196話 調査への旅路、夢巡る回廊⑤
ーー神域・ミストルティンの領域
「次の方をお願いします!」
慌ただしい声が静寂だった書庫へ響き渡る。
騎士たちや『白銀の獅子』の面々は、ミストルティン様の指示に従いながら負傷者を次々と運び込んでいた。
私は重傷者の傍らへ膝をつき、容体を確認する。
「脈は……あります」
呼吸も弱いながら続いている。
「まだ間に合います」
空間収納からハイポーションを取り出し、慎重に口元へ流し込む。
続けて両手をかざす。
「高位治癒」
柔らかな光が全身を包み込み、深く裂けていた傷口がゆっくりと塞がっていく。
「……よし」
私は小さく息を吐いた。
その様子を見届けると、ミストルティン様が静かに口を開く。
「エレノア」
「はい」
「ひとまず命の危険がある人はいなくなったわ」
その一言に、その場の全員が安堵の息を漏らした。
「これでようやく一息つけますね……」
リュシアさんも胸を撫で下ろす。
しかし――
ミストルティン様だけは、まだ険しい表情を崩していなかった。
「まだ落ち着くには早いわ」
ミストルティン様は低く呟く。
「本来、よほどの高難易度ダンジョンか、何百年も放置されていたような場所でもない限り、ベヒーモスなんて現れないのよ」
「それほど異常なことなんですか……?」
アランさんが静かに問い掛ける。
「ええ」
ミストルティン様は迷うことなく頷いた。
一拍。
「しかも、あの子はエングラムの乱れの原因じゃなかった」
さらに一拍。
「つまり、ベヒーモスですら異常の"結果"に過ぎないってこと」
その一言に、その場の空気が重く沈む。
「結果……?」
『白銀の獅子』のリーダーが眉をひそめた。
「じゃあ、その原因は……」
ミストルティン様は静かに目を閉じる。
「恐らく、このダンジョンのさらに深い場所」
一拍。
「そこに、エングラムの流れを大きく乱している何かがいるわ」
私は思わず小さく息をのんだ。
ベヒーモスほどの魔物ですら、その異常に引き寄せられた存在でしかない。
だとすれば――
最深部で待ち受けるものは、一体どれほど危険なのだろうか。
「中層の調査と深層、どちらを優先すべきですかね……」
私は静かに呟いた。
今回、本来の目的は中層で精神異常対策用ポーションの開発に必要な調査を行うことだ。
だが――
もし深層でエングラムの流れそのものが乱れているのだとしたら、その異常を放置するわけにはいかない。
原因を取り除かなければ、このダンジョンの状況はさらに悪化する可能性もある。
「私たちでも到達できているのは中層第八層までです」
『白銀の獅子』のリーダーが真剣な表情で口を開いた。
一拍。
「それより先は完全な未踏領域です」
さらに一拍。
「今の戦力で進むのは危険すぎます」
静かではあるが、力強い口調だった。
「正直、命がいくつあっても足りません」
その場にいた全員が無言で頷く。
「一度王都へ戻り、増援を要請するべきだと思います」
「その意見には賛成ですね」
アランさんも迷いなく頷いた。
「既に一個人や一つの冒険者パーティーで対処できる領域は超えています」
一拍。
「私の経験から判断しても、第二級災害相当と見て間違いありません」
その言葉に、部屋の空気がさらに重くなる。
騎士団の隊員たちも、『白銀の獅子』の面々も、誰一人として異論を唱えなかった。
災害級のベヒーモス。
そして、そのベヒーモスですら異変の原因ではない。
今の戦力で深層へ挑むことが、どれほど無謀かは誰の目にも明らかだった。
「ただ……」
静寂を破ったのは、ミストルティン様だった。
「時間も、あまり残されていないのよ」
「どういうことですか?」
私が尋ねると、ミストルティン様は静かに目を閉じる。
「エングラムの乱れは、放っておけば自然に元へ戻るものもある」
一拍。
「でも、ここまで乱れているとなると話は別」
さらに一拍。
「今も少しずつ悪化しているわ」
その言葉に、全員の表情が引き締まる。
「悪化……?」
「ええ」
ミストルティン様は静かに頷いた。
「今日ベヒーモスがいた場所も、本来ならあの魔物が現れるような場所じゃない」
「つまり……」
『白銀の獅子』のリーダーが言葉を継ぐ。
「時間が経てば、さらに強力な魔物まで引き寄せられる可能性があるってことですか?」
「その可能性は高いわね」
部屋に重い沈黙が流れた。
王都へ戻れば、増援は呼べる。
だが、その間にも異変は進行し続ける。
