139話 優しい店主、予想外の戦場①
最近、私は思う。
人生とは、たぶん理不尽との戦いなのだと。
「……疲れた」
ぽつりと漏れた本音は、誰に向けたものでもなかった。
アトリエの二階に設けられた執務スペース。
机の上には、見たくない量の書類。
隣には、さらに見たくない量の追加書類。
そして正面には、見たくない現実を淡々と告げてくるカイル。
「まだあります」
「聞きたくなかった」
即答だった。
今日は朝から、王城での打ち合わせだった。
理由は当然――新しく発見されたダンジョン。
冒険者たちの需要増加。
そして、それに伴う回復薬不足。
全部知ってる。
というか、現在進行形で巻き込まれている。
あの地獄の行列を思い出して、私は静かに遠い目をした。
午前で完売。
予約は爆発。
午後はひたすら調合。
あれを一日で終わると思った私が甘かった。
現実はもっとしつこい。
「王城からの正式な依頼です」
カイルが、実に事務的な声で告げる。
「しばらくの間、回復薬の増産をお願いしたいとのことです」
「しばらく、って?」
「王都周辺の冒険者需要が落ち着くまで」
「それ期間未定って言わない?」
「言いますね」
「優しくない」
世界が私に優しくない。
静かに研究して、静かに暮らしたいだけなのに。
その願いは最近、完全に迷子だった。
「もちろん、報酬はかなり良い条件です」
「問題はそこじゃないんです」
「知っています」
知っているなら助けてほしい。
でも助からない。
知ってた。
私は椅子の背にもたれながら、天井を見上げた。
逃げたい。
すごく逃げたい。
できれば遠くへ。
できれば布団の中へ。
永住したい。
「エレノア様」
「はい」
「現実逃避しても書類は減りません」
「夢くらい見させて」
切実だった。
だが、当然ながら現実は待ってくれない。
増産。
納品。
予約対応。
薬理統制局の判断。
そして通常営業。
冷静に考えなくても、おかしい。
「……私、まだ子どもなんですが」
「最近その事実を忘れそうになります」
「やめてください」
本当にやめてほしい。
精神年齢まで労働に巻き込まれるのは困る。
私は深く、深くため息をついた。
「……とりあえず」
「はい」
「美味しいご飯が食べたい......」
心からの願いだった。
「では、終わったらご飯でも食べに行きます?」
カイルが、珍しく少しだけ柔らかい声でそう言った。
「最近、商会の方から美味しいお店を教えてもらったので」
「行く」
即答だった。
食い気味だった。
もはや反射だった。
美味しいご飯。
その単語だけで、瀕死だった精神が少しだけ蘇る。
希望。
圧倒的希望。
「そんなにですか」
「そんなにです」
今の私には、それが救いだった。
薬草でも書類でもなく、温かくて美味しいご飯。
それだけで人は生きていける。
……たぶん。
思えば、ここ最近。
私はまともに“食事を楽しむ”ということをしていなかった。
ぱっと食べて。
即、調合。
予約対応。
納品。
書類。
また調合。
そして夜。
ようやく終わったと思ったら――
『デイリー終わってないよ!』
『素材周回いくぞ!』
『今日こそあの装備出すから!』
主にミストルティン様である。
完全に主犯だった。
結果。
食事は雑になる。
睡眠は削れる。
精神はじわじわ死ぬ。
大変よくない。
非常によくない。
三大欲求のうち、食事と睡眠が順調に犠牲になっていた。
人としてどうなのか。
かなりどうなのか。
……まあ。
残る一つについては。
特に困っていない。
というか。
相手もいないし、そもそもそこまで興味もない。
なので、その点だけは平和だった。
非常に平和だった。
だが。
それを踏まえても。
「……これ、人間らしい生活してるって言えるのかな」
ぽつりと漏れた本音に、カイルは一瞬だけ考えるような顔をした。
そして。
「かなり微妙ですね」
「ですよね」
即答だった。
優しさがない。
でも事実だった。
否定できない。
私は静かに机へ突っ伏した。
「せめて今日くらいは、ちゃんと美味しいご飯を食べたい……」
「だから誘っているんですが」
「行く」
やはり即答だった。
「じゃあ、早く終わらせて行きましょう」
「うん」
そのためなら、今この書類の山とも戦える気がした。
気がしただけかもしれないけれど。
少なくとも、希望があるだけ昨日よりずっと強い。
美味しいご飯。
それは偉大だった。
「メルとかも誘う?」
