
お父様が静かに答えた。
「生活空間と、警備・運用の区画を分けている」
「……運用?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
すると、横から宰相様が補足した。
「エレノア様の居住区は中央と奥の区画」
「そして側面に伸びている棟が、警備にあたる者たちの宿舎および詰所だ」
「宿舎……?」
思わず、その方向を見る。
たしかに、そちらの棟はどこか実用性を重視した造りに見えた。
装飾は少なく、出入りもしやすそうだ。
「常時警備を維持するためには、敷地内に拠点が必要になる」
お父様が続ける。
「外から通わせるよりも、即応性が高い」
「なるほど……」
なんとなく分かったような気がする。
「(やっぱり、ちょっと大げさな気もするけど……)」
そう思ったところで。
「大げさではない」
宰相様が即座に言った。
「これでもなお、最低限の配置だ」
「……最低限なんですね」
もう驚かなくなってきた。
「中を見てみるといい」
お父様に促され、私はそのまま宿舎の方へと足を向ける。
入口の扉が開かれる。
中に入った瞬間――
「――運び込め! そっちは奥だ!」
「資材は壁際に寄せろ!」
「動線を塞ぐな、順番を考えろ!」
一気に、賑やかな声が飛び込んできた。
「……わぁ」
思わず、目をぱちぱちと瞬かせる。
中では、多くの人が忙しそうに動いていた。
木箱を運ぶ者。
装備を整える者。
書類を確認している者。
その動きは統率されていて、無駄がない。
ただの使用人とは、どこか違う雰囲気。
「……引っ越し中なんですね」
そう呟くと、
「ああ」
お父様が短く答える。
「こちらへ拠点を移すことになった」
「本日から本格的に運用を開始する」
「運用……」
同じ言葉が、また出てきた。
その時。
「エレノア様」
アランが、少しだけ声の調子を落として言った。
「こちらが、警備および対応を担う者たちの拠点となります」
「ここを中心に、屋敷全体の安全を維持していきます」
「……」
その言葉を聞いて。
もう一度、周囲を見渡す。
忙しそうに動く人たち。
整えられていく設備。
ここが、“守るための場所”なんだと――
少しだけ、実感した。
けれど。
「……すごいですね」
出てきたのは、やっぱりそんな感想だった。
するとアランは、一瞬だけ言葉に詰まり――
「……ありがとうございます」
少しだけ困ったように、そう答えた。
その背後で。
「……順調だな」
宰相様が、低く呟く。
「問題ありません」
お父様が静かに返す。
短い会話。
けれど、その内容までは分からない。
ただ――
「(なんだか、すごい人たちなんだなぁ)」
そんな、ぼんやりとした感想だけが残った。
「こっちが居住区だ」
お父様に案内され、建物の中央側へと足を進める。
先ほどまでの慌ただしい空気とは打って変わって――
扉をくぐった瞬間、空気が柔らかく変わった。
「……わぁ」
思わず、声が漏れる。
落ち着いた色合いの内装。
広く取られた廊下。
窓から差し込む光が、室内を優しく照らしている。
さっきまでの“拠点”の雰囲気とは違う。
ちゃんと、“お屋敷”だ。
「安心したか?」
お父様が少しだけ笑う。
「はい……」
正直に頷く。
(よかった……ちゃんとおうちだった)
安堵した、その瞬間――
「エレノアー!! 遅いよ!!」
「……え?」
振り向いた瞬間。
「ミストルティン様!?」
いつの間にいたのか、当然のように立っていた。
距離が近い。
すごく近い。
「もう! 待ちくたびれたよ!」
「え、なんでここに……」
「なんでって……私もここに住むからだよ!」
即答だった。
「……はい?」
理解が追いつかない。
「だって、エレノアがいないと寂しいんだもん!」
満面の笑みで言い切られる。
「えっと……」
言葉を探していると――
「……そう、ですか」
宰相様が、わずかに間を置いてから口を開いた。
「理由としては非常に……個人的ですが」
ちらりとこちらを見る。
「神族の判断である以上、こちらから申し上げることは特にありません」
「いいよね!」
即座に食いつくミストルティン様。
「……ええ、まあ」
ほんの少しだけ苦笑が混じる。
「“そういうもの”として理解しておきましょう」
(納得したわけじゃないんだ……)
なんとなく察する。
その時――
ぎゅっ。
「わっ」
腕を抱きしめられる。
「エレノアはいいよね?」
「え、えっと……」
距離が近い。
すごく近い。
「……はい」
小さく頷くと、
「よかった!」
ぱっと顔が明るくなる。
「これでずっと一緒だね!」
嬉しそうに言うミストルティン様。
その様子を見て――
「……まあ、エレノアが良いのであれば」
お父様が穏やかに頷いた。
こうして。
神族との同居は――
特に大きな反対もなく。
あまりにも軽い理由で、あっさりと決定したのだった。




