67話 王国の要請、毒の町⑭
ヘルガーさんとの話を終え、私たちは応接室を出た。
伯爵様の指示で、ヘルガーさんの工房には騎士が数人派遣され、そのまま騎士たちが護衛としてついていくことになった。
「まったく、大げさだねぇ」
そう言いながらも、ヘルガーさんはどこか楽しそうに笑っていた。
「何事も備えは必要です」
伯爵様が落ち着いた声で言う。
「黒鴉商会とやらが本当に動いているのであれば、念には念を入れるべきでしょう」
ヘルガーさんは肩をすくめた。
「分かったよ。年寄り一人より、騎士が何人かいた方が安心なのも確かだしね」
そう言って私の方を見る。
「お前さんも気をつけな」
「はい」
私は小さく頷いた。
「今日はありがとうございました」
「なに、礼なんていらないさ」
ヘルガーさんは軽く手を振る。
「また何か分かったら知らせるよ」
そう言い残し、騎士たちと共に廊下を歩いていく。
やがてヘルガーさんの姿が廊下の角の向こうに消えた。
その背中を見送ってから、伯爵様が静かに口を開いた。
「警備はこのまま続ける」
近くに控えていた騎士に視線を向ける。
「屋敷周辺の警戒も強めておけ」
「はっ!」
騎士は力強く答え、その場を離れていった。
アルが腕を組む。
「黒鴉商会、か……厄介なのが出てきたな」
ミストルティン様も小さく肩をすくめる。
「裏商会なら、何をしてきてもおかしくないわね」
私は二人の言葉を聞きながら、小さく息を吐いた。
伯爵様は私を見て言った。
「エレノア様」
「はい」
「しばらくは屋敷の中で過ごしてください」
静かな口調だが、はっきりとした指示だった。
「安全が確認されるまでは、それが最善です」
「……分かりました」
私は頷き、アルたちに軽く会釈してその場を離れる。
廊下にはいつもより多くの騎士が配置されていた。
窓の外からは、まだ市民たちの声が遠くに聞こえる。
そのまま廊下を歩き、自分の客室へ戻った。
扉を開けて中に入ると、少ししてからアルとミストルティン様も部屋へ入ってくる。
三人とも自然とソファの方へ向かった。
窓から差し込む昼の光が、部屋の中を静かに照らしている。
私はゆっくりと腰を下ろし、小さく息を吐いた。
「……黒鴉商会」
思わず、その名前を口にしてしまう。
アルが腕を組む。
「厄介なのが出てきたな」
「裏商会って話だったわね」
ミストルティン様が足を組みながら言う。
「表の商人とは違う。法律も倫理も関係なく動く連中よ」
私は黙って二人の言葉を聞いていた。
ヘルガーさんの話が頭の中で何度も繰り返される。
――お前さんを囲い込むつもりじゃないか。
「私を……囲い込む……」
思わず呟いてしまう。
アルがこちらを見る。
「気にするなとは言わねぇが、まだ確定じゃない」
「そうね」
ミストルティン様も頷く。
「ただ、可能性としては十分あり得るわ」
少し真面目な顔になったミストルティン様。
「最悪の場合に備えて、私は寝ずに見張っておくわ」
私は思わず顔を上げる。
「もし寝ている時に襲撃されても、私なら転移魔法で一時的に王都か、私の領域に避難させることができるし」
アルが腕を組んだまま頷く。
「俺はお前ほど魔法が使えるわけじゃないが、腕には自信がある」
拳を軽く握り、続けた。
「押し入ってきたら、ぶっ飛ばすだけだ」
あまりにも物騒な言葉に、私は慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!? 寝ないのは体に悪いですよ!?」
二人を交互に見る。
「せめて交代の方がいいんじゃ……」
ミストルティン様はくすっと笑う。
「大丈夫よ。神族は睡眠を必要としないから」
そして少し首を傾げて考えるように続けた。
「まぁ、寝る人もいるけどね……」
そう言いながら、視線をゆっくりとクロノア様の方へ向けた。
アルも同じように視線を向け、少し呆れたように肩をすくめる。
「あいつは……一種の趣味というか、ぐーたらなだけのような気もするがな……」
ミストルティン様がくすっと笑う。
「それでも、やる時はやるし別にいいんじゃない? ああ見えて、ちゃんと警戒しているんだからね」
私は思わずクロノア様の方を見る。
確かに、いつもはのんびりしているように見えるけれど――
本当に警戒しているのだろうか。
アルが小さく肩をすくめた。
「まぁ、警戒してくれるならそれでいいさ」
ミストルティン様も軽く頷く。
「念のためってやつね」
少しだけ部屋の中が静かになる。
その時、ふと私は思い出した。
「あ……」
二人がこちらを見る。
「エルフの女の子、そろそろ目を覚ましてもおかしくない頃ですよね」
アルが腕を組む。
「そういや、そんな話だったな」
ミストルティン様も思い出したように言う。
「治療したの三日前だし、そろそろかもね」
アルがベッドの方を見る。
「じゃあ、いつ起きてもおかしくないってことか」
私は静かにベッドへ視線を向けた。
部屋の隅に置かれたベッド。
そこに、エルフの少女は横になっている。
最初に見た時は、生命の循環も精神もめちゃくちゃに乱され、とてもひどい状態だった。
だが今は、生命の循環は自然そのものだ。
「本当は、精神もなんとかしてあげたかったんですけどね……」
私がそう言うと、ミストルティン様が小さく首を振る。
「仕方ないよ……あんな壊され方してたし、無理に繋いだら逆に危険だしね」
そう言って、そっと少女の頬を撫でる。
「ん……」
少女がかすかに声を漏らす。
長いまつ毛が微かに震えた。
「起きた……のかしら?」
私は思わず身を乗り出した。
少女の胸がゆっくりと上下する。
そして、まぶたが震え、わずかに持ち上がる。