私が顔を上げながらそう言うと、カイルは少し考えてから頷いた。
「いいと思います。あの二人も最近ずっと忙しかったですし」
「ああ……確かに」
メルは朝からずっとパンを焼いているし、エリシアたちは調合室に住んでいるんじゃないかと思うくらい働いている。
たぶん全員、かなり疲れている。
というか、疲れていない人を探す方が難しい。
「ご褒美は大事」
「大事ですね」
満場一致だった。
こういう時こそ、ちゃんと息抜きをしないと、そのうち誰かが倒れる。
主に私が。
「じゃあ、納品が終わったら皆で行こう」
「伝えておきます」
カイルがそう言って、再び書類へ視線を戻す。
私も観念して、目の前の現実に向き直った。
増産。
納品。
確認。
署名。
見たくない文字の群れ。
でも、その先にはご飯がある。
それだけで、人は意外と頑張れる。
「……よし」
私は静かにペンを握った。
今日は絶対に、美味しいご飯を食べる。
何があっても。
本当に、何があっても。
――この時の私は、まだ知らなかった。
その“ご飯”が、別の意味で戦いになることを。
そして、夕方。
「……終わった……」
魂の抜けたような声が、静かな執務室にぽつりと落ちた。
長かった。
本当に長かった。
書類。
確認。
署名。
薬理統制局として私が目を通さなければならない重要判断事項。
そして、王城への納品。
全部。
本当に全部。
ようやく片付いた。
椅子にもたれた瞬間、身体の重さを改めて実感する。
疲れた。
ものすごく疲れた。
たぶん今なら、そのまま床でも眠れる。
寝ないけど。
いや、できれば寝たい。
でも今日は違う。
今日はちゃんと、ご飯を食べる日だ。
そのために私はここまで生き延びた。
「予約分、相変わらずすごいことになってますけど」
エリシアが、帳簿を片手にさらりと言った。
「聞かなかったことにします」
即答だった。
今それを受け止める精神力はない。
明日の私に丸投げしたい。
未来の自分には悪いけれど、きっとなんとかしてくれる。
たぶん。
「明日の私、頑張って」
「他人事みたいに言わないでください」
「実際、今の私はもう他人みたいなものだから……」
「末期ですね」
優しさがない。
でも否定できなかった。
メルも、最後の片付けを終えながら大きく伸びをする。
「パンの方もなんとか落ち着きましたー!」
「何回焼いたの?」
「数えないことにしました!」
「正解」
それは本当に正解だった。
知らない方が幸せなことも、この世にはある。
例えば今日の労働時間とか。
「では」
カイルが静かに立ち上がる。
「約束通り、行きますか」
その一言で。
瀕死だった私の精神が、少しだけ蘇った。
「行く」
即答。
今日何回目か分からない即答だった。
だが、それだけは譲れない。
今の私を支えているのは、ほぼ食欲である。
人間、とても単純だ。
「美味しいご飯……」
「目が死んでるのに声だけ元気ですね」
「希望だから」
真顔で答えた。
本当に希望だった。
こうして。
疲労困憊の一行は、ささやかなご褒美を求めて、街へと繰り出すことになった。
王都の中心部から少し離れた、一般市民が多く暮らす区画。
貴族街のような華やかさはないが、そのぶん生活の匂いが濃い。
夕暮れの石畳には、仕事帰りの人々が行き交い。
露店からは香ばしい匂いが漂い。
子どもたちの笑い声が、どこかから聞こえてくる。
「……なんか落ち着く」
思わず、ぽつりと呟いた。
こういう空気は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
変に気を張らなくていいし、普通に歩ける。
誰かに挨拶をしなくてもいい。
誰かに書類を渡されることもない。
素晴らしい。
「エレノア様、顔がだいぶ緩んでます」
「今だけは見逃して」
切実だった。
メルはそんな私を見て、くすくすと笑っている。
「エレノア様はこっちのエリアに来たことないんですか?」
「ないね。そもそも、あまり外に行く機会なかったし……メルなら分かるでしょ?」
私がそう言うと、メルは「ああ……」と納得したように頷いた。
「たしかに」
実際、その通りだった。
別に、貴族令嬢だから来られない――という話ではない。
うちの家は、そのあたりそこまで厳しくない。
むしろかなり甘い方だと思う。
ノエルか、あるいはミストルティン様が一緒なら、郊外へ出ることだって普通に許可が出るくらいには。
たまにその基準どうなんだろう、と思わなくもないけれど。
