204話 セレディア出発、外交任務開始
ーー王都・南門
今日から約1カ月半の間ユグアッシュ王国へ滞在する。
今回の目的は、ユグアッシュ王国で発生している季節外れの風邪の原因を調査し、必要であれば治療法の確立にも協力すること。
「生憎の天気ですね......」
雨がしとしとと降り、湿度も高いせいか蒸し暑い。
濃い霧まで立ち込めているため視界も悪い。
まるで今回の任務の先行きを暗示しているようで、胸の奥に小さな不安が芽生えていた。
「おはようございます、エレノア様」
馬車の前で待機していたアランさんが一礼する。
「おはようございます。皆さん、準備は整っていますか?」
「はい。いつでも出発可能です」
周囲を見渡す。
セレスティア伯爵家の馬車を中心に、王命錬金護衛隊の隊員たちが警戒に当たり、その外側には王国騎士団の姿も見える。
さらに外交使節団の馬車や補給物資を積んだ荷馬車まで含めれば、その数は思っていた以上だった。
「かなり大規模ですね……」
思わず呟く。
「今回は王命による正式な外交任務ですからね」
アランさんは周囲へ目を向けながら続けた。
「しかも、隣国で原因不明の病が流行している状況です。万が一にも問題が起きないよう、警備は通常より厚くなっています」
「なるほど……」
確かに、この規模にも納得だった。
今回のメンバーは、私、エリシア、メル、リュシアさん。
そして――
「おーい! みんな揃ってるー?」
聞き慣れた明るい声が霧の向こうから響く。
振り向くと、大きく手を振りながらミストルティン様がこちらへ歩いてきた。
いつものミストルティン様にパルシア様も今回も一緒に行く。
「おはようございます!」
ミストルティン様はいつものように満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。
その隣ではパルシア様が小さく会釈をした。
「おはようございます、エレノアさん」
「おはようございます。今回もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
私とメルが頭を下げると、パルシア様は柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ。長旅になりますし、食事のことは任せてくださいね」
「それは心強いです」
料理の神様が同行してくれるだけでも、食事に関して不安はないだろう。
「お菓子も食材もいっぱい持ってきたわよ!」
「お菓子って......遠足じゃないんですからね!?」
エリシアのツッコミが炸裂する。
「なんでこう神族の皆様はマイペースなんでしょう......」
リュシアさんは既に頭を抱えていた。
「それにね!」
ミストルティン様は得意げに胸を張る。
「新しいお菓子もいっぱい見つけたの!」
「どこで見つけたんですか……」
思わず聞いてしまう。
「企業秘密♪」
「絶対また変なところですよね?」
「気のせいよ!」
「その返事で安心したことが一度もありません……」
私がため息をつくと、隣でメルが小さく手を挙げた。
「でも、お菓子はちょっと楽しみですー!」
「メルまで……」
「長旅ですし!」
その一言に周囲から小さな笑いが漏れる。
重苦しかった空気が少しだけ和らいだ、その時だった。
「セレスティア伯爵!」
低く通る声が響く。
振り返ると、外交使節団を率いる外務大臣がこちらへ歩いてくる。
「皆様、お揃いのようですね」
「はい」
私が一礼すると、外務大臣も静かに頷いた。
「まもなく出発時刻です」
その一言で、先ほどまで和やかだった空気が一変する。
護衛隊は持ち場へ戻り、騎士たちは周囲の警戒を強める。
御者たちも次々と馬車へ乗り込み、出発の準備を整え始めた。
雨音だけが静かに響く中、外務大臣は周囲をゆっくりと見渡した。
「それでは――」
一拍置く。
「ユグアッシュ王国外交使節団、出発します」
その号令と同時に、先頭の馬車がゆっくりと動き出した。
石畳を車輪が転がる音が霧の立ち込める王都へ静かに響いていく。
私たちを乗せた馬車も、その後に続くようにゆっくりと走り始めた。
「この道を進むの結構久しぶりかも......」
「バレンシアに行ったとき以来ね」
「そうですね」
私は窓の外へ目を向ける。
霧に包まれた街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
王都の外へ続く街道。
以前この道を通ったのは、港町バレンシアへ向かった時だった。
「あの時はいろいろありましたね……」
「そうね」
ミストルティン様も懐かしそうに頷く。
「フグ騒動に黒鴉商会ーー」
あの頃の私は、フグ騒動の功績によって伯爵位を授かり、初代当主になるなど想像すらしていなかった。
ただの子爵家の次女だった私には、到底考えられない未来だった。
それを過去の自分に聞かせたら一体どんな反応するんだろ......
