175話 冒険者の悩み、新たな挑戦⑦
精霊達から赤紫蘇を受け取り、私は再び梅干し作りを開始する。
赤紫蘇を刻み。
梅と合わせ。
錬金術で熟成工程を再現する。
作業自体はそれほど難しくない。
むしろ問題は味だった。
私の予想では、赤紫蘇こそ最後の鍵だった。
香り。
色。
風味。
足りなかった最後の一欠片。
だからこそ――
私の中では、もう完成したも同然だった。
そして。
完成した試作品を一粒口へ運ぶ。
数秒後。
「さっきよりもいいけど、やっぱなんか違うなー......」
私は机へ突っ伏した。
「何で!?」
思わず叫ぶ。
香りは完璧だった。
色も完璧だった。
見た目だけなら、もう私が知る梅干しそのものだ。
それなのに。
何かが違う。
何かが足りない。
「あと何だろう......」
私は再び試作品を口へ運ぶ。
酸っぱい。
ちゃんと酸っぱい。
しょっぱい。
ちゃんとしょっぱい。
美味しい。
普通に美味しい。
だが。
「違うんだよなぁ......」
どうしても首を縦に振れない。
「うーん......」
完全に暗礁に乗り上げてしまった。
私は試作品を見つめる。
色は良い。
香りも良い。
食感だって悪くない。
それなのに。
「何が足りないんだろう......」
思わず呟く。
そして私は思いつく限りの調整を始めた。
塩を増やす。
酸味を強くする。
熟成時間を変える。
赤紫蘇の量を増やす。
一つ試しては食べ。
また作り直し。
さらに試す。
その繰り返し。
その結果――
「水水ぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!」
私は大慌てでコップを掴む。
勢いよく水を注ぎ――
一気に飲み干した。
「ぶはぁっ!!」
喉が生き返る。
危なかった。
本当に危なかった。
「何やってるんですか......」
後ろから呆れた声が聞こえた。
振り返るとカイルが立っていた。
「塩を増やせば近付くかなって......」
「どれくらい入れたんです?」
私は試作品を指差す。
カイルは瓶を覗き込み――
固まった。
「......」
「......」
「エレノア様」
「はい」
「これ食べ物ですか?」
失礼である。
「食べ物だよ?」
「塩の塊にしか見えませんが」
失礼である。
二回言った。
私は少しだけ頬を膨らませる。
だが反論できない。
実際問題。
かなり塩辛い。
というか塩辛すぎる。
試しにもう一粒食べようとして――
やめた。
流石に学習した。
「うーん......」
私は椅子へ座り直す。
近付いている気はする。
本当に気がするだけだが。
塩分を増やせば昔ながらの梅干しっぽさは出る。
赤紫蘇を入れれば香りも近付く。
見た目なんてほぼ完成だ。
それなのに。
「違うんだよなぁ......」
どうしても首を縦に振れない。
「あんな量の塩入れたら、そりゃあそうなりますよ......」
カイルが呆れた表情で言う。
「でも近付くと思ったんだもん......」
私は小さく反論する。
「近付く前に人体への攻撃力が上がってません?」
失礼である。
だが否定できない。
そんな会話をしていると――
「何が違うんですか?」
エリシアさんが興味深そうに尋ねる。
そして。
私が止める間もなく試作品へ手を伸ばした。
「あっ」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
「エリシア! それ食べちゃダメ!!」
私は慌てて声を上げる。
だが遅かった。
「大丈夫です!」
エリシアさんは自信満々に笑う。
「私、しょっぱいの大好きなので!」
そう言いながら梅干しを一口で放り込んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
沈黙。
そして――
「んんんんんんんんんんんん!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
大絶叫。
エリシアは椅子から飛び上がった。
「み、水っ!!」
慌ててコップを掴む。
注ぐ。
飲む。
さらに注ぐ。
飲む。
もう一杯。
飲む。
