147話 光を守る者、闇に潜む者
夜は更け――
既に屋敷内は静まり返っていた。
廊下を歩く使用人の姿もなく、聞こえるのは遠くの時計の音だけ。
灯りも最低限。
セレスティア伯爵家は、完全に“夜”へ沈んでいた。
だが、その一方で。
護衛棟の一角だけは、未だ明かりが消えていない。
重い扉の向こう。
そこには王命錬金護衛隊を中心とした隊員達が集まり、静かに現状確認を行っていた。
机上へ広げられているのは巡回記録。
警戒配置図。
監視報告。
そして、王都周辺の簡易地図。
室内に雑談はない。
全員が完全に実務中の顔をしていた。
「現状、屋敷周辺及び内部には不審人物・不審な痕跡共にありません」
報告担当の隊員が淡々と告げる。
「外周警戒も異常なし」
「結界反応、侵入痕跡、転移残滓共に確認されていません」
アランは静かに腕を組んだ。
「……静かすぎるな」
一拍。
別の隊員が資料をめくる。
「市場周辺で確認されていた監視行動も、三日前を最後に途絶えています」
「学院区画側も同様です」
「尾行確認ゼロ」
「接触試行ゼロ」
「監視継続感覚のみ残存」
最後の報告に、室内の空気がわずかに変わった。
ミィナが視線を上げる。
「……感覚?」
「はい」
隊員は小さく頷いた。
「明確な視認はありません」
「ですが、“見られている感覚”だけが消えていません」
静かな沈黙。
それは非常に曖昧な報告だった。
だが、この場の誰一人として軽視しない。
経験則。
直感。
実戦経験を積んだ者ほど、そういう違和感を無視しないからだ。
アランは机上の地図へ視線を落とす。
「相手は警戒強化を見て退いた……わけではないか」
「恐らく」
ミィナが静かに答える。
「むしろ、“こちらを観察する段階へ移行した”可能性があります」
室内の空気がさらに重く沈む。
完全撤退ならまだいい。
だが違う。
相手はまだいる。
ただ、“見えなくなった”だけだ。
別の隊員が報告を続ける。
「問題は痕跡処理です」
「転移魔法使用痕が極端に少ない」
「加えて魔力偽装精度も高い」
一拍。
「正直、素人ではありません」
資料へ記された痕跡図。
そこに残されていたのは、僅かな魔力の揺らぎだけ。
普通なら見落とすレベル。
だが逆に言えば――
“そこしか残っていない”。
「消し方を知っている動きだな」
ルーカス直属護衛の一人が低く呟く。
「はい」
隊員は頷く。
「しかも、痕跡の残し方に癖がありません」
「恐らく複数名」
「役割分担して動いています」
アランは小さく息を吐いた。
面倒だった。
非常に。
相手は衝動的に動いていない。
監視。
観察。
情報収集。
必要なら即撤退。
しかも足跡を消す技術まで持っている。
完全に“慣れている側”だった。
「……長期戦になるな」
誰かが小さく呟く。
否定する者はいない。
室内には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
誰も楽観視していない。
むしろ問題なのは――相手が何もしてこないことだった。
「接触がない以上、こちらから掴める情報にも限界があります」
ミィナが淡々と続ける。
「現状、相手は“こちらの対応速度”を測っている可能性が高いかと」
「警備増強への反応確認か」
「はい」
一拍。
「護衛配置」
「移動導線」
「隊員交代周期」
「学院側との連携速度」
「店舗側運用変更」
「……全部見られている前提で動く必要があります」
空気がさらに重くなる。
実際、その可能性は高かった。
ここ数日で護衛側は大きく運用を変えた。
屋敷。
学院。
アトリエ。
物流。
導線。
全て。
つまり相手から見れば、“観察対象”が大量に増えた状態でもある。
「アトリエ側の反応は?」
アランが問いかける。
別の隊員が資料を確認した。
「不審な人物の目撃を確認していますが、職務質問にも応じており、現段階で関連付けるのは早いかと」
「特徴は?」
「待機列周辺で長時間滞在」
「店舗導線の確認行動あり」
「加えて、搬入口側の巡回周期を観察していた可能性があります」
一拍。
「ですが、全員身元確認に応じています」
「所持品も問題なし」
「不審物、隠蔽術式反応共に確認されていません」
ミィナが静かに資料へ視線を落とす。
「……露骨すぎるわね」
「はい」
隊員も頷いた。
「逆に言えば、“見られても問題ない位置”で止まっています」
「職務質問を受ける前提の動きです」
