68話 王国の要請、毒の町⑮
診療は今日から再開された。
病院の中は、以前とは少し様子が変わっていた。
窓から差し込む昼の光の下で、私は書類を手に取りながら、報告書に目を通すふりをしていた。
アルは窓際に立ち、外の様子を確認しながら護衛計画を見直している。
ミストルティン様は机の上で資料を整理している。
医師団からの報告によると、治療を受ける際のルールが少し厳格化されていた。
以前は「早い者勝ち」で順番が決まっていたが、今は過去に治療を受けていない人が優先されるようになったらしい。
さらに、治療を受ける際には必ず同意書に署名し、次に鉄砲魚を食べて当たった場合でも、治療を拒否する権利を尊重することが義務付けられた。
「……なるほど、昔よりずっと慎重になったのね」
私は小さく息をつく。
それだけではない。
三度目以降に鉄砲魚で被害を受けた者は、即時拘束される規則も追加されていた。
また、鉄砲魚を入手した経緯を詳しく説明する義務も課されることになったらしい。
──過去のように、ただ病院に駆け込めば治療してもらえる時代は終わったのだ。
これらのルールは、患者自身を守るためのものではあるけれど、同時に治療を受けるハードルも高くなった。
私は視線を窓の外に向ける。
庭の木々は穏やかに揺れているけれど、その裏で、外の世界は少しずつ変化している。
この屋敷の中で安全に過ごしている今でさえ、何かが起こるかもしれない。
小さな息を吐き、私はそっと書類を閉じた。
今日もまた、慎重に、静かに時間をやり過ごさなければならない。
私は視線を窓の外に向けた。
庭の木々は穏やかに揺れているけれど、屋敷の外では相変わらず騒がしい声が響いていた。
デモだ。
「無条件で治療をしろ!!」
「治療再開してるのに引き籠っているとかいいご身分だな!」
「何もしないなら帰れ!!」
怒声が断続的に屋敷まで届く。
昨日と同じくらい、いやそれ以上に熱を帯びているように感じた。
私は小さく肩をすくめる。
どうやら診療が再開されたことは伝わっているらしい。
けれど――屋敷にいる私たちには納得していないようだった。
その時、隣で窓の外を眺めていたアルが腕を組みながらぼそっと言う。
「……一発、黙らせてこようかな」
「え?」
私は思わず振り向いた。
アルは窓の外の群衆を見下ろしながら、肩を鳴らす。
「ちょっと外に出て、静かにしろって言うだけだ」
拳を軽く握る。
「言葉が通じなきゃ、身体で理解してもらう」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
私は慌てて立ち上がった。
だがアルは、すでに扉の方へ歩き出している。
その瞬間――
ゴツン。
鈍い音が部屋に響いた。
「痛っ!?」
アルが頭を押さえて振り返る。
その背後に立っていたのは、いつの間にか近づいていたミストルティン様だった。
ミストルティン様は、こめかみに青筋を浮かべながら微笑んでいる。
笑っているのに、なぜか背筋が寒くなる。
「アル」
とても穏やかな声だった。
「何をしようとしていたのかな?」
「いや、ちょっと黙らせてこようと――」
アルが言い終わる前に、再び――
ゴン。
「ぐっ!?」
今度は先ほどより少し強めだった。
私は思わず肩を震わせる。
ミストルティン様はにっこり笑う。
「暴力で解決しようとするのは感心しないね」
アルは頭を押さえながら文句を言う。
「いやでも、あの騒ぎ聞こえてるだろ……」
「聞こえてるよ?」
ミストルティン様は窓の外をちらりと見る。
「でも、それで殴り込みに行くのは違うでしょ」
そして、軽くため息をついた。
「全くもう……」
次の瞬間、アルの耳をぐいっと引っ張る。
「いっでぇ!?!?」
「お仕置き」
ミストルティン様はにっこり笑った。
「少し頭を冷やそうか」
「いや耳!耳取れる!?」
私は思わず苦笑してしまう。
外ではまだデモの怒声が続いている。
けれど――
少なくとも、この部屋の中はいつも通りだった。
――バレンシア・黒鴉商会本部
「ターゲットに感づかれた可能性があるだと?」
低く押し殺した声が、薄暗い部屋の中に響いた。
「へぇ!」
報告している男は、どこか芝居がかった口調で答える。
「ヘルガーのババァがターゲットが滞在する屋敷へ出向いたことを確認しておりやす! 帰宅の際に数名の騎士を引き連れていることも確認しているので、間違いありやせん!」
机の向こうに座る男は、しばらく黙り込んだ。
指先で机を軽く叩く。