特に後者。
神様を護衛枠に入れていいのかは、未だにちょっと疑問である。
まあ、強いから問題ないのだけれど。
問題はそこじゃない。
「行けるかどうかと、行く用事があるかは別なんだよね」
私は静かに言った。
「胸を張って言える。ない」
「すごい断言ですね」
「だって本当にないし」
この辺りは住宅街が多い。
生活のためのお店。
地元の人が通う食堂。
小さな雑貨屋。
そういう場所が中心だ。
当然ながら、薬草専門店などない。
私の行動範囲からすると、かなり縁が薄い。
市場なら薬草がある。
王城なら仕事がある。
アトリエならもっと仕事がある。
つまり、だいたい全部仕事だった。
「悲しいくらい生活が仕事中心ですね」
「言わないで」
自覚はある。
かなりある。
だから刺さる。
「可愛い小物とか、お洋服とか見ないんですか?」
「見なくはないけど……優先順位が薬草に負ける」
「それは知ってます」
「知ってるよね」
メルは何度もその現場を見ている。
普通の人が雑貨を見る感覚で、私は薬草を見る。
たぶん端から見るとだいぶ怪しい。
自覚はある。
「以前、市場で珍しい薬草を見つけた時の顔、すごかったですよ」
エリシアが静かに補足した。
「やめて」
「目が完全に獲物を見つけた狩人でした」
「やめて」
否定できないのが辛い。
たぶんその時の私は、とても楽しそうだったと思う。
記憶にある。
かなり楽しそうだった。
人としてどうなんだろう。
「でも、こういう普通のお店に来るのは新鮮で楽しい」
そう言って、私は周囲を見回した。
夕暮れの賑わい。
笑い声。
美味しそうな匂い。
どこか肩の力が抜けるような空気。
こういう場所は、嫌いじゃない。
むしろ、かなり好きだ。
そんな話をしていると目的のお店に到着した。
お店のたたずまいに銀の麦亭という名前だけで絶対おいしいと確信が持てる
いざ入ろうとすると護衛の騎士さんからストップがかかった。
「お待ちください」
すっと、横から護衛の騎士さんに止められた。
「はい?」
私の手がぴたりと止まる。
騎士さんは真面目な顔で、店の入口をじっと見ていた。
その表情は、魔物の気配を探る時と同じくらい真剣だった。
いや、そこまでなの?
「……少々、確認を」
「え、なに、敵?」
「違います」
「罠?」
「違います」
「じゃあ何」
騎士さんは、ほんの少しだけ言いづらそうに口を開いた。
「こちらのお店……量がかなり多いことで有名なのですが」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「…………」
一瞬、思考が止まった。
そこ?
いや、でも重要だった。
すごく重要だった。
私は静かに看板を見上げる。
――《銀の麦亭》
優しい名前。
優しそうな外観。
だが、その裏に潜む物理的暴力。
なるほど。
完全に理解した。
「ちなみに、どのくらい?」
「普通盛りで、一般的なお店の大盛り以上です」
「帰りたい」
即答だった。
メルが隣で目を輝かせる。
「すごいですね!」
「その感想が出るの強い」
エリシアは静かに面白がっていた。
カイルは目を逸らしている。
絶対知っていた。
「言いましたよ、“量も多い”と」
「その説明が圧倒的に足りなかった」
「美味しいですよ」
「そこは疑ってない」
問題はそこではない。
量である。
完全に量である。
騎士さんは、なおも少し心配そうだった。
「以前、貴族の方が挑戦されて……途中でかなり大変なことになっていたので」
「挑戦って言い方の時点でおかしい」
定食屋とは。
食事とは。
私は人生について少し考えた。
今日の私は、ただ静かに、美味しいご飯を食べたかっただけなのに。
なぜ戦う前提になっているのか。
「……ちなみに」
「はい」
「今なら、まだ別のお店に変更できますか?」
切実な問いだった。
だが。
メルはきらきらした目で。
エリシアは静かに頷き。
カイルはすでに入店する流れを作っていた。
誰も逃がす気がない。
ひどい。
騎士さんだけが、少しだけ同情の目を向けてくれた。
優しい。
でも止めてはくれない。
優しくない。
「……大丈夫です」
私は静かに覚悟を決めた。
「たぶん」
「その“たぶん”に一切の安心感がありません」
誰にも否定されなかった。
こうして。
私は食事ではなく、“挑戦”へ向かうことになった。
護衛の騎士さんが最後まで少し心配そうな顔をしていたのが印象的だった。
優しい。