室内の空気が少しだけ重くなる。
それはつまり。
向こう側も、こちらの警戒密度を理解した上で動いているということだった。
「接触目的ではなく、純粋な観察か」
アランが低く呟く。
「恐らく」
隊員は資料をめくる。
「現状、店内侵入を急いでいる様子はありません」
「むしろ、“現在の警備体制でどこまで制御されているか”を測っている印象です」
「……試されているわけね」
ミィナが小さく息を吐いた。
アトリエ側は既に通常店舗ではない。
入店制限。
退出確認。
待機列管理。
搬入口監視。
巡回騎士。
どこまでが本気で、どこまでが見せ札なのか。
相手も慎重に探っている。
「問題は、ここまで慎重な相手が何を目的にしているかです」
隊員の一言に、室内が静まり返る。
金目的。
誘拐。
技術狙い。
情報収集。
可能性はいくらでもある。
だが。
今の相手は、どれにも断定できない。
動きが静かすぎる。
だからこそ不気味だった。
「相手の目的も黒幕も分からない以上、こちらが後手になるのは確実だな」
アランが静かに呟く。
室内の空気が重く沈む。
先に動いているのは向こう側だ。
監視。
観察。
接触準備。
何を狙っているのかは分からない。
だが少なくとも、“何かをする意思”だけは確実に存在している。
「第一隊は新たな情報を掴んでいないが、候補はこちらにも共有された」
ミィナが手元のリストへ視線を落としながら告げる。
机上へ数枚の資料が並べられる。
名前。
組織名。
過去の行動履歴。
そして簡易危険度評価。
「王都地下組織」
「国外工作組織」
「違法錬金術関連勢力」
「貴族派閥経由の依頼仲介」
一つずつ読み上げられていく候補。
だが、そのどれも決定打には欠けていた。
「範囲が広すぎるな……」
隊員の一人が苦い顔をする。
「現状、“動き方が似ている”段階でしか絞れていません」
ミィナが淡々と続けた。
「特に今回問題なのは、相手側が極端に接触を避けている点です」
「通常であれば、どこかで情報収集のための接触行動が発生します」
「ですが今回はそれがない」
一拍。
「こちらの警戒強化を確認した瞬間、動きが“浅く”なっています」
アランは腕を組む。
「……無理をしない相手か」
「はい」
「そして恐らく、“切り捨て前提の末端”ではありません」
その言葉に、数人の隊員が小さく表情を変えた。
つまり。
現場判断権を持っている。
危険なら退く。
痕跡を残さない。
必要以上に近づかない。
それができる相手ということだ。
「面倒ですね」
誰かが小さく呟く。
その通りだった。
雑な相手ならまだいい。
焦る。
欲を出す。
無理をする。
そこから尻尾を掴める。
だが今回は違う。
静かすぎる。
慎重すぎる。
まるで、“長く生き残ってきた側”の動きだった。
ミィナはリストの一枚を指先で軽く叩く。
「ただ、一つだけ共通点があります」
全員の視線が集まる。
「候補に上がっている組織の大半が、“錬金術関連技術”へ強い執着を持っています」
室内が静まり返った。
エレノア。
高性能ポーション。
異常精度の調合。
薬理統制局。
王城との接触。
そして現在進行中の供給体制。
注目されない方がおかしい。
アランは静かに目を閉じる。
「……やはり原因はそこか」
誰も否定しなかった。
「ですが、エレノア様は裏社会では“金になるターゲット”として知名度が高いため――」
ミィナが静かに続ける。
「現段階では、単独勢力による行動かどうかの判断もできません」
一拍。
「情報が流れていても不思議ではありません」
室内の空気がさらに重く沈んだ。
それは誰もが理解していたことだった。
高性能ポーション。
異常な供給能力。
王城案件。
薬理統制局。
しかも、まだ若い。
そして決定的なのは――
「表に出すぎた」
アランが低く呟く。
誰も否定しない。
アトリエ開業から一気に広がった。
口コミ。
貴族間。
冒険者。
商会。
王都市場。
今や“セレスティア家の錬金術士”を知らない者の方が少ない。
「普通なら、どこかで囲われるか消える人材です」
隊員の一人が真顔で言った。
「ですが現実には、王城側と直接繋がった」
「結果として、“手が出しにくいが価値は極めて高い対象”になっています」
つまり最悪だった。
簡単には触れられない。
だが、諦めるには惜しすぎる。
だからこそ。
観察される。
狙われる。
機会を待たれる。
ミィナは静かに資料を閉じた。