淡い光を宿した瞳が細く開いた。
焦点はまだ定まっていない。
天井をぼんやりと見つめたまま、少女は小さく息を吸った。
長い眠りから覚めたばかりのように、呼吸はぎこちない。
「……っ」
喉がわずかに震え、声にならない息が漏れる。
目は完全に覚めているが、長年の眠りのせいか、どこかまだ眠たげな表情だ。
やがて意識がはっきりしてきたのか、瞳がゆっくりと動く。
そして周囲の様子を確かめるように見回し始めた。
「あなた達は誰……?」
かすれた声だった。長い眠りのせいか、言葉を発するのも久しぶりのように聞こえる。
私は一歩前へ出る。
急に近づけば驚かせてしまうかもしれないと思い、できるだけゆっくりと。
「安心してください。あなたを助けた者です」
少女の視線が私に向く。
その瞳には警戒というより、純粋な戸惑いが浮かんでいた。
まるで、世界そのものが分からないと言うように。
私は小さく名乗る。
「私は、エレノア・フォン・レーヴェンです!」
「私は、エレノアの姉でアメリア・フォン・レーヴェンよ」
「私は、メルっていいます!」
「カイルです。よろしく」
一通り自己紹介が終わると、ベッドに横たわる少女は少し戸惑ったように私たちを見回した。
まだ頭が整理できていないのか、その視線はどこか不安げだ。
その様子を見て、ミストルティン様が小さく笑った。
「おっと、私たちの番がまだだったね」
そう言いながら一歩前に出る。
「私はミストルティン」
穏やかな声だった。
その隣で腕を組んでいたアル様も、短く名乗る。
「アルだ」
「んで、そっちで呑気に寝ている子はクロノアね」
アメリアお姉さまが、部屋の隅を指さす。
そこではクロノアが相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
「お前、自己紹介くらいしろよ……」
アル様が呆れたように言う。
だが、当の本人はまったく反応せず、スヤスヤと寝息を立てていた。
そんな様子を横目に、少女が口を開く。
「私は――……」
そこまで言いかけて、言葉を止めた。
しばらく黙り込み、やがて俯く。
「ごめんなさい……」
弱々しい声だった。
「何も……覚えていないんです……」
その言葉を聞き、ミストルティン様が静かに口を開いた。
「無理して思い出そうとしなくていいよ」
穏やかな声だった。
「だってあなた、数千万年も眠り続けていたんだもの。それに魔法で精神をひどく破壊されていたし……無理もないよ」
少女は驚いたように目を見開く。
「え……私、数千万年も寝ていたんですか……?」
「推定だけどね……」
ミストルティン様はそう言って、少女の様子を静かに観察する。
そして続けて尋ねた。
「あなたは、どうしてあの施設に閉じ込められていたの?」
「施設……ですか?」
少女はきょとんとした表情を浮かべる。
「何か覚えていない? あなた、地下に数千万年もの間閉じ込められていたのよ?」
少女は困ったように視線を落とす。
「ごめんなさい……なにも覚えていないんです……」
その言葉に、アル様が小さく呟いた。
「やっぱり精神がめちゃくちゃに破壊されていたなら、何もかも記憶がないのは当然か……」
「そうみたいね……」
アメリアお姉さまも静かに頷いた。
部屋の中に、少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
少女は申し訳なさそうに膝の上で手を握りしめていた。
「……あの」
遠慮がちに、少女が口を開く。
「私……名前も、思い出せなくて……」
その言葉に、私は思わず息を呑む。
「そっか……」
メルが小さく呟く。
名前すら分からない。
それは、自分が誰なのかすら分からないということだ。
ミストルティン様はしばらく少女の顔を見つめた後、穏やかに口を開く。
「それなら――」
少し楽しそうに微笑む。
「あなたの新しい名前を、ここで決めてしまうのも悪くないかもしれないね」
少女は驚いたように顔を上げる。
「名前……ですか?」
私は少女の顔を見つめる。少し戸惑った表情をしている。
ミストルティン様が穏やかに微笑む。
「記憶が戻るまでの間だけでもいい。呼び名がないと不便だからね」
「確かにそうね」
アメリアお姉さまも頷く。
「じゃあ、みんなで考えてみる?」
「いいですね!」
私はぱっと表情を明るくして、エルフっぽい名前を考える。
「えっと……エルミナとか?」
「ノエリアなんてどう?」
アメリアお姉さまが続けて言う。
カイルも少し考え込んでから提案する。
「リュミエル、とか?」
「……みんな、普通すぎません?」
その時、アルが腕を組んだまま不敵に笑う。
「俺なら、『グロブルガス』とかどうだ?」
「えっ……?」
思わず私は目を見開く。
少女も目をまん丸にして固まった。
「……冗談だよ、冗談」
アルは肩をすくめて笑う。
「ちょっと変な案を出してみただけ」
そんな中、メルが小さく手を挙げる。
私は耳を傾けた。
「えっと……リリアってどうでしょう?」
みんなの視線がメルに集まる。
少女はその名前を口の中でそっと繰り返す。
「……リリア」
不思議そうに、でもどこか嬉しそうに微笑んだ。
私は思わずにっこり笑う。
「いい名前だね、リリア」
メルも少し照れくさそうに笑う。
「じゃあ決まりね」
アメリアお姉さまが言うと、私もカイルも自然に頷いた。
リリアはまだ少し戸惑いながらも、名前をもう一度口に出してみる。
「リリア……」
私は彼女の顔を見て、優しく微笑んだ。
「これからよろしくね、リリア」
部屋の中に、少しだけ柔らかな空気が満ちたのを感じた。




