215話 投与開始、副作用の行方
今日は世間では「野獣の日」と呼ばれているそうですね(笑)
……だからこの話を書いたわけではありません。本当です!!
ーーユグアッシュ王国・王立中央病院
新たな治療薬が完成し、今日から試験的に導入されることになった。
「本当に大丈夫なんでしょうか……」
「もし発情なんてされたら……」
「病棟が大混乱になりますよ……」
医師や看護師たちの間には、不安の声が広がっていた。
副作用。
それも『媚薬成分』という、これまで誰も聞いたことのないものだ。
未知である以上、警戒するのも無理はない。
しかし――。
「そんなことを心配している暇があるなら、一人でも多くの患者を診なさい」
医師会長の一喝が病棟に響く。
「陛下のご命令だ」
「今は、重大な副作用でない限り投与するようにとのことだ」
「我々は一人一人の患者の回復を願わなくてはならない」
「理屈は分かっていますが……」
若い医師が不安そうに俯く。
「ただでさえ余裕のない状態で、発情した患者の対応をする余裕なんてありませんよ」
一拍。
「それとも、その時は娼婦なりを呼んで対応するとでも言うんですか!?」
病棟が静まり返る。
医師会長は若い医師を真っ直ぐ見つめた。
「……その必要はない」
「え?」
「エレノア殿の鑑定結果には『微量』と記されていた」
「現時点では、発情するという証拠はどこにもない」
「我々が恐れているのは、副作用そのものではない」
「"未知"であるという事実だ」
医師会長は静かに続ける。
「だからこそ、慎重に観察し、記録する」
「それが臨床試験というものだ」
「憶測だけで薬を否定することは、患者を見捨てることと同じだ」
若い医師は唇を噛み締め、小さく頭を下げた。
「……申し訳ありません」
「不安を抱くことは悪くない」
「だが、その不安に飲まれて目の前の患者を救う機会を失うな」
医師会長の言葉に、その場にいた医師や看護師たちは静かに頷いた。
「とりあえず、開院の時間だ」
そう言って医師会長はエントランスの扉の鍵を開ける。
「なに、我々には『セレディア王国最高峰の錬金術師』エレノア・フォン・セレスティア殿がいる!」
一拍。
「何かあれば、必ず対応してくださる!」
「私、いつからセレディア王国最高峰になったんですか……?」
病院の一角で待機していた私は、思わず小声で呟いた。
「少なくとも、今この国でアルファインフルエンザの治療薬を作れるのはエレノアだけでしょう?」
隣にいたミストルティン様が、くすりと笑う。
「それはそうですけど……」
「だから間違ってはいないわ」
「でも、『最高峰』なんて言われると恥ずかしいです……」
思わず頬をかいていると、医師会長がこちらを振り返る。
「エレノア殿」
「本日もよろしくお願いいたします」
「はい。副作用も含めて、私が責任を持って経過を確認します」
私がそう答えた、その時だった。
ガランッ!