「問題は、向こう側が“どこまで把握しているか”です」
「調合能力だけなのか」
「薬理統制局まで掴んでいるのか」
「あるいは――」
一拍。
「それ以上か」
沈黙。
誰も軽々しく口を開かない。
エレノア本人は、自分の価値を正確に理解していない。
だからこそ危うい。
だからこそ護衛対象になっている。
そして厄介なのは。
「本人に自覚がない以上、行動制限にも限界があります」
隊員が疲れた顔で呟く。
「普通に増産する」
「普通に新技術を出す」
「普通に市場へ影響を与える」
「しかも全部善意」
頭が痛くなる報告だった。
アランは深く息を吐く。
「……だから止めづらい」
「はい」
ミィナも小さく頷いた。
「悪意がないどころか、“周囲の役に立とうとしている”だけですので」
「結果として周囲が死にかけているがな……」
ぼそりと誰かが呟く。
数人が静かに目を逸らした。
パン戦線を思い出したらしい。
だが空気はすぐに戻る。
今は笑う場面ではない。
アランは改めて全員を見回した。
「結論は変わらない」
一拍。
「相手の正体が不明な以上、警戒を緩める理由はない」
「むしろ、“まだ動いていない今”が最も危険だ」
低い声だった。
静かで。
だが確信に満ちている。
嵐の前ほど、空は静かだ。
だからこそ。
王命錬金護衛隊は、一瞬たりとも目を逸らさなかった。
「最悪、この屋敷にいる限りは――」
アランが静かに口を開く。
「賊に侵入されても、エレノア様を王城最重要区画、もしくは神域へ強制転移させるトリガー式魔法陣がある」
室内の空気がわずかに変わる。
だが、驚きはない。
それは既に共有済みの情報だった。
王命錬金護衛隊発足時。
護衛対象の最終避難経路として正式に組み込まれている。
「発動条件は?」
確認するように隊員の一人が問いかける。
ミィナが淡々と答えた。
「屋敷結界の一定以上の損傷」
「敵性魔力反応密度上昇」
「護衛隊からの緊急承認」
「そしてエレノア様本人への直接危害認定」
一拍。
「複数条件一致時、自動起動へ移行します」
つまり。
屋敷が突破されるレベルの事態になれば、対象だけは強制的に切り離される。
それが最後の安全装置だった。
「神域側へ飛ばされた時点で追跡は不可能ですね」
隊員の一人が小さく呟く。
「はい」
アランが短く頷く。
「だからこそ、“最終手段”として成立している」
王城側ですら限定許可。
転移座標秘匿。
追跡術式無効化。
普通の勢力では、そもそも到達すらできない。
だが。
アランは静かに続けた。
「逆に言えば、そこまで追い込まれた時点でこちらの敗北だ」
室内が静まり返る。
当然だった。
屋敷侵入。
結界突破。
護衛線崩壊。
その全てを許したことになる。
「発動させないことが前提」
ミィナも低く告げる。
「我々の役目は、“そこまで行かせない”ことです」
全員が静かに頷いた。
王命錬金護衛隊。
その存在理由は単純だ。
エレノアを守ること。
ただ、それだけ。
たとえ相手の正体が見えなくても。
たとえ狙いが不明でも。
その一点だけは、絶対に揺るがなかった。
ーー???????
太陽の光など、一切届かない場所。
湿った石壁。
薄暗い魔導灯。
複雑に入り組んだ地下通路のさらに奥。
そこに存在する広大な地下空間では、重苦しい空気の中、複数の人影が円卓を囲んでいた。
「完全に相手もこちら側の行動を把握しつつありますね」
低い声が静かに響く。
薄暗い室内。
魔導灯の淡い光だけが、円卓をぼんやり照らしている。
机上には大量の資料。
巡回周期。
護衛配置。
搬入口導線。
アトリエ運営変更。
ここ数日で急激に変化した警備体制が細かく記録されていた。
「予想以上ですね」
別の人物が小さく息を吐く。
「ここまで徹底されるとは思いませんでした」
「当然だろう」
円卓奥の男が静かに口を開く。
「“あれ”を放置するには価値が高すぎる」
一拍。
「高性能ポーション」
「異常な調合精度」
「供給能力」
「そして王城との接続」
淡々と並べられる単語。
だが、その重みは軽くない。
「既に市場へ影響が出始めている」
「だからこそ、王城側も本気で囲った」
室内が静まり返る。
誰も否定しない。
エレノア・フォン・セレスティア。
今やその名前は、一部では既に“商品価値”として認識され始めていた。
「問題は本人ですね」
細身の男が資料をめくる。
「報告を見る限り、自覚が薄い」
「そのようだな」
「だからこそ制御しづらい」
一拍。
