66話 王国の要請、毒の町⑬
あの暴動から、二日が経った――。
それでも、オスバルト伯爵様の別荘の門前では、相変わらず市民たちのデモが続いていた。
さすがに最初の日ほどの人数ではない。
門の外から、相変わらず抗議の声が聞こえてくる。
「診療を再開しろ!」
「鉄砲魚を食うのは俺たちの自由だ!」
騎士たちは門前で隊列を保ちながら、市民との距離を維持していた。
大きな衝突こそ起きていないものの、空気は依然として張り詰めている。
そんな中――門前の騎士たちが突然動いた。
「下がれ!」
騎士の一人が声を張り上げ、市民たちを押しとどめる。
「通行を確保する!」
抗議していた市民たちがざわめいた。
「なんだよ!」
「誰を通すんだ!」
騎士たちは門の前に壁を作り、群衆を左右に押し分けて道を作る。
騒がしい声が飛び交う中、その隙間をゆっくりと一人の男が歩いてきた。
見覚えのある顔だった。
私は思わず窓に身を乗り出す。
「……ヘルガーさん?」
門を通って別荘の敷地へ入ってきたのは、この港町で錬金術師として活動しているヘルガーさんだった。
少し無精ひげの伸びた顔に、いつもの作業着。
だが、その表情にはどこか疲れた色が浮かんでいる。
門の外では、すぐに怒声が上がった。
「なんであいつだけ通すんだ!」
「ふざけんな!」
しかし騎士たちは微動だにせず、群衆を押さえ込んでいる。
ヘルガーさんは一度だけ門の外を振り返り、小さく息を吐いた。
それから、まっすぐ別荘へと歩いてくる。
その様子を見ていたアルが、腕を組みながら言った。
「ヘルガーじゃねえか」
ミストルティン様も軽く肩をすくめる。
「こんな状況で来るなんてね。相変わらず肝が据わってるわ」
私は小さく頷いた。
ヘルガーさんは、この町で長く錬金術を扱ってきた人だ。
鉄砲魚の件でも、色々と情報を教えてくれていた。
それでも――
「どうして、ヘルガーさんが……?」
胸の奥に、小さな疑問が浮かぶ。
やがて別荘の扉の前で騎士が止まり、こちらへ向き直った。
「エレノア様」
騎士は丁寧に頭を下げる。
「来客です。錬金術師ヘルガー殿が、どうしてもお話ししたいことがあると」
私はミストルティン様とアルの顔を見る。
二人とも、静かに頷いた。
私は小さく息をつき、騎士へ言った。
「……通してください」
騒ぎの続く中、わざわざここまで来た理由。
――きっと、何かがある。
そんな予感がしていた。
やがて、玄関ホールにヘルガーさんの姿が現れた。
二日前よりも少しだけ疲れて見えるが、歩き方はいつも通りどっしりとしている。
門の外の騒ぎが嘘のように、室内は静かだった。
ヘルガーさんは私たちの姿を見ると、軽く手を上げた。
「久しぶりだな、お前さん」
落ち着いた、いつもの声だった。
私は一歩前に出て、軽く頭を下げる。
「お久しぶりです、ヘルガーさん」
アルが腕を組んだまま笑う。
「よぉ、ヘルガー。ずいぶん堂々と来たじゃねえか」
ミストルティン様も横でくすっと笑った。
「門の外、結構な騒ぎだったでしょ」
ヘルガーさんは肩をすくめる。
「まあな。騎士たちに通してもらえなきゃ、ここまで来るのも一苦労だった」
そう言ってから、少しだけ表情を引き締めた。
視線が、まっすぐ私へ向く。
「だが……今日は雑談しに来たわけじゃねぇ」
ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「鉄砲魚の件でな。お前さんに話しておきたいことがある」
その一言で、部屋の空気がわずかに変わった。
私は一瞬だけミストルティン様とアルの顔を見る。
二人とも、黙って頷いた。
どうやら、ただ事ではなさそうだ。
それでも――立ち話というわけにはいかない。
私は軽く手を差し出した。
「ここでは落ち着いて話せませんし……せめて応接室へどうぞ」
ヘルガーさんは少し驚いたように眉を上げ、それから小さく笑った。
「気を遣わせちまったな」
「いえ」
私は首を横に振る。
「こんな状況でも来てくださったんです。お話はきちんと聞きます」
するとアルが肩を回しながら言う。
「まあ、外であんな騒ぎ見せられたあとだ。ゆっくり座って話したほうがいいだろ」
ミストルティン様もくすっと笑う。
「そうね。立ち話で済ませるような顔してないもの」
ヘルガーさんは「違いねぇ」と小さく頷いた。
私は騎士に目配せする。
「応接室を使います」
「はっ」
騎士はすぐに道を空けた。
私は先に立ち、廊下を歩き出す。
後ろから、ヘルガーさんの重い足音がついてきた。
外ではまだ市民たちの抗議の声が遠くに聞こえている。
けれど――
これから聞く話は、おそらくそれ以上に重要なものになる。
そんな予感がしていた。
応接室にやってきた私たちは、部屋の中央に置かれたソファへそれぞれ腰を下ろした。