「きっと信じないでしょうね」
思わず苦笑が漏れる。
「伯爵になるなんて言ったら、『何を言ってるの?』って首を傾げると思います」
「それだけじゃないわよ?」
ミストルティン様はクスリと笑う。
「王命錬金護衛隊を率いて、神族と一緒に暮らして、隣国へ外交使節として向かうなんて話まで付け加えたら、間違いなく熱でもあるのかって心配されるわね」
「確かに……」
今こうして口にしてみると、自分でも信じられない。
ほんの数年前まで、私はレーヴェン子爵家の次女として平穏な日々を送っていた。
それが今では、一つの伯爵家を預かる当主となり、国を代表する立場で隣国へ向かっている。
人生とは、本当に何が起こるかわからないものだ。
「でも」
窓の外へ視線を向ける。
霧の向こうへと続く街道は、まだ見えない未来へ続いているようだった。
「後悔だけは、一度もありません」
そう口にすると、ミストルティン様は優しく微笑みながら頷いた。
「ええ。それでこそ私が見込んだ錬金術師だもの」
私は照れくさそうに笑い、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
ーー一週間後
私たちはセレディア王国側最後の休憩地の港湾都市バレンシアに到着した。
町に入るとオスバルト伯爵様が事前に知らせたのか沿道にはたくさんの市民が待っていた。
「エレノア様だ!」
「本当に来てくださった!」
「おかえりなさい!」
街のあちこちから歓声が上がる。
前回この街を訪れた時とは比べものにならないほど多くの人々が沿道を埋め尽くし、笑顔で手を振っていた。
「こんなに……」
思わず言葉を失う。
「皆さん、覚えていてくださったんですね」
「当然よ」
ミストルティン様が窓の外を眺めながら微笑む。
「エレノアはこの街でたくさんの人を救ったんだから」
「でも、私は……」
「あの時、自分にできることをしただけ?」
先回りするように言われ、私は思わず苦笑した。
「はい」
「それでも助けられた人たちは、一生忘れないわ」
その言葉に、私はもう一度沿道へ視線を向ける。
「エレノア様ー!」
「ありがとうございました!」
「また来てくれて嬉しいです!」
子どもたちが元気いっぱいに手を振っている。
私も窓を開け、小さく手を振り返した。
「皆さん、ありがとうございます!」
その瞬間、沿道からさらに大きな歓声が湧き上がった。
「すごいですー!」
メルも窓から顔を覗かせながら目を輝かせる。
「エレノア様、大人気ですね!」
「なんだか照れますね……」
それでも――
自分がやってきたことは、決して間違いではなかった。
そう胸を張って言える。
あの時救えた命。
あの時守れた笑顔。
その積み重ねが、今こうして温かく迎えてくれる人たちの笑顔へと繋がっている。
「また来てくださってありがとうございます!」
市民の一人がそう声を掛けてくれる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
私は自然と笑みを浮かべながら、小さく手を振り返した。
やがてオスバルト伯爵の別荘に到着し馬車から降りるとヘルガーさんと伯爵様が温かく歓迎してくれた。
「お前さん久しぶりだな」
「エレノア様お久しぶりでございます」
「お久しぶりです! 突然やってきて申し訳ございません」
「何を仰います」
オスバルト伯爵様は穏やかに微笑む。
「エレノア様がお越しくださるのであれば、当家はいつでも歓迎いたします」
「それに今回は王命による外交任務と伺っております」
「はい」
私が頷くと、伯爵様も真剣な表情になる。
「道中の状況については既に調査しております。国境までの街道にも異常はなく、予定通り進めるでしょう」
「ありがとうございます」
それだけでも安心できた。
「まあ、難しい話は明日でもいいだろ」
ヘルガーさんは豪快に笑う。
「今日はゆっくり休め。長旅はまだ半分も終わっちゃいねぇ」