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁ!!」
生還した。
どうやら生還したらしい。
「エリシア!?」
「大丈夫ですか!?」
「死ぬかと思いました!!」
即答だった。
「食べ物で死を覚悟したの初めてです!!」
「そこまで!?」
私も驚いた。
確かに塩は多めに入れた。
かなり多めに入れた。
いや。
冷静に考えると異常な量だった気もする。
「エレノア様......」
エリシアが震える手で梅干しを指差す。
「これ本当に食べ物ですか......?」
今日二回目である。
「食べ物だよ!?」
「岩塩とかじゃなくて?」
「違うよ!?」
カイルが吹き出した。
リオルに至っては机に突っ伏して大きく肩を震わせている。
「だから言ったのに......」
私は呆れながら言う。
「うぅ......」
エリシアは未だにコップを握りしめていた。
「舌が......舌がしょっぱいです......」
「当たり前だよ......」
私はため息を吐く。
すると。
エリシアはもう一度試作品へ視線を向けた。
そして。
「でも」
静かに呟く。
「エレノア様の言いたいこと、なんとなく分かる気がします」
会話が止まった。
「わかるんですか?」
カイルが驚いたように聞き返す。
「はい」
エリシアは頷いた。
「確かにすごくしょっぱいです」
一拍。
「正直、今のまま商品として出されたら怒ります」
「ひどくない!?」
思わず反論する。
「でも、お客さんに出したら間違いなくクレームですよ?」
エリシアが淡々と言う
「ですが」
エリシアは続けた。
「何というか......」
言葉を探すように考え込む。
「梅の旨味が弱いのと、あと全体的に調和が取れていないんですよね」
私は思わず固まった。
「調和?」
「はい」
エリシアは頷く。
「酸味」
一拍。
「塩味」
さらに一拍。
「このよくわからない草と思われる風味」
指を折りながら数えていく。
「全部ちゃんと存在しています」
「うん」
「でも、それぞれが別々に主張している感じなんです」
一拍。
「錬金発酵の工程が不十分なんじゃないですか?」
私は思わず固まった。
「そうかな......」
エリシアの言っていることは俄かには信じがたい。
理論上は問題ない。
同等の熟成期間を錬金発酵で再現している。
塩分濃度も調整した。
赤紫蘇も加えた。
香りもある。
酸味もある。
だからこそ分からなかった。
何が足りないのかが。
「だって理屈の上では完成しているはずなんだよ?」
私は思わずそう呟く。
するとエリシアは首を傾げた。
「でも完成していないんですよね?」
「うっ......」
痛いところを突かれる。
完成しているなら。
こんなに何十回も試作していない。
私自身が納得できていないからだ。
「エレノア様」
エリシアが静かに続ける。
「私、料理のことは詳しくありません」
一拍。
「でもポーションは同じ材料でも熟成不足だと味が尖りますよね?」
私は思わず顔を上げた。
「それは......そうだけど」
「今の梅干しも似ている気がします」
さらに一拍。
「塩も酸味も紫蘇もあります」
「でも全部が別々なんです」
「混ざっていないというか......」
「馴染んでいないというか......」
私は固まった。
その感覚には覚えがあった。
新人が見よう見まねで作った時や、劣化している素材を使ったポーションによくある現象だ。
完成している。
確かに完成している。
だが――
中身が馴染んでいない。
「......あ」
思わず声が漏れた。
エリシアさんとカイルがこちらを見る。
「どうかしましたか?」
私は机の上の梅干しへ視線を落とした。
「そうか......」
一拍。
「私、工程は再現してたけど時間を再現してなかったんだ」
「時間......ですか?」
カイルが首を傾げる。
私はゆっくり頷いた。
「錬金発酵で熟成期間そのものは短縮できる」
一拍。
「でも熟成って単純に成分を変化させるだけじゃないんだよ」
さらに一拍。
「時間を掛けて全体が馴染む工程でもある」
エリシアが目を丸くした。
「だから調和が取れていない......?」
「多分ね」
私は頷く。
ポーションでも同じだ。
材料を一気に変質させれば完成はする。