私たちの後ろには騎士が五人控えており、万が一に備えて警戒態勢をとっている。
外ではまだデモの声がかすかに聞こえていたが、この部屋の中は驚くほど静かだった。
ヘルガーさんは深く腰を掛け、軽く肩を回す。
「で、お前さん達に話す前にだ」
少しだけ笑いながら言った。
「例のポーションは、とりあえず千二百本分作っといたわ」
私は思わず目を見開いた。
「えっ……」
ヘルガーさんは頭をかきながら続ける。
「流石に一人であの量はきつかったがね」
私は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます……ヘルガーさんにばかり負担をかけてしまって……」
本来なら、私も一緒に作るはずだった量だ。
それを、ヘルガーさん一人に任せてしまっている。
申し訳なさで胸が少しだけ痛む。
だがヘルガーさんは、軽く手を振った。
「いいのさ」
そう言ってから、真面目な顔になる。
「それよりも今は、お前さんの身の安全の方が大事だからな」
その言葉に、アルが腕を組んで頷いた。
「ま、確かに外はあの騒ぎだしな」
ミストルティン様も足を組みながら、少し楽しそうに言う。
「エレノアが外に出たら、今度こそ本当に暴動になるかもしれないしね」
冗談めいた口調だったが、完全な冗談でもなかった。
ヘルガーさんは小さく息を吐き、私を見た。
「……それでだ」
声の調子が少しだけ変わる。
「今日は、その鉄砲魚の件で話があって来た」
その言葉に、私は自然と背筋を伸ばした。
ヘルガーさんは腕を組み、少しだけ私を見据える。
「確か明日から診療再開だったはずだな?」
「はい……その予定です」
私は小さく頷いた。
病院は三日間の診療停止をしていた。
そして、その期間が明日で終わる。
だからこそ、診療は再開する予定だった。
だが――
ヘルガーさんはゆっくりと首を振った。
「婆さんからの忠告だ」
低い声でそう言う。
「当面の間は、ここから出ない方がいい」
アルが眉をひそめる。
「……どういう意味だ?」
ミストルティン様も足を組みながら、じっとヘルガーさんを見ていた。
私は静かに問いかける。
「ヘルガーさん……何かあったんですか?」
ヘルガーさんは少しだけ視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
「この騒ぎな」
低く、重い声だった。
「ただの市民の怒りだけで起きてるもんじゃねぇ」
その言葉に、部屋の空気が一瞬で変わる。
アルが身を乗り出す。
「……何だと?」
ヘルガーさんはゆっくりと続けた。
「誰かが裏で煽ってる」
騎士たちも微かに身構える。
ヘルガーさんは静かに言った。
「この騒動――」
そして、はっきりと告げた。
「裏で糸を引いてる奴がいる」
応接室の空気が、一気に重くなった。
アルが眉をひそめる。
「裏で煽ってる奴がいる……だと?」
ヘルガーさんは静かに頷いた。
「ああ。しかも、ただのならず者じゃない」
そう言って、少し声を落とす。
「裏の商会さ」
騎士の一人が小さく身を乗り出した。
「商会……?」
ヘルガーさんはゆっくりと言った。
「名は――黒鴉商会」
その名前を聞いた瞬間、騎士たちは顔を見合わせた。
「……黒鴉商会?」
「聞いたことがありませんな……」
「王国やオスバルト伯爵領の商会名簿にも、その名は……」
皆が首を傾げる。
するとヘルガーさんは、くくっと小さく笑った。
「そりゃそうさ」
肩をすくめながら言う。
「表の商会じゃないからね」
その一言に、騎士たちの表情が変わる。
アルが低く呟いた。
「……裏の商会か」
ヘルガーさんは頷いた。
「金になるなら何でもござれの連中さ。密輸、闇取引、違法素材の流通に人攫い……」
少しだけ間を置き、続ける。
「人を煽って騒ぎを起こすくらい、なんとも思っちゃいない」
私は思わず言葉を失った。
ミストルティン様が腕を組みながら口を開く。
「なるほどね。市民の怒りを利用して騒ぎを大きくしてるわけ」
「そういうことさ」
ヘルガーさんは静かに頷く。
そして、ゆっくりと私を見る。
その視線は、いつもの穏やかなものとは少し違っていた。
「で、問題はここからだよ」
部屋の全員が息を潜める。
ヘルガーさんは低く言った。
「連中の本当の狙いさ」
少しだけ間を置く。
「この騒動で鉄砲魚を危険なもんだと印象づける」
さらに続けた。
「そして――」
その視線が、まっすぐ私に向く。
「お前さんを、どこかに囲い込むつもりじゃないかと、あたしゃ睨んでる」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「どうして私を囲い込むんですか……?」