「難しい判断ですね……」
私は思わず小さく呟いた。
どちらを選んでも、相応の危険が伴う。
だからこそ、この判断を誤るわけにはいかなかった。
「難しい判断も何も、一度戻るという選択肢しかないと思いますよ?」
リュシアさんが静かに口を開く。
「いくらミストルティン様がいらっしゃるとはいえ、リスクがあまりにも高すぎます」
一拍。
「エレノア様だけでなく、私たちまで危険に巻き込まれるのは容認できません」
その言葉には迷いがなかった。
「そうですね……」
『白銀の獅子』のリーダーも頷く。
「我々もギルドの規則で、このような異常事態に遭遇した場合は、一度ギルドへ報告する義務があります」
一拍。
「独断で判断して失敗すれば、責任は私一人では済みません」
静かに息を吐く。
「仲間やギルド全体にも迷惑が掛かります」
「騎士団としても同じです」
アランさんが腕を組みながら続けた。
「ここまでの異常となれば、王国へ正式に報告し、討伐部隊や調査隊を編成するべきでしょう」
「つまり……」
私は部屋を見回した。
「皆さん、一度撤退した方がいいという考えなんですね」
「ええ」
「はい」
誰も異論を唱えなかった。
部屋に静かな沈黙が流れる。
「……分かったわ」
ミストルティン様は小さく頷く。
その表情には、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
「少し席を外すわね」
そう言うと、足元へ淡い魔法陣が広がる。
「ちょっと大地の精霊王のところへ行ってくるわ!」
「大地の精霊王様の……?」
私は思わず聞き返す。
「ええ」
ミストルティン様は軽く頷いた。
「この規模のエングラム異常なら、あの子も何か気付いているかもしれないしね」
一拍。
「何より、精霊たちは大地を流れるエングラムの変化に一番敏感だから」
そう言って微笑むと、魔法陣の光は一層強く輝きを増した。
「じゃあ、後はお願いね」
次の瞬間――
ミストルティン様の姿は眩い光に包まれ、その場から静かに消えていった。
残された私たちは、しばらく誰も口を開くことができなかった。
ーー数十分後
神域には、先ほどまでの慌ただしさが嘘のように静けさが戻っていた。
重傷者の応急処置は一通り終わり、容体が安定した者から順に別室へ運ばれていく。
軽傷者たちも、それぞれ治療を受けながら静かに身体を休めていた。
「ひとまず、これで全員ですね」
私は最後の包帯を巻き終えると、小さく息を吐く。
「お疲れ様です、エレノア様」
リュシアさんが温かいお茶を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
私は一口含む。
温かな湯気が張り詰めていた心を少しだけ和らげてくれた。
しかし――
誰一人として安心した表情は浮かべていない。
視線は自然と、ミストルティン様が消えていった場所へ向いていた。
「遅いですね……」
『白銀の獅子』のリーダーがぽつりと呟く。
「大地の精霊王様との話し合いが長引いているのでしょうか」
アランさんも腕を組みながら静かに答えた。
その時だった。
部屋の中央に、小さな光の粒が一つ浮かび上がる。
それは瞬く間に大きくなり、見覚えのある転移魔法陣を描き始めた。
「……!」
私は思わず立ち上がる。
「ミストルティン様ですね」
全員の視線が魔法陣へ集まる。
眩い光が部屋を包み込み、その中心からゆっくりと一人の姿が現れた。
「ごめん! 待たせたわね!」
いつもの明るい声が部屋へ響く。
その姿を見た私は、思わず胸を撫で下ろした。
「お帰りなさい、ミストルティン様」
「ただいま」
そう言って笑みを浮かべる。
だが――
その表情は、すぐに真剣なものへ変わった。
「……思った以上に状況は深刻だったわ」
その一言に、部屋の空気が再び張り詰める。
「大地の精霊王様は何と……?」
アランさんが静かに問い掛けた。
ミストルティン様は全員を見渡し、小さく息を吐く。
「結論から言うわ」
一拍。
「このまま放置すれば、『夢巡る回廊』だけの問題じゃ済まなくなる」
「……!」
誰も言葉を発することができなかった。
「大地を流れるエングラムの流れそのものが乱れ始めているそうよ」
さらに一拍。
「今はまだ、このダンジョン周辺だけで収まっている」
「でも、それが崩れた瞬間――」
ミストルティン様は静かに目を閉じる。
