閑話 懐かしき港町、思い出の店
ーー港湾都市バレンシア・セレスティア市場通り
これは、バレンシアを出発する前のお話――。
かつて名前もなかった市場は、いつの間にか『セレスティア市場』と呼ばれるようになっていた。
……正直、ものすごく恥ずかしい。
「エレノア様ー!!」
「本当にセレスティア伯爵だ!」
「市場に来てるぞ!」
私の姿を見つけた途端、あちこちから歓声が上がる。
気付けば人、人、人。
買い物をしていた人たちまで次々と集まり、あっという間に人だかりができてしまった。
「え、えっと……」
思わず一歩後ずさる。
「まさか、こんなことになるなんて……」
「そりゃそうでしょうね」
エリシアはどこか呆れたように肩をすくめた。
「市場に『セレスティア』なんて名前が付いているんですから」
「だからって、こんなに集まらなくても……」
「それだけエレノアに感謝しているってことよ!」
ミストルティン様はなぜか誇らしげに胸を張る。
「なんであなたが威張るのよ……」
パルシア様は苦笑を浮かべた。
だが――。
感謝されているということは、この光景を見れば一目瞭然だった。
自分にできることを、ただ必死に積み重ねてきただけ。
それでも、その積み重ねが誰かを救い、この街の人たちの笑顔へと繋がっていた。
その事実だけで十分だった。
私は、この街のためにできることをしてきた。
そして、その選択は決して間違いではなかったのだと、改めて実感するのだった。
やがて、一軒の食堂の前で足を止める。
ここは、初めてバレンシアを訪れた日に立ち寄った食堂。
木造の看板も、店先から漂う食欲をそそる香りも、活気あふれる店内の賑わいも――。
あの日と何ひとつ変わっていなかった。
その光景が懐かしく、昨日のことのように鮮明に思い出される。
「ここ久しぶりねー!」
「ここ、おいしかったですよねー!」
ミストルティン様もメルも、早く中へ入りたくてうずうずしている。
「二人とも、そんなに慌てなくてもお店は逃げませんよ?」
「でも、美味しいものは早く食べたいじゃない!」
「そうですー!」
息ぴったりな二人に、思わず笑みがこぼれた。
「早く入ろー!!」
「そうですね」
そう言って扉を開けると――
「いらっしゃいま……せ……」
入り口で出迎えたウェイターさんの動きがぴたりと止まる。
「えっ……」
何度か瞬きを繰り返したあと、その表情がぱっと明るくなった。
「エレノア様ーー!!」
ウェイターさんの大きな声に、店内中の視線が一斉にこちらへ集まった。
「えっ!? 本当に?」
「セレスティア伯爵様だ!」
「あの時の!」
食事を楽しんでいたお客さんたちも次々と立ち上がり、店内はあっという間に賑やかな空気に包まれる。
「お久しぶりです」
私が笑顔で一礼すると、ウェイターさんは何度も頷いた。
「お久しぶりです! 本当にまた来てくださったんですね!」
「はい。バレンシアへ立ち寄る機会がありましたので、ぜひもう一度お店へ伺いたいと思いまして」
「店長ー!! エレノア様がいらっしゃいましたー!!」
ウェイターさんが厨房へ向かって大声で呼び掛ける。
「なんだって!?」
厨房の奥から聞き覚えのある声が響き、慌ただしい足音が近付いてくる。
「本当だ……!」
店長さんは私の姿を見るなり目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。
「エレノア様、お久しぶりです!」
「お久しぶりです。皆さん、お元気そうで安心しました」
「ええ! あの日以来、おかげさまで店も街も以前にも増して賑わっています」
店長さんは嬉しそうに店内を見渡す。
「さあさあ、立ち話もなんです。以前お座りいただいた席がちょうど空いておりますので、どうぞこちらへ!」
「ありがとうございます」
案内されたのは、初めてこの店を訪れた時と同じ窓際の席だった。
「あっ……」
思わず小さく声が漏れる。
「覚えていてくださったんですね」
「もちろんですよ」
店長さんは優しく笑う。
「エレノア様は、この店にとっても、この街にとっても恩人ですから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「前回のと同じでいいですか?」
「お願いします」
「すぐ用意しますね!」
そう言ってウェイターさんは厨房を振り返る。
「特別セット大急ぎでー!」
「言われなくてもわかってる!」
厨房から威勢のいい返事が聞こえ、店内から小さな笑いが起こる。
「相変わらずですね」
思わず笑みを浮かべると、ウェイターさんも照れくさそうに頭をかいた。
「エレノア様がまた来てくださる日が来るかもしれないって、店長がずっと言ってたんです」
「えっ?」
「だから、あの日お召し上がりになった料理はいつでも作れるよう、料理長もずっとレシピを大事に残してあるんですよ」
「そうだったんですか……」
そこまでしてくださっていたなんて。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「それに、今ではあの料理を目当てに来るお客さんも多いんです!」
「エレノア様セットください!」
そんな注文まで聞こえてくるようになりましてね。
「そんな名前になっているんですか!?」
思わず立ち上がりそうになる。
店内にはどっと笑いが広がった。
「正式名称は『特別セット』なんですけどね」
ウェイターさんは苦笑しながら肩をすくめる。
「常連さんが勝手にそう呼び始めまして」
「……なんだか、とても恥ずかしいです」
私は両手で顔を覆う。
「また増えたわね、エレノアの黒歴史が」
「黒歴史じゃありません!」
ミストルティン様の一言に、店内はさらに笑い声に包まれた。
「お待たせしました!」
目の前に置かれた料理を見た瞬間、思わず笑みがこぼれる。
「あ……」
以前とまったく同じ盛り付け。
同じ香り。
同じ湯気。
「変わってませんね」
「もちろんです」
店長さんは誇らしげに頷いた。
「エレノア様が初めて召し上がった日の味ですから」
「あと、こちらもどうぞ」
そう言って店長さんは、テーブルへ大皿を二枚並べた。
「このお店、本来の名物料理です。鉄砲魚の薄造りに、東国風フリット、それから鉄砲魚のソテーです!」
「こんなに……?」
思わず目を丸くする。
「もちろん、お代はいただきません!」
「えっ!?」
「皆の気持ちですから!」
店長さんが胸を張ると、店内からも拍手が起こる。
「ぜひ召し上がってください!」
「ありがとうございます」
私が頭を下げた、その時だった。
「店長ー!」
「俺のところからも持っていけ!」
「うちの新作パンも!」
「こっちはデザートだ!」
「果物もあるぞー!」
次々と料理が運ばれ、あっという間にテーブルは皿で埋め尽くされていく。
「ちょっ……!」
「まだ来ますよー!」
メルが目を輝かせる。
「最高じゃない!」
ミストルティン様は嬉しそうに拍手をしている。
「あなたは止めなさい!」
パルシア様がすかさず突っ込んだ。
気が付けば、四人掛けのテーブルに乗り切らないほどの料理が並んでいた。
「皆さん……お気持ちは本当に嬉しいのですが……」
私は苦笑しながら、山のような料理を見つめる。
「……食べ切れるでしょうか?」
「おかわりもありますよ!」
「おかわり前提なんですか!?」
その一言に店内は大きな笑い声に包まれたのだった。