「そうですね」
ここから先はセレディア王国最後の街道を抜け、いよいよユグアッシュ王国へ向かうことになる。
「夕食の準備もできております」
オスバルト伯爵様が屋敷へ案内する。
「どうぞごゆっくりお寛ぎください」
「ありがとうございます」
私たちは伯爵様の案内を受けながら、久しぶりの別荘へ足を踏み入れた。
玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、木の香りとどこか懐かしい潮風の匂いが鼻をくすぐる。
「あ……」
思わず小さく声が漏れた。
以前と比べて調度品はいくつか新しくなっていたが、屋敷全体の雰囲気はあの頃とほとんど変わっていない。
初めてこの屋敷を訪れた日のこと。
ヘルガーさんやオスバルト伯爵様と出会い、港町の人たちと触れ合い、そしてフグ騒動を解決するために奔走した日々。
どれも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「本当に懐かしいですね」
私が辺りを見回しながら呟くと、オスバルト伯爵様は穏やかに微笑んだ。
「皆様がいつ来られてもよいよう、大切に維持しております」
「ありがとうございます」
この場所は、私にとって港町バレンシアでの思い出がたくさん詰まった、特別な場所だった。
「さあ、皆様。長旅でお疲れでしょう」
オスバルト伯爵様は穏やかな笑みを浮かべながら私たちを食堂へ案内する。
「本日はささやかではございますが、お食事をご用意しております」
「ありがとうございます」
食堂へ入ると、テーブルいっぱいに港町ならではの料理が並んでいた。
新鮮な魚介料理を中心に、焼きたてのパンや色鮮やかな野菜料理まで所狭しと並べられている。
「すごいですー!」
メルは目を輝かせる。
「これは食べ応えがありそうね」
パルシア様も嬉しそうに頷いた。
「料理長とも色々相談しながら献立を考えました」
伯爵様は少し照れくさそうに笑う。
「どうぞ遠慮なく召し上がってください」
「それでは、いただきます」
「「いただきます!」」
賑やかな夕食が始まった。
久しぶりにヘルガーさんとも近況を話し、港町での出来事を聞きながら、気付けば時間はあっという間に過ぎていった。
夕食を終え、応接室へ移る。
テーブルの上には街道の地図が広げられていた。
「それでは、明日以降の予定をご説明いたします」
オスバルト伯爵様が地図を指差す。
「ここから国境までは、およそ三日の道のりとなります」
私は静かに頷く。
「街道自体は定期的に巡回を行っておりますので、大きな問題は確認されておりません」
「盗賊などは?」
アランさんが尋ねる。
「幸い、最近は目立った報告はありません。ただ――」
伯爵様の表情が少しだけ引き締まる。
「国境付近では、ユグアッシュ王国側から避難してきた旅人や商人を見かける機会が増えています」
「やはり風邪の影響ですか」
「その可能性が高いでしょう」
部屋に静かな空気が流れる。
「とはいえ、セレディア王国側へ感染が広がったという報告は現時点ではありません」
「油断は禁物ですね」
「はい」
私は地図を見つめながら、小さく頷いた。
今回の任務は、ここからが本番なのだ。
翌朝――。
昨夜まで降り続いていた雨は止み、空には薄っすらと朝日が差し込んでいた。
「皆様、お気を付けて」
オスバルト伯爵様とヘルガーさんが屋敷の前まで見送りに来てくださる。
「ありがとうございました」
私たちは深く頭を下げる。
「帰りもぜひ寄ってくれ」
「はい。その時は、またゆっくりお話しましょう」
ヘルガーさんは満足そうに笑った。
やがて御者が手綱を握り直す。
「それでは、出発します」
馬車はゆっくりと動き始めた。
見慣れた港町バレンシアが、少しずつ遠ざかっていく。
そして、その先には――。
セレディア王国とユグアッシュ王国を隔てる国境が、静かに私たちを待っていた。




