138話 止まらない来客、終わらない対応
朝の空気は、少しだけひんやりとしていた。
季節はすっかり落ち着き、強すぎた日差しもようやく穏やかになってきた頃。
そんな過ごしやすい朝――のはずだった。
「……眠い」
私は小さく呟きながら、屋敷の奥へと続く廊下を歩いていた。
「またミストルティンにゲームを付き合わされたんでしょ?」
隣を歩くパルシア様が、呆れ半分の声で言う。
「……はい」
否定できなかった。
昨夜。
私は平穏な睡眠を得るはずだった。
少なくとも、その予定だった。
しかし現実は違った。
『あと一回!
本当にあと一回だけだから!!』
――その“あと一回”を信じた私が馬鹿だった。
気づけば深夜。
気づけば再挑戦十数回。
気づけば私の精神が瀕死だった。
結局。
その“あと一回”は、まったくあと一回ではなかった。
再挑戦。
敗北。
再挑戦。
敗北。
たまに希望。
そして絶望。
それを十数回ほど繰り返した頃には、もはや時間の感覚すら曖昧になっていた。
「今何時ですか……」
『まだ大丈夫!』
「その返答は信用できない」
時計を見た。
見なければよかった。
深夜三時。
「……………………」
『次でいける気がする!』
「その台詞、二時間前にも聞きました」
『今度こそ本当に!』
「それ前回も聞きました」
圧倒的寝不足。
頭は重い。
目はしょぼしょぼする。
判断力はたぶん死んでいる。
それでも。
ラスト一撃。
本当にあと少し。
ここまで来て、やめられるはずがなかった。
「……倒します」
『その顔、完全に徹夜を決意した人の顔だよ!?』
もう遅い。
引き返せない。
そして――
奇跡的に。
本当に奇跡的に。
異象は、ようやく崩れ落ちた。
『勝ったーーーー!!!!』
「…………」
『エレノア!?
感動の勝利だよ!?』
「……眠い」
それが、全てだった。
勝利の余韻もそこそこに。
私はそのまま、ほとんど気絶するようにベッドへ倒れ込んだ。
そして。
「……眠い」
朝である。
容赦なく、朝である。
世界は私の睡眠事情など一切考慮してくれなかった。
薄く目を開ける。
眩しい。
朝日が眩しい。
なんなら人生もちょっと眩しい。
「あと五時間くらい寝たい……」
切実だった。
だが、そうも言っていられない。
今日は普通にアトリエがある。
休息日以外に臨時休業などしようものなら、後が大変だ。
常連のお客様はもちろん、冒険者ギルド、王城関係、なぜか近所の奥様方にまで
『体調を崩されたのでは!?』
『何か事件ですか!?』
『無理をなさっていませんか!?』
と、心配という名の大嵐が発生する。
優しさなのは分かっている。
分かっているのだが。
対応する側は普通に死ぬ。
なので、多少眠かろうが、多少目の下に隈ができようが、多少魂が抜けていようが――
営業はする。
それが現実だった。
しかも。
今の時刻は、開店一時間前。
メルはもう、アトリエで朝の仕込みを始めている頃だろう。
焼きたてのパンの香りを漂わせながら、今日の分をせっせと準備しているはずだ。
そんな状態で。
『ごめん、今日やっぱり休みで』
などと言えるほど、私は鋼の精神を持っていない。
むしろ土下座案件である。
「……無理」
「でしょうね」
隣を歩くパルシア様が、即答した。
「せめてもう少し優しさを」
「現実は優しくないわよ?」
「知ってます……」
知っている。
嫌というほど知っている。
だからこそ、私は重たい足を引きずるように、屋敷の奥へと向かっていた。
目指すのは、アトリエへと繋がる転移門。
淡く光る魔法陣の前に立ち、小さく深呼吸をひとつ。
行きたくない。
でも行く。
大人だから。
いや、子どもだけど。
精神的には今かなり駄々をこねている。
「帰りたい」
「まだ出発前よ」
「それが一番大事なんです」
パルシア様が、呆れたようにため息をついた。
「ほら! いってらっしゃい!」
にこやかに。
とてもにこやかに。
しかし一切の逃走を許さない笑顔で、パルシア様は私の背中を押した。
「いってきます……」
半分ほど魂の抜けた声でそう返し、私は転移門へと足を踏み入れた。
ふわり、と身体が浮くような感覚。
一瞬だけ視界が白く霞み――
次の瞬間。
ふわり、と。
焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐった。
「……いい匂い」
思わず小さく呟く。
アトリエの中には、朝らしい穏やかな空気が流れていた。
厨房の方からは、焼き上がったばかりのパンの香ばしい香り。
棚の整理をする音。
準備のために忙しく動く人たちの気配。
いつもの、見慣れた朝の光景――
「エレノア様、おはようございます!」
「「「「おはようございます!」」」」
声をかけられて顔を上げる。
メルと、商会から派遣されている数人の従業員たちが、こちらに気づいて一斉に頭を下げた。
朝から元気が強い。
少し眩しい。
「おはようございます……」
対してこちらは完全に寝不足である。
声の元気が圧倒的に足りない。
メルがじっとこちらを見て、少し苦笑した。
「またミストルティン様ですか?」
「うん......」
「やっぱり」
もはや説明不要だった。
このやり取りもだいぶ定番化してきている気がする。
「エリシア達は……?」
私が周囲を見回しながら尋ねると、メルはすぐに答えた。
「既に調合を開始していると思います」
