211話 救えぬ命、神の慈愛
ーー ユグアッシュ王国・王立中央病院
この日、私は王国で最も大きな病院とされる『王立中央病院』を訪れていた。
目的は二つ。
一つは、流行病に苦しむ患者様を実際に診察し、少しでも病気についての情報を集めること。
そしてもう一つは、有精卵を使用した試作治療薬を、安全に使用できる患者様かどうかを見極めることだった。
『卵アレルギー』と思われる方へ投与するわけにはいかない。
鑑定と問診を重ね、一人ひとり慎重に判断する。
それが、この試作薬を作った私の責任だった。
「申し訳ありません。この薬をお渡しすることはできません」
ベッドで苦しそうに息をする男性は、驚いたように目を見開いた。
「……どうしてですか」
私は静かに鑑定結果を見つめる。
やはり間違いない。
重度の卵アレルギー。
この試作薬を投与すれば、病気ではなく薬によって命を落とす可能性が高い。
「先生……お願いします」
男性は荒い呼吸のまま、私の手を掴んだ。
「熱くて……苦しくて……もう限界なんです」
その言葉に胸が締め付けられる。
助けたい。
今すぐ、この薬を飲ませてあげたい。
けれど――。
私は小さく首を横に振った。
「この薬を使用すると、気管が急激に腫れ、呼吸ができなくなる危険があります」
「病気より先に、薬で命を落とす可能性が高いのです」
「だから……使うことはできません」
男性は力なく俯いた。
私もまた、その姿から目を逸らすことができなかった。
(……これでは駄目だ)
確かに、この試作薬は多くの人を救うことができる。
だけど、目の前には薬を使うことすら許されない患者様がいる。
苦しそうに息をしながら、助けを求めているのに、私はその願いに応えることができない。
患者様も苦しい。
そして、その姿を見守ることしかできない私も苦しい。
(早く……誰もが安心して使える薬を作らないと)
私は小さく拳を握り締めた。
隣で診察を見守っていた担当医の先生が、静かに患者様へ向き直る。
「試作薬は使用できません」
「ですが、高熱が続くのは危険です。解熱剤を処方し、輸液を開始します」
「呼吸状態も引き続き慎重に診ていきますので、安心してください」
「……お願いします」
患者様は弱々しく頷いた。
担当医の先生の指示で、看護師さんが輸液の準備を始める。
輸液は精製水に塩や糖などを加えて調製した液体を血管へ直接投与し、水分や栄養を効率よく補給する最新の医療技術だ。
高度な調製技術と専用設備が必要なため、現在では王立中央病院をはじめとした一部の大病院でしか行われていない。
私は静かにその様子を見守る。
これが今できる最善。
解熱剤は熱を下げることができる。
輸液は失われた水分や栄養を補うことができる。
だけど、それはあくまで命を繋ぐための治療。
この患者様を根本から救うことはできない。
私はもう一度、小さく拳を握り締めた。
(早く誰でも安全に使える薬を作らないと……)
私は気持ちを切り替え、次の病室へ向かった。
病室には同じ流行病に苦しむ患者様が何人も横になっている。
咳。
高熱。
全身の倦怠感。
症状は皆よく似ていた。
私は一人ずつ丁寧に鑑定を行い、問診を重ねていく。
「喉の痛みはいつ頃からですか」
「二日前です……最初は少し熱っぽい程度だったのですが」
「食事は摂れていますか」
「昨日から、ほとんど……」
私はメモへ症状を書き留めながら、鑑定結果と照らし合わせる。
やはり共通点が多い。
発熱。
咳。
喉の炎症。
強い倦怠感。
症状の進行にも一定の傾向が見られる。
(まだ原因は分からない)
(でも、少しずつ情報は集まってきている)
そんな中、一人の女性患者様の鑑定結果に目を向ける。
卵アレルギー――なし。
私は改めて問診票へ視線を落とした。
「卵を食べて体調が悪くなったことはありますか」
「ありません」
「じんましんが出たり、息苦しくなったりしたことは」
「一度もありません」
私は静かに頷いた。
「担当医の先生」
「はい」
「この方は試作治療薬を使用できます」
担当医の先生も鑑定結果へ目を通し、小さく頷く。
「分かりました」
「患者様へ説明を行ったうえで投与します」
私は女性患者様へ向き直った。
「この薬は、まだ研究段階の試作薬です」
「ですが、これまでの結果では高い効果が確認されています」
「使用するかどうかは、患者様ご自身の意思で決めてください」
女性はしばらく薬を見つめ、小さく息を吐いた。
「……お願いします」
「この苦しさから、少しでも楽になれるなら」
私は静かに頷き、試作薬を担当医の先生へ手渡した。
ここから先は、医療の専門家である先生方の仕事だ。
私は一歩下がり、その様子を静かに見守った。
ーーその夜
私は自分で握ってきたおにぎりを一口頬張り、味噌と出汁だけで作った簡素な味噌汁を口へ運びながら、今日まとめた診療記録へ目を通していた。
患者様ごとの症状。
発症からの日数。
熱の推移。
呼吸状態。
鑑定結果。
そして、試作薬を使用した患者様の経過。
一つひとつを見比べながら、少しでも共通点がないかを探していく。
「エレノアちゃん、少し休憩した方がいいんじゃないかしら?」
パルシア様が心配そうに私の顔を覗き込む。
「いえ……思ったよりも状況が酷すぎるので、休んでなんかいられません」
「でも、ご飯くらいはちゃんと味わって食べないと駄目よ?」