「異常は青凪の大森林全域へ広がる可能性があるわ」
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
災害級のベヒーモス。
その存在ですら前兆に過ぎない。
そう理解した瞬間、全員の表情から余裕が消え去った。
「ただ、一つだけいい知らせもあるわ」
一拍。
「大地の精霊王は、ちょうどあそこへ向かうところだったみたい」
私は思わず目を丸くする。
「つまり……」
「ええ」
ミストルティン様は頷いた。
「私たちが無理をして深層へ向かう必要はなくなったわ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ和らぐ。
少なくとも、今すぐ未知の深層へ突入する必要はなくなった。
それだけでも十分に大きな収穫だった。
「ただし――」
ミストルティン様の表情が再び真剣なものへ変わる。
「安全のためにも、このダンジョンからはできるだけ早く撤退した方がいいそうよ」
「やはり、そこまで危険なんですね……」
アランさんが静かに呟く。
「ええ」
ミストルティン様は苦笑を浮かべた。
「多分、エレノアがいるからそう言ったんでしょうね」
「私……ですか?」
思わず聞き返す。
「大地の精霊王も、エレノアが無茶をすることくらい分かってるもの」
一拍。
「『絶対に深層へ行かせるな』って、念を押されたわ」
「……」
「……」
部屋が静まり返る。
するとリュシアさんが、小さくため息をついた。
「やっぱりですか……」
「大地の精霊王様にまで心配されているんですね」
アランさんも苦笑する。
私は少しだけ頬を膨らませた。
「そんなに信用ないですか……?」
「「「ありますよ」」」
一拍。
「無茶をするという意味で」
見事なまでに全員の声が揃った。
「うぅ……」
私は肩を落とすしかなかった。
「ですが……」
一呼吸置き、私は静かに口を開く。
「精神異常対策の調査は、どうしましょう……?」
「「あっ……」」
リュシアさんとアランさんの声が見事に重なった。
部屋に微妙な沈黙が流れる。
「……すっかり忘れていました」
アランさんが額に手を当てる。
「私もです……」
リュシアさんも苦笑した。
「ベヒーモスの件が衝撃的すぎましたからね……」
『白銀の獅子』のリーダーも頭をかく。
「今回の本来の目的は、そっちだったな」
「そうなんですよね……」
私は小さく頷く。
「中層で精神異常の原因や対策になりそうな素材を調べる予定でした」
「とはいえ……」
アランさんは静かに腕を組む。
「現状では深層の異変を無視できる状況でもありません」
すると、ミストルティン様が小さく笑った。
「その件なら大丈夫よ」
「え?」
「大地の精霊王から聞いたんだけど、精神異常が起きる原因は、やっぱりエングラムの乱れが影響しているみたい」
一拍。
「つまり、深層の異常が解決すれば、中層の症状も改善する可能性は高いわ」
「ということは……」
私は目を丸くする。
「今は無理に調査を続けなくてもいいんですね?」
「ええ」
ミストルティン様は頷いた。
「それとね」
一拍。
「エレノアがポーション開発に役立てられるよう、大地の精霊王が中層の状況も一緒に調査して、記録を残してくれるそうよ」
「本当ですか?」
思わず声が弾む。
「ええ」
ミストルティン様は微笑んだ。
「だから精神異常についても心配しなくて大丈夫」
一拍。
「必要な情報は後でまとめて受け取れるそうよ」
「ありがとうございます!」
私は思わず頭を下げる。
これで精神異常対策用ポーションの研究も進められる。
そして、無理をして中層へ留まる必要もなくなった。
「本当に至れり尽くせりですね……」
リュシアさんが感心したように呟く。
「大地の精霊王様も、エレノア様には甘いですね」
『白銀の獅子』のリーダーが苦笑すると、
「まあ、あの子は大地の精霊王の愛し子だからね」
ミストルティン様はどこか誇らしげに笑った。
「可愛い子には、つい手を貸したくなるものなのよ」
私は少し照れくさくなり、思わず頬をかいた。
その後、応急処置を終えた負傷者たちの容体をもう一度確認する。
幸い、命の危険がある人はいなくなっていた。
「これなら大丈夫そうね」
ミストルティン様は小さく頷く。
一拍。
「怪我人も多いし、このまま王都へ転移しましょう」
「「「はい!」」」
その言葉に、その場の全員が頷いた。