「だとしたら、面倒なことになったぞ……」
部屋の奥にいた別の男が鼻で笑う。
「別に問題ないだろ。
最初から多少の警戒はされる想定だったはずだ」
「程度の問題だ」
机の男はゆっくり椅子にもたれた。
「相手は、ただの錬金術師じゃない。
王都で噂になるほど腕の立つ錬金術師だ」
机の上には数枚の書類が広げられている。
そこには屋敷の簡単な見取り図や、出入りしている人物の情報が書かれていた。
「ターゲットの護衛は、当初の想定よりもさらに厳重になることは確実だな……」
机の奥に座る男は、紙の一枚を指先で押さえながら低く呟く。
「計画を見直す必要がありそうだ」
その言葉に、壁際に立っていた男が頷いた。
「そうですな。
ただでさえターゲットに隙がない現状、このまま計画を実行すれば……」
男は肩をすくめた。
「この場にいる全員の首が、体とお別れすることになりかねません」
地下室の空気が、わずかに重くなる。
「本来であれば、診療後の混乱に乗じて攫う計画だったよな?」
幹部の一人が低い声で言った。
「へぇ! その通りでありやす!」
部下らしき男が勢いよくうなずく。
「今後、ターゲットが外出する可能性は?」
その問いに答えたのは、先ほどとは別の幹部だった。
「限りなく低いでしょうな……。
なんせ相手は王族からの依頼で動いていると聞く。
そもそも王都では、限られた者しか会うことのできない人物。
となれば、向こうも相当警戒しているはずです」
「ふむ……どうしたものか……」
最初に口を開いた幹部が、深紅の椅子の背もたれに体を預けた。
地下室の薄暗い灯りが、男たちの影を長く床へ落としている。
「ヘルガーのババァが屋敷へ行った時点で、外へ誘い出す作戦も無効……。
となると、想定していたプランはすべて無理だな」
別の幹部が腕を組みながら呟く。
「それもそうだが、屋敷内部の護衛配置や、ターゲットに付き添う護衛の戦力も把握できていない。
ましてや外には、我々が煽った馬鹿な市民がデモをやっている。あの状況では、必ず人目につく」
地下室に再び沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、低くしゃがれた声だった。
「夜に攫えば問題なかろう」
男は指先で机を軽く叩きながら続ける。
「それにターゲットは、我々が使っても美味しい上に、売っても金になる。
リスクを負ってでも実行すべきだとは思うが……どうかね?」
男たちの視線が、深紅の椅子に座る幹部へと向けられる。
「今のままでは、実行しても失敗することが目に見えている。
最低でも、付き添いの護衛だけでも把握せねばならない」
別の幹部が低く言った。
すると、先ほどまで黙っていた男が口元を歪める。
「なに、問題ない。
既にその付き添いの名は把握済みだ」
男たちの視線が一斉にそちらへ向く。
「ターゲットに常に付き添っているのは二人。
ミストルティンとアルだ」
その名を聞いた幹部の一人が、わずかに眉をひそめた。
「……ミストルティン?」
「ああ。神話に出てくる魔法の神と同じ名前だな」
男は肩をすくめる。
「もっとも、名前が同じだからといって神というわけでもあるまい。
世の中には神の名を子に付ける馬鹿な親もいる」
何人かが小さく笑った。
別の幹部が腕を組む。
「つまり、ただの人間というわけか」
「おそらくな。だが王族からの依頼で動いている以上、
それなりに腕の立つ護衛ではあるだろう」
男は机の上の資料を指で叩いた。
「可能性としては――噂に聞く王族直属の部隊の一員、といったところじゃないか」
地下室に一瞬の沈黙が落ちる。
その時だった。
部屋の奥――
これまで黙って話を聞いていた男が、ゆっくりと口を開いた。
「――実行日は、明日の夜にする」
その一言で、地下室の空気が変わる。
男たちは一斉に背筋を伸ばした。
深紅の椅子に座る男――この場のボスだった。
「寝込みを襲おうが、正面から突破しようが構わん」
低く、冷たい声が地下室に響く。
「方法は任せる」
男はゆっくりと指を組み、続けた。
「だが――生きたまま捕らえろ」
わずかに口元が歪む。
「あの娘は、ゆくゆくは奴隷として売る大切な商品だ。傷一つ付けるな」
地下室の空気が凍りつく。
そして、ボスは淡々と言い放った。
「もし失敗すれば……魚の餌になることを覚悟しておけ」
幹部たちは静かに頷いた。
「……了解しました、ボス」
作戦の実行日は――明日の夜。
誘拐計画は、静かに決定された。