「せっかく作ったおにぎりなんだから」
私は苦笑しながら小さく頷く。
「ありがとうございます。でも、今は一秒でも惜しいんです」
そう答えながらも、私は再び記録へ視線を落とした。
(やっぱり症状には共通点がある)
(でも……まだ原因までは分からない)
病院で苦しんでいた患者様の姿が頭から離れない。
(早く……)
(誰もが安心して使える薬を完成させないと)
私が羽ペンを走らせ続ける姿を見て、パルシア様は小さくため息をついた。
「本当に頑張り屋さんなんだから……」
その声は呆れたようでいて、とても優しかった。
「頑張りすぎはよくないからね」
そう言い残し、パルシア様は厨房の方へと戻っていく。
私はその背中を見送ると、再び診療記録へ視線を落とした。
「投薬できなかった患者様は……三人か」
私は『投薬できない』と判断した患者様の顔を思い浮かべる。
藁にもすがる思いで治療を求めて来たのに、絶望へ突き落としてしまったあの表情。
「お願いします」
そう掴まれた手の感触も。
苦しそうに震えていた声も。
まだ鮮明に残っている。
あの表情を見せられて、悠長に休んでなんていられるはずがない。
「改めて薬草を調べないと……」
有精卵を使わず、同じような効果を持つ素材。
あるいは、病そのものを治療できる素材。
まだ見つかっていないだけで、この世界のどこかには必ずあるはず。
私は本棚から薬草図鑑を取り出し、一ページずつ丁寧に読み進めていく。
既に何度も読み返した本。
それでも、見落としている記述があるかもしれない。
薬草図鑑を読み終えれば、今度は古い錬金術書を開く。
思いついたことは片っ端から紙へ書き出し、素材同士の組み合わせや効能を書き連ねていく。
窓の外はいつしか深い闇に包まれ、静まり返っていた。
それでも私は羽ペンを止めることなく、資料を読み続ける。
一人でも多くの命を救うために。
誰もが安心して使える治療薬を完成させるために。
やがて東の空が白み始め、窓から柔らかな朝日が差し込んだ。
気付けば、机の上には何冊もの本と書き留めた資料が積み重なっている。
私は小さく息を吐くと、冷めきったお茶を一口飲み、静かに立ち上がった。
「……今日も頑張ろう」
そう呟き、私は朝の支度を始めた。
身支度を整えると、自室の扉を静かに開ける。
中では、メルもエリシアもリュシアさんも、まだ気持ちよさそうに寝息を立てていた。
(まだ眠ってる)
昨日はみんな遅くまで付き合ってくれた。
少しでもゆっくり休んでもらいたい。
私は足音を殺しながら静かに部屋を後にする。
扉を閉める時も音が鳴らないよう、ゆっくりと手を添えた。
「これで大丈夫かな」
小さく呟くと、私はそのまま書庫へ向かう。
朝の書庫は静まり返っていた。
窓から差し込む朝日が本棚を優しく照らし、並べられた薬草図鑑や錬金術書が淡く輝いている。
私は昨日読み終えた本を棚へ戻すと、新たな薬草図鑑を手に取った。
「今度はこっち……」
一冊だけでは分からないことも、複数の文献を照らし合わせれば見えてくるかもしれない。
そう信じて、私は再び机へ向かい、本を開いた。
王城へ向かう時間まで、あと少し。
その僅かな時間さえ惜しむように、私は一文字たりとも見逃すまいと、静かにページをめくる。
「うーん……やっぱり違う」
この薬草も違う。
こっちも症状を和らげるだけ。
根本的な治療にはならない。
「なら、この組み合わせ――」
そう呟いた、その時だった。
『まったく……』
突然、聞き慣れた女性の声が頭の中へ響く。
(ミストルティン様?)
『また無茶をして』
「でも早くしないと――」
『エレノアが倒れたら元も子もないでしょ』
有無を言わせぬ声だった。
「でも……」
『今日はもう終わり』
その一言と同時に、温かな魔力が私を優しく包み込む。
(あれ……?)
急激に瞼が重くなる。
「ミストルティン様……まだ……」
『命令よ』
『おやすみなさい、エレノア』
その声を最後に、私の意識は静かに闇へと沈んでいった。
静寂が書庫を包む。
机に突っ伏したまま、エレノアは穏やかな寝息を立てていた。
「……もう」
呆れたような声と共に、本棚の陰からミストルティンが姿を現す。
机いっぱいに広げられた薬草図鑑。
何冊もの錬金術書。
びっしりと書き込まれた研究ノート。
その全てが、この小さな少女が誰かを救うために費やした時間だった。
「本当に、お人好しなんだから」
ミストルティンは苦笑し、そっとエレノアの頬へ触れる。
眠っていても、どこか安心しきった寝顔。
その表情に思わず微笑みが零れる。
「そんな顔をされたら……怒れないじゃない」
小さく肩を竦めると、そっとエレノアを抱き上げた。
「あなたはいつもそう」
「誰かのためなら、自分なんて後回し」
「……困った子ね」
その声には、呆れと愛おしさが入り混じっていた。
壊れ物を扱うように抱きかかえ、寝室へ向かう。
寝台へ静かに寝かせ、乱れた前髪をそっと整える。
「今日は私の勝ち」
小さく笑う。
眠るエレノアは、何も知らず穏やかな寝息を立てていた。
その寝顔をしばらく見つめたミストルティンは、小さく息を吐く。
「……本当に」
「放っておけない子」
頬をそっと撫でる。
「だからこそ、ちゃんと休みなさい」
優しく掛け布団を整えると、ミストルティンは満足そうに微笑んだ。
「おやすみ、エレノア」
その声だけを残し、寝室から静かに出ていった。