「だが同時に、“付け入る隙”にもなる」
空気がわずかに変わる。
この場の全員が理解していた。
今回の件は単純な襲撃ではない。
価値が高すぎる。
壊すには惜しい。
奪うには難しい。
だからこそ慎重になる。
「急ぐ必要はない」
円卓奥の男が静かに告げた。
「今はこちらの存在を悟られず、“どこまで守られているか”を測る段階だ」
護衛の人数や規模に加え反応速度の確認。
学院側警備。
店舗運営変更。
入店制限。
全てが分析対象になっていた。
「ですが、ここまで囲われると接触そのものが――」
若い男が眉を寄せる。
「だから面白い」
小さな笑い声。
冷たい声だった。
「王城が必死に守るということは、それだけ価値がある証明でもある」
静かな沈黙。
「ですが、セレスティア伯爵家を護衛している部隊の詳細はいまだ掴めていません」
一拍。
「加えて、動いている騎士団との整合性も取れていない」
報告役の男が資料を机へ置く。
「確認できているのは一般騎士団のみです」
「ですが、実際に現場を主導しているのは別系統の人員と思われます」
室内の空気がわずかに変わる。
「別系統?」
「はい」
男は淡々と続けた。
「学院側警備、導線制御、アトリエ側運用変更――」
「全てに一貫性があります」
「にもかかわらず、王城騎士団の通常運用記録と噛み合わない」
さらに別の資料が開かれる。
巡回周期。
接近制御。
配置変更速度。
反応時間。
「動きに無駄がありません」
「対象防衛へ完全特化しています」
「しかも一般騎士側が補助へ回っている場面が複数確認されています」
一拍。
「ですが、指揮官が誰なのか見えない」
静かな沈黙。
普通ではない。
王都騎士団ならもっと分かりやすい。
隊章。
指揮系統。
配置傾向。
だが今回、それが見えない。
「秘匿部隊か?」
円卓奥の男が低く呟く。
「可能性はあります」
「ただし、王都側戦力情報と照合しても一致しません」
「少なくとも、我々が把握している表側戦力には存在していない」
つまり。
隠されている。
あるいは最初から表へ出す前提ではない。
「厄介ですね」
細身の男が小さく息を吐いた。
「接近警戒の質が高すぎる」
「ただ人員を増やしただけではない」
「明らかに実戦慣れしています」
学院での対応も異常だった。
問題児への即時警戒。
導線封鎖。
自然な接触制限。
しかも騒ぎへ発展させない。
洗練されすぎている。
「加えて」
報告役の男が視線を落とした。
「尾行中、こちら側人員へ接近を受けています」
空気が変わる。
「接触されたのか?」
「直接ではありません」
「ですが、監視確認の動きがありました」
資料が一枚追加される。
「市場区画で尾行中、一般騎士ではない人物が不自然に接近」
「進行方向変更後も追従確認」
「その後、こちらが離脱すると同時に監視も解除されています」
一拍。
「こちらを“探している”動きでした」
室内が静まり返る。
さらに男は続ける。
「加えて、ダミーで配置していた人員数名へ職務質問が行われています」
「何?」
「理由は“周辺警戒強化に伴う確認”」
「記録上は通常対応です」
「ですが、確認内容が妙に細かい」
滞在理由。
移動経路。
所属。
接触人物。
視線方向。
持ち物。
しかも。
「質問した騎士は全員別人です」
「ですが確認項目が一致している」
「明らかに情報共有されています」
円卓奥の男が静かに指を組む。
「……こちらの存在を完全に掴まれてはいない」
「だが、“何かいる”とは認識され始めているわけか」
「その可能性が高いかと」
低い返答。
そして何より不気味なのは――
「向こう、表へ出してきません」
報告役の男が静かに呟く。
「泳がせています」
その一言で、室内の空気がさらに重く沈んだ。
数秒の沈黙。
やがて。
円卓奥の男が、小さく息を吐いた。
「……本来なら短期で終わらせる予定だった」
一拍。
「価値確認」
「接触可否の調査」
「必要なら回収」
「それだけで済むはずだった」
淡々とした声。
だが、その奥には僅かな苛立ちが混じっている。
「クラウゼル男爵との繋がりも、頃合いを見て切る予定だったが……」
そこで言葉が止まる。
机上の資料。
増え続ける警備記録。
異常な対応速度。
そして、見えない護衛戦力。
全部が想定を外れていた。
男は静かに目を細める。
「……どうやら、そう簡単には終わらないらしい」
薄暗い室内に、重い沈黙だけが落ちた。