ヘルガーさんは小さく息を吐き、腕を組んだ。
「簡単な話さ」
低い声で続ける。
「王命で、鉄砲魚の流通と口にすることが禁止されただろう?」
私は静かに頷いた。
あの騒動のあと、王命によって鉄砲魚は完全に禁制品になった。
市場で売ることも、名前を出して取引することも許されていない。
ヘルガーさんは続ける。
「だがな――」
少し皮肉っぽく笑った。
「禁止されりゃ、逆に値は跳ね上がる」
騎士たちの一人が小さく息を呑む。
「現在、裏じゃ鉄砲魚は王命が出される前の……十倍以上の値で取引されてる」
アルが思わず低く唸った。
「十倍だと……?」
「そうさ」
ヘルガーさんは頷く。
「しかも鉄砲魚は、たまに当たる性質を持ってる」
ミストルティン様が小さく肩をすくめた。
「つまり、中毒になる可能性があるってことね」
「そういうことさ」
ヘルガーさんはゆっくり続ける。
「だがもし――」
その視線が再び私に向いた。
「中毒になっても確実に治せる手段があるとしたら?」
私ははっとする。
ヘルガーさんは静かに言った。
「お前さんの作るポーションだよ」
応接室の空気が、さらに重くなる。
「鉄砲魚を高値で売る。
万が一当たっても、お前さんのポーションで治療する」
ヘルガーさんは低くまとめた。
「そうすりゃ“安全な高級嗜好品”として売り出せる」
そして、はっきりと言った。
「だから連中は、お前さんを手元に置きたがる」
私は、言葉を失った。
そんなことを考える人たちがいるなんて、想像もしていなかった。
しばらくの沈黙のあと、ヘルガーさんがゆっくりと口を開く。
「まあ……あたしがこんな話をするのも理由がある」
私は顔を上げた。
「理由……ですか?」
ヘルガーさんは頷く。
「実はな」
少しだけ苦い顔をした。
「あたしのところにも来たんだよ」
アルが眉をひそめる。
「……誰がだ?」
ヘルガーさんは短く答えた。
「黒鴉商会の連中さ」
その言葉に、騎士たちがわずかに身構えた。
「アトリエに直接やってきてな」
ヘルガーさんは腕を組む。
「鉄砲魚の件で、色々と探りを入れてきた」
私は思わず身を乗り出す。
「それで……?」
ヘルガーさんは肩をすくめた。
「もちろん、全部話すわけないだろう?」
そして少しだけ笑う。
「あたしはこう言ってやったさ」
声色を変え、少し真似るように言った。
「“エレノアから作り方を教えてもらった時の、材料の余りを使って調合してるだけさ”ってな」
アルが思わず吹き出した。
「はっ、なるほどな」
ミストルティン様もくすっと笑う。
「完全に煙に巻いたわけね」
ヘルガーさんは鼻で笑った。
「そういうことさ」
そしてすぐに、表情が真面目に戻る。
「だがな」
ゆっくりと私を見る。
「連中、簡単には諦めそうにない」
その声には、はっきりとした警戒が滲んでいた。
「だから言ったんだ」
ヘルガーさんはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「当面の間は、ここから出ない方がいい」
外から聞こえるデモの声が、やけに遠く感じられた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて――
「話は分かった」
低く落ち着いた声が、応接室に響いた。
振り向くと、そこにはオスバルト伯爵様が立っていた。
いつから聞いていたのか、扉の近くで静かにこちらを見ている。
伯爵様はゆっくりと部屋の中へ歩み入り、ヘルガーさんに軽く頷いた。
「貴重な情報、感謝する」
ヘルガーさんは肩をすくめた。
「なに、町に長く住んでりゃ耳にも入ってくるさ」
伯爵様は小さく頷くと、背後の騎士へ視線を向けた。
「隊長」
「はっ」
騎士の一人が一歩前に出る。
伯爵様は迷いなく言った。
「ヘルガー殿のアトリエにも騎士を数名派遣しろ」
騎士は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに姿勢を正した。
「警護……ということでしょうか?」
「ああ」
伯爵様は静かに頷く。
「もし黒鴉商会とやらが本当に動いているのなら、ヘルガー殿にも接触を続ける可能性が高い」
そしてヘルガーさんを見る。
「巻き込んでしまい、申し訳ない」
ヘルガーさんはふっと笑った。
「気にしなさんな」
腕を組みながら言う。
「年寄り一人より、騎士が何人かいた方が心強いのは確かだからね」
アルが小さく笑った。
「決まりだな」
伯爵様は最後に騎士へ命じる。
「すぐに手配しろ」
「はっ!」
騎士は力強く答え、足早に部屋を出ていった。
応接室には、再び静けさが戻る。
けれど――
今回の騒動が、ただの町の混乱ではないことだけは、もう誰の目にも明らかだった。