でも助けてはくれない。
優しくない。
カイルが先に扉を開く。
店の中から、温かい空気と食欲を刺激する香りが一気に流れてきた。
肉。
スープ。
焼きたてのパン。
完全に正解の匂いだった。
匂いだけなら。
「いらっしゃいませ!」
元気のいい店員さんの声が響く。
店内はかなり賑わっていた。
仕事帰りらしい人たち。
冒険者。
商人。
家族連れ。
皆それぞれ楽しそうに食事をしている。
……はずなのだが。
なぜか。
どこか。
妙に。
殺伐としていた。
「…………」
「…………」
ある席では、無言で山のような肉と向き合う男性。
別の席では、パンの籠を前に静かに目を閉じる女性。
さらに奥では、仲間に向かって
『まだいける! あと半分だ!』
と励まされている冒険者。
食事とは。
定食屋とは。
私は人生について少し考えた。
「なんか……空気が違わない?」
「気のせいではないと思います」
エリシアが静かに頷いた。
ですよね。
ここだけ、食事というより競技の気配がする。
店主らしき壮年の男性が、にこにことこちらへやってくる。
穏やかな笑顔。
優しそう。
とても優しそう。
「いらっしゃい。初めてかい?」
「はい」
「それなら、うちのおすすめは煮込み定食だよ!」
その声の後ろで、誰かが小さく
「やめとけ……」
と呟いた気がした。
聞かなかったことにした。
「ご注文は?」
私は慎重に、ものすごく慎重に口を開いた。
「……あの」
「うん?」
「できるだけ、少なめでお願いします」
念押し。
とても大事な念押しだった。
店主さんは一瞬きょとんとして――
それから、にっこり笑った。
「任せてくれ!」
その笑顔に、一切の安心感がなかった。
嫌な予感しかしない。
ものすごく。
だが、せっかく来たのだ。
どうせなら、ちゃんと美味しいものを食べたい。
私は覚悟を決めて、メニューを見下ろした。
「……皆、何にする?」
そこからは、ちょっとした作戦会議になった。
メルは目を輝かせながら、迷いなく。
「私は煮込み定食にします!」
「強い」
初心者とは思えない決断力だった。
エリシアは静かにメニューを眺め、
「私は魚の香草焼き定食で」
非常に堅実だった。
さすがである。
カイルはというと。
「日替わり定食にします」
「一番危険そうなの選んでない?」
「店のおすすめは試すべきかと」
「その理論で生きていけるのすごい」
護衛の騎士さんは、少し悩んだ末に。
「私は肉料理にしておきます」
肉。
非常に分かりやすい。
安心感がある。
そして。
全員の視線が、私に集まる。
「……何にしますか?」
「今すごく帰りたい」
「注文してください」
優しさがない。
私は静かにメニューを見つめた。
煮込み。
魚。
日替わり。
肉。
どれも美味しそうだ。
全部食べたい。
でも量が怖い。
最終的に、私は一番無難そうな場所へ逃げた。
「……チーズミートグラタンで」
一瞬、沈黙。
そして。
「無難……ですか?」
エリシアが、珍しく少しだけ首を傾げた。
「無難だよ」
「そうでしょうか」
「グラタンだよ?
優しいじゃない」
「たぶん量は優しくないですよ」
「聞きたくなかった」
だが、もう遅い。
私は覚悟を決めて、店主さんへ注文を伝えた。
「チーズミートグラタンを、できれば……少なめで」
念押し。
二回目である。
大事なことなので二回言った。
店主さんは満面の笑みで頷いた。
「任せてくれ!」
やっぱり、その笑顔に一切の安心感がなかった。
不安しかない。
ものすごく。
こうして。
それぞれ別の定食を頼み、私たちは静かに待つことになった。
その間にも、店内はにぎやかだった。
笑い声。
食器の触れ合う音。
焼ける音。
食欲を刺激する匂い。
普通なら、とても心地いいはずなのに。
なぜか。
どこか。
妙に殺伐としていた。
ある席では、無言で山のような肉と向き合う男性。
別の席では、パンの籠を前に静かに祈る女性。
さらに奥では、仲間に向かって。
『まだいける! あと半分だ!』
と励まされている冒険者。
食事とは。
定食屋とは。
私は人生について少し考えた。
「なんか……空気が違わない?」
「気のせいではないと思います」
エリシアが静かに頷いた。
ですよね。
ここだけ、食事というより競技の気配がする。
そして。
「お待たせしました!」
店員さんの明るい声と共に。
目の前に、それは置かれた。
「…………」
「…………」
私は、しばらく何も言えなかった。