勢いよく玄関の扉が開かれる。
「先生! お願いします!」
息を切らした男性が、ぐったりとした少女を背負って飛び込んできた。
「娘が……朝から急に熱が上がって……!」
少女の顔は真っ赤に熱を帯び、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
「診察室へ!」
医師会長がすぐに指示を飛ばす。
看護師たちは慣れた手つきで少女をストレッチャーへ乗せ、診察室へ運んでいった。
「体温三十九・八度!」
「呼吸が安定していません!」
「咳も強く出ています!」
診察が始まり、私は少し離れた場所からその様子を見守る。
やがて医師会長が私の方を向いた。
「エレノア殿」
「はい」
「鑑定をお願いできますか」
私は少女の額へそっと手を添え、魔力を流す。
「ごめんね。 少しだけ見せてもらうね」
そう声を掛ける。
「アルファインフルエンザ陽性です」
「重症化リスクあり。肺炎へ移行しかけています」
「卵アレルギーはありません」
私の診断結果に、その場の空気がさらに張り詰める。
「……間違いありませんか?」
医師会長が静かに尋ねる。
「はい」
私は力強く頷いた。
「今なら、まだ間に合います」
少女の父親は、不安そうな表情で私と医師会長を交互に見つめる。
「先生……娘は助かるんでしょうか……」
震える声だった。
私は少女の手をそっと握る。
「必ず助けます」
その一言に、父親は目を見開いた。
「医師会長」
私は新たな治療薬を取り出す。
深い青色の液体が、窓から差し込む光を受けて静かに揺らめいていた。
「臨床第一例目です」
「副作用も含め、慎重に経過を観察してください」
医師会長は静かに頷く。
「承知した」
「全員、記録の準備を」
「血圧、脈拍、体温、呼吸数、魔力反応……全て五分ごとに記録する」
「「「はい!」」」
診察室の空気が一気に引き締まる。
私は少女へ視線を向け、小さく微笑んだ。
「少し苦いけど、すぐ終わるからね」
少女は苦しそうにしながらも、小さく頷く。
私はゆっくりと治療薬を口元へ運んだ。
診察室にいた全員が、固唾を呑んでその瞬間を見守っていた。
苦しそうながらも薬をなんとか飲み干した。
「経過観察のため、一度別室で処置します」
医師会長がそう告げると、看護師たちはストレッチャーを押し、そのまま経過観察室へ向かった。
「体温、脈拍、血圧、呼吸数を五分ごとに測定してください」
「少しでも異変があれば、すぐに報告を」
「「「はい!」」」
私は経過観察室の扉を見つめ、小さく息を吐いた。
(お願いします……)
その時だった。
「先生!」
受付の方から慌ただしい声が響く。
「次の患者さんです!」
私は顔を上げる。
「エレノア殿」
医師会長が静かに頷いた。
「結果を待っている間にも、患者は次々と運ばれてきます」
「はい」
私は気持ちを切り替え、診察室へ向かう。
診察室には、今度は咳き込みながら椅子へ座る初老の男性がいた。
「先生……この咳が止まらなくて……」
「では、診せてください」
私は男性の前へしゃがみ込み、優しく微笑んだ。
「すぐに終わりますからね」
そう言って先程と同じように鑑定する。
「アルファインフルエンザ陽性ですが初期症状のようです」
「対処療法でも十分効果が出ます」
私は男性へ微笑みかける。
「しばらく安静にして、水分をしっかり摂ってください」
「処方するお薬をきちんと飲めば、数日で良くなると思います」
男性はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます……」
私はカルテへ診断内容を書き込み、看護師へ渡す。
「解熱剤と咳止め、それから水分補給の指導をお願いします」
「かしこまりました」
男性が診察室を後にすると、すぐに次の患者さんが案内されてきた。
「先生、次の方です」
「お願いします」
私は小さく頷き、再び患者さんへ向き直る。
重症患者。
軽症患者。
年齢も症状も様々だ。
けれど、目の前の患者さんを救いたいという思いだけは変わらない。
一人、また一人と診察を続けていると――。
「エレノア様!」
経過観察室の方から、看護師が息を切らしながら駆け込んできた。
「若干ではありますが、熱が下がり始めました!」
その一言に、診察室の空気が一変する。
「本当ですか!?」
私は思わず立ち上がった。
「はい! 三十九・八度あった体温が、三十八・九度まで下がっています!」
「咳の回数も減少し、呼吸も先ほどより安定しています!」
私は医師会長と顔を見合わせる。
「行きましょう」
「はい!」
私たちは診察室を飛び出し、経過観察室へと急いだ。