だが品質は伸びない。
素材同士が馴染む時間。
魔力が落ち着く時間。
そういったものは意外と重要なのだ。
「つまり......」
カイルが恐る恐る聞く。
「完成してない?」
「完成してない」
即答だった。
私は試作品を見つめる。
塩はいる。
酸味もある。
赤紫蘇の香りもある。
梅の風味もある。
だが全員が好き勝手主張している。
まるで会議中の商会の人達みたいに。
「なら錬金発酵と併用して、普段よりも強めに攪拌すればいけるかも?」
私は思わず呟いた。
「攪拌ですか?」
カイルが首を傾げる。
「うん」
私は頷く。
「ポーションもそうなんだけど、素材ってただ混ぜればいいわけじゃないんだよ」
一拍。
「ちゃんと馴染ませないと駄目なの」
さらに一拍。
「薬効だけなら出るんだけど、効率が落ちたり品質が不安定になったりする」
エリシアが納得したように頷く。
「つまり梅干しも同じかもしれないと?」
「そういうこと」
私は試作品へ視線を向けた。
今までの私は熟成期間ばかり気にしていた。
どれだけ時間を加速させるか。
どれだけ発酵を進めるか。
そこばかり考えていたのだ。
だが。
もしかすると問題はそこではない。
塩。
梅。
赤紫蘇。
それぞれは完成している。
だが互いに馴染みきっていない。
だから味がバラバラに感じる。
「やってみる価値はあるね」
私は立ち上がった。
失敗作の山から一番完成度の高いものを選ぶ。
そして。
ポーションを作る時のように攪拌しながら錬金発酵を行う。
最初は半信半疑だった。
だが――
目に見えて変化が現れた。
「色近いかも!」
私は思わず身を乗り出す。
壺の中では先程までよりも深い赤紫色が広がっていた。
赤紫蘇の色素が均一に溶け込み、梅にも少しずつ染み込んでいく。
香りも違う。
先程までのような塩と酸味が喧嘩している匂いではない。
どこか丸みがあり、一つにまとまり始めている。
「本当だ......」
エリシアも驚いたように壺を覗き込む。
「さっきまでと全然違いますね」
「うん」
私は静かに頷く。
この感覚。
間違いない。
素材同士が馴染み始めている。
新人のポーションで起きる失敗。
素材ごとに主張してしまう現象。
それが今まさに解消されようとしていた。
「もう少し......」
私は攪拌を続ける。
ゆっくり。
丁寧に。
まるで高品質なポーションを仕上げる時のように。
そして――
数十分後。
私は完成した梅を一粒摘み上げた。
「お願いします......」
本日何度目か分からない祈りを捧げながら口へ運ぶ。
噛む。
瞬間。
「――っ!」
強烈な酸味が舌を打った。
続いて塩味。
そして梅の旨味。
最後に赤紫蘇特有の香りがふわりと抜けていく。
私は固まった。
数秒。
誰も声を出さない。
そして。
「これだ......」
ぽつりと呟く。
「え?」
「できた」
私はもう一粒食べる。
間違いない。
酸っぱい。
しょっぱい。
それなのに角がない。
全部が一つにまとまっている。
ずっと探していた味だった。
「完成した......」
その言葉に。
アトリエ全体の動きが止まった。
「本当に?」
「本当」
私は静かに頷く。
そして梅を一粒エリシアへ渡した。
恐る恐る口へ運ぶエリシア。
数秒後。
「酸っぱ!?」
叫んだ。
だが。
その直後。
「......あれ?」
首を傾げる。
もう一口。
さらにもう一口。
そして。
「おいしいですねこれ」
ようやく納得したように呟いた。
カイルも興味津々で一粒食べる。
「酸っぱ!」
やはり叫んだ。
だが。
「......確かにこれは癖になりますね」
そう言いながらまた一つ食べる。
その光景に私は思わず笑った。
「食べすぎると喉乾くからね?」
私がそう言うと、
「もう遅い気がします......」
カイルはそう言いながら水差しへ手を伸ばした。
「自業自得ですね」
エリシアが呆れたように言う。
「でも確かに美味しいですよ」
一拍。
「今までのと全然違います」
「ですよね!」
思わず食い気味に返してしまった。
だって嬉しい。
本当に嬉しいのだ。
朝から何度も失敗して。
塩を入れ過ぎて。
水を何杯も飲んで。
ようやく辿り着いた結果なのだから。
私は改めて完成した梅干しを見つめる。