経過観察室の扉を開けると、経過観察室の扉を開けると、少女はまだ苦しそうに呼吸をしていたものの、先程よりも顔色は良くなり、呼吸も少しずつ安定してきていた。
「改めて経過観察しますね」
そう言って私は再度鑑定を開始する。
「山場はまだ超えてはいませんが、少なくとも肺炎に移行しかけていた状態からは脱せました」
「副作用はどうでしょうか?」
医師会長が静かに聞く。
「副作用は現時点で確認できていません」
私の言葉に、その場にいた全員が安堵の息を漏らした。
「良かった……」
少女の父親はその場へ崩れ落ちるように膝をつき、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます……本当にありがとうございます……」
「まだ安心するのは早いですよ」
私は優しく微笑みながら首を横に振った。
「熱は下がり始めていますが、まだ山場は越えていません」
「引き続き経過を観察し、異変があればすぐに知らせてください」
「承知しました」
医師会長は深く頷くと、看護師たちへ指示を飛ばす。
「体温、呼吸数、脈拍の測定を継続!」
「副作用の有無も含め、十分ごとに記録しろ!」
「「「はい!」」」
慌ただしく動き始める医療スタッフ。
その様子を見届けた私は、小さく胸を撫で下ろした。
(効いています……)
少なくとも、この薬は患者さんの命を救えている。
その事実だけで、これまでの苦労が報われた気がした。
――その時だった。
「先生!」
病棟の奥から、別の看護師が駆け込んでくる。
「次の患者さんも到着しました!」
休む暇などない。
私は小さく頷くと、再び診察室へ向かって走り出した。
結局今日この日だけで何人の患者をみたのかわからない。
終わる頃には院内を走り回り、病院に行くことのできない患者の往診にも着いていったのでアトリエにいるときよりも疲れた。
「今寝たら多分ぐっすりとお昼まで寝られる......」
そう呟くと
「エレノアがお昼まで寝れるって言うってことはよっぽど疲れたのね」
ミストルティン様はクスクス笑っている。
「他人事だと思っていません!?」
「だって他人事だもの」
ミストルティン様は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「うぅ……」
思わず言葉に詰まる。
確かに研究なら慣れている。
徹夜も珍しくない。
けれど今日は違った。
朝から晩まで診察。
患者さんの鑑定。
往診。
そして新薬の経過観察。
馬車の中で研究している方が、何倍も楽だと思えるほどだった。
「今日はよく頑張ったわね」
ミストルティン様が、いつになく優しい声で言う。
「はい……」
自然と力が抜ける。
「薬も効果を示したし、副作用も今のところ確認されていない」
「良い一日だったじゃない」
「まだ一日目です」
私は小さく首を横に振る。
「臨床データはもっと集めないといけませんし、副作用も引き続き経過観察が必要です」
「ふふっ」
ミストルティン様は小さく笑う。
「そういう真面目なところ、本当にあなたらしいわ」
そう言われると、何だか少し照れくさい。
「でも」
ミストルティン様は人差し指を立てた。
「今日はもう研究禁止」
「えぇっ!?」
「禁止」
有無を言わせない笑顔だった。
「帰ったら、ご飯を食べて、お風呂に入って、寝る」
「……はい」
反論する気力すら残っていない私は、素直に頷くしかなかった。
「エレノア様、経過観察の記録をまとめたものです」
「ありがとうございます」
看護師さんから投与した患者の経過観察記録を受け取り読み始める。
「一番気になる副作用については……」
静かに呟きながら読み進める。
「……よかった」
報告書には、
『発情症状を示した患者 0名』
そう記されていた。
少なくとも、今日投与した患者の中に副作用を発症した人はいなかった。
私は思わず胸を撫で下ろす。
「これなら、ひとまず安心ですね」
看護師さんも安堵したように微笑む。
その様子を見ていたミストルティン様は、小さく肩をすくめた。
「つまんないの」
「はい?」
私は思わず聞き返した。
……嫌な予感しかしない。
「せっかく媚薬成分なんて面白い副作用だったのに」
「誰も発情しないなんて」
「期待外れじゃない」
「何を期待していたんですか!!」
思わず全力でツッコミを入れる。
「ふふっ」
ミストルティン様は楽しそうに笑うだけだった。
私は大きくため息をつきながら、報告書を閉じるのだった。
ミストルティン「せっかく寝顔を独り占めできたのに」
エレノア「何か言いました?」
ミストルティン「いいえ? 可愛い寝顔だったわって言っただけ♪」
エレノア「……?」