赤紫蘇の色がしっかりと移った鮮やかな赤色。
香りも良い。
そして何より味。
酸味。
塩味。
旨味。
その全てが綺麗にまとまっている。
「よし」
私は小さく頷いた。
「これなら出せる」
商品として。
胸を張って。
そう言える出来だった。
ーー次の日
梅干しが完成したことを商会へ報告した私達は、急遽最終試食会を行った。
結果から言えば。
大成功だった。
「これは良いですな」
「酸味が効いておりますな」
「おにぎりとの相性が素晴らしい」
商会の人達からも高評価。
特に梅干しおにぎりは予想以上の反応だった。
最初こそ強烈な酸味に驚いていたものの、一口、二口と食べ進めるうちに評価が逆転する。
気付けば全員が黙々と食べていた。
そして。
「問題ありませんな」
「十分商品になります」
「むしろ想像以上です」
最終的な評価は満場一致。
販売決定だった。
そうして私達は――
何の予告もなく、おにぎり弁当の試験販売を開始した。
本来なら宣伝期間を設けるべきだったのだろう。
だが。
残念ながらそんな余裕はなかった。
何故なら。
「時間が足りません!」
「卵焼き追加お願いします!」
「唐揚げこっちです!」
「腸詰め肉焼き上がりました!」
試食会終了後。
私達はそのまま夜通しで弁当作りに突入したからだ。
厨房は戦場だった。
卵焼きを焼く者。
唐揚げを黙々と揚げるメル。
腸詰め肉を仕上げる者。
おにぎりを握る私。
十分に冷めたおかずを箱へ詰める者。
全員が休む暇もなく動き続ける。
その結果――
用意できたのは500セット。
試験販売にしてはかなりの量だった。
それもそのはずである。
今回使用したお米は、私が実験室へ保管していたものだ。
元々は、私の非常食兼趣味用。
様々な理由で少しずつ確保していた結果、それなりの量が備蓄されていた。
そのお陰で500セットもの弁当を用意することができたのである。
もっとも――
「まだあるんだよね......」
実験室にはまだ500セットを三カ月は作れそうな量がまだ残っている。
普通の家庭なら軽く悲鳴を上げる量である。
「......」
私は静かに視線を逸らした。
途中から少し恥ずかしくなったのは内緒だった。
いや、違うのだ。
決して買い込み過ぎたわけではない。
何らかの理由で輸入が止まった時に備えて行くたびに買っていただけである。
決してこれを予測して買っていたわけではない。
「エレノア様、聞いてます!?」
「えっ?」
私はようやく意識を会議室へ戻した。
フィリアさんが呆れたような表情でこちらを見ている。
「今、売価と初回ロットの最終確認をしていたんですが」
「ごめん、ちょっと考え事してた」
正直に答えると、周囲から小さなため息が漏れた。
「またお米のことですか?」
「違うよ」
即答する。
「今は違う」
「今は、って言いましたね……」
カイルが静かに突っ込む。
私は咳払いを一つして資料に視線を戻した。
「で、どこまで話したっけ?」
「もう販売開始の話まで進んでますよ」
「早いね」
「エレノア様が遅いんです」
容赦がない。
だが反論できなかった。
「傷んでいる可能性があるものはなかったので、このまま販売できます」
フィリアさんが資料を閉じながらそう言う。
「品質チェックも問題なし、と」
「はい。保存状態も想定以上ですな」
商会の人も頷いた。
どうやら夜通しで作った五百セットは、全て無事合格らしい。
「じゃあ、アトリエに持っていきましょうか」
私がそう言うと、すぐに何人かが立ち上がる。
「運搬用の箱はこちらで用意しております」
「騎士団にも連絡済みです」
「警備も問題ありません」
準備だけはやたらと早い。
いや、早すぎる。
「……ほんと仕事早いね」
思わず呟くと、
「エレノア様が遅いだけです」
即答だった。
「そこ強調する必要ある?」
「あります」
きっぱり言われた。
私はため息をつきつつも、立ち上がる。
そして――
「じゃあ、始めようか」
その一言で。
王都初となる“おにぎり弁当”の試験販売は、静かに幕を開けようとしていた。
ーー王都・エレノアのアトリエ
いつも通りのアトリエの光景――
だが、店内の至る所に「お弁当試験販売中」と書かれた紙が貼られている。
それも、やけに統一感のない配置で。
正直に言えば、かなり雑だ。
「……もう少しデザインなんとかならなかったんですか?」
カイルがポツリと呟く。
「時間なかったんだってば」
私は即答する。
今朝、ミストルティン様にお願いして急遽持ってきてもらった印刷機で一気に出力したものだ。
無駄に高性能なプリンターのせいか、写真がやけに鮮明に印刷されている。
梅干しの赤色も、おにぎりの白も、やたらと実物より美味しそうに見える。
「……なんか、実物より良く見えない?」
カイルがポスターを覗き込みながら呟く。
「そういう物らしいよ」
私は肩をすくめた。
実際、例の印刷機には“画像を調整して見栄えを良くする機能”があるらしい。
いわゆる、見た目を整えるための補助処理だとかなんとか。
正直、理屈はよく分からない。
ただ――
「美味しそうに見えるようにはなってるね」
エリシアが少し困ったように言う。
確かに。
色味はやけに鮮やかで、光の当たり方まで計算されたように整っている。
無駄に完成度が高い。
「見本詐欺にならないよね?」
静かに呟く。
「詐欺かどうかはお客さんが決めることなのでノーコメントで」
カイルが淡々と答える。
「それ言い方ひどくない?」
「事実です」
即答だった。
私は思わずポスターをもう一度見上げる。
確かに、悪意はない。
むしろ親切設計だ。
「そろそろ開店しますよー!」
商会の人の声掛けにより、店内は一気に臨戦態勢へと切り替わった。
「準備OKです!」
「私もいいよー!」
各所から準備完了の声が上がる。
私は鍵を解除し、ゆっくりと扉を開けた。
その瞬間――
いつものように、客が流れ込んでくる。
ポーションを求める者たち。
定番の常連客。
そして今日は、どこか視線の先が違っていた。
――入口横の張り紙。
『お弁当 試験販売中』
タブレットで印刷した即席のポスターが、やけに目立っている。
その効果は、想像以上だった。
「なんだそれ……?」
「飯売ってんのか?」
「試験販売……気になるな」
一人が足を止める。
その一人に釣られて、また一人。
そして――
気づけば列の流れが変わっていた。
ポーションの列から、弁当の前へ。
「一つ……いや二つ頼む」
「こっちも!」
「まだあるか?」
飛ぶように売れていく。
迷いがない。
躊躇もない。
ただ、空腹と興味だけで手が伸びている。
そして――
それは本当に一瞬だった。
「……完売しました」
商会の人が、少し呆然とした声で告げる。
沈黙。
数秒。
「え?」
私の声が、間抜けに漏れた。
開始から、まだそれほど時間は経っていない。
朝の列が捌ける前どころか、ほぼ一巡目の途中である。
「は、早くない?」
「早いですな」
「想定の三倍です」
「三倍どころじゃないですね」
商会の人達が次々と報告する。
私は思わず扉の外を見る。
そこにはまだ――
弁当を買えなかった人々の視線が残っていた。
じっと、こちらを見ている。
「……これ」
私は小さく呟く。
「足りないやつだ」
誰も否定しなかった。
そして――
「明日分、予約できますか……?」
沈黙。
一瞬、時間が止まる。
私はその言葉を聞いた瞬間、妙に既視感のある空気を感じた。
「この流れ知ってる」
思わず小さく呟く。
「知ってますね」
カイルが即答する。
「知ってるの?」
「はい。だいたいこうなると次は“予約殺到”です」
やけに冷静だった。
私はゆっくりと視線を上げる。
弁当を買えなかった人々。
その目はすでに“次”を見ていた。
「明日もあるんだよな?」
「数、増えるんだよな?」
圧がすごい。
完全に商談ではない。
これはもう――需要の押し付けである。
「えっと……一応試験販売なので……」
商会の人が言葉を濁す。
だがその瞬間。
「じゃあ予約で」
「俺も」
「俺もだ」
あっさりと埋まった。
会話ではない。
決定事項だった。
私は思わず天井を見上げる。
(ああ……これだ)
知ってるやつだ。
成功した直後に来るやつだ。
「エレノア様」
カイルが静かに言う。
「これ、増産案件ですね」
「だよね」
即答だった。
誰も否定しなかった。
むしろ全員が、同じ未来を見ていた。
――明日も、足りない。
確実に。