「早いね……」
「今日は予約分がかなり多いので」
「……嫌な予感しかしない」
朝からその情報は聞きたくなかった。
私は静かに現実逃避したくなったが、もちろん許されるはずもない。
奥の調合室の方からは、すでに薬草を刻む音や、器具の触れ合う小さな音が聞こえてくる。
完全に仕事が始まっていた。
逃げ道はない。
知ってた。
「……行ってきます」
「はい、頑張ってください!」
その笑顔が少しだけ怖い。
そんなことを思いながら、私は重たい足取りで調合室へ向かった。
奥の調合室へ向かいながら、私は小さくため息をついた。
朝から嫌な予感しかしない。
予約が多い。
その時点で十分に嫌なのに、さらにメルのあの“頑張ってください!”の笑顔である。
あれは絶対に何かある。
経験がそう告げていた。
「……帰りたい」
今日二回目である。
誰にも届かない小さな本音を零しながら、私は調合室の扉を開けた。
「おはようございます――」
言葉が、途中で止まった。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
そこに広がっていたのは、想像していた光景とはまるで違っていた。
調合器具はきれいに片付けられ。
机の上には、完成したポーションが整然と並んでいる。
薬草の山もない。
慌ただしい空気もない。
むしろ、妙に静かだった。
「……終わってる?」
「終わってます」
当然のように返事をしたのは、エリシアだった。
いつも通り落ち着いた顔で、帳簿の確認をしている。
その隣では、他の皆もすでに次の作業へ移っていた。
「いや、早くない?」
「今日はいつもより一時間早く始めましたので」
「なんで?」
「足りないからです」
「嫌な言い方しないで」
だが、否定できる気もしなかった。
私は並べられたポーションを見つめる。
数は多い。
かなり多い。
普段なら十分すぎるほどに。
なのに。
エリシアは、静かに言った。
「これでも午前中でなくなると思います」
「……………………」
聞かなかったことにしたい。
「ちなみに」
「まだあるの?」
「すでに開店前から列ができています」
「知ってる」
「過去最長です」
「聞きたくなかった」
頭が痛い。
寝不足のせいではなく、完全に現実のせいである。
「……なんで?」
私の切実な問いに、エリシアは少しだけ間を置いてから答えた。
「さぁ……でも、なぜか行列ができているんですよね」
「他人事みたいに言わないで」
「実際、私も今朝見て驚きましたので」
「それはそう」
いや、本当にそれはそうだった。
私だってまだ現実として受け止めきれていない。
普段より少し忙しい、なんて可愛いものではない。
明らかに規模がおかしい。
アトリエの前にできる列としては、完全に想定を超えていた。
「予約分が増えたとか、貴族のお客様が増えたとかならまだ分かるんですけど……」
エリシアは帳簿をめくりながら、小さく首を傾げる。
「冒険者の方も多いですし、一般のお客様も増えています。あと、見たことのない商会の方も」
「嫌な予感しかしない」
「私もです」
珍しく意見が完全一致した。
こういう時の予感は、だいたい当たる。
しかも最悪の方向に。
「……まさかとは思うけど」
「はい」
「また面倒ごと?」
「たぶん」
「その“たぶん”に希望が一切ない」
私は思わず額を押さえた。
寝不足の頭に、この情報量は優しくない。
優しくないどころか、完全に追い打ちだった。
静かに研究して、静かに暮らしたい。
その願いは、最近ずっとどこかへ行ったままだ。
「エレノア様、いっそのこと逃げます?」
朝にはあまりにも眩しすぎる笑顔で、エリシアがそんなことを言った。
「提案の内容が全然眩しくない」
「でも魅力的では?」
「すごく魅力的」
即答だった。
心の底から魅力的だった。
このまま裏口からそっと抜け出して、誰にも見つからない場所で静かに薬草を眺めながら一日を終えたい。
できればお茶も欲しい。
できれば誰にも呼ばれたくない。
できれば永久に。
「もうそれ半分隠居では?」
「理想です」
「私より若いのに」
「心はだいぶ疲れてます」
特に昨夜。
主にゲームのせいで。
エリシアは少しだけ笑って、それから机の上に並んだポーションへ視線を移した。
「ですが、残念ながら現実は逃がしてくれません」
「知ってる」
「しかも今日は過去最長記録更新中です」
「聞きたくなかった」
知れば知るほど帰りたくなる。
もういっそ、今日という日をなかったことにしたい。
だが当然、そんな都合のいい魔法は存在しない。
その時。
外の方から、メルの元気な声が響いた。
「開店準備できましたー!」
――現実が来た。
しかも元気いっぱいで。
「……行きますか」
「はい」
あまりにも静かな返事だった。
誰も希望を持っていなかった。
私は覚悟を決めて、ゆっくりと立ち上がる。
処刑台へ向かう囚人って、たぶんこんな気持ちなんだろうなと思った。
そんな重たい足取りで、私は店の方へ向かった。
入口の前。
すでに並んでいるお客様たちの気配が、扉越しにも伝わってくる。
楽しそうな声。
期待に満ちた空気。
そして、圧。
「すごい帰りたい」
「今さらです」
隣のエリシアが冷静だった。
こういう時だけ本当に頼もしい。
いや、いつも頼もしいけれど。
メルがカウンターの奥から、いつもの明るい笑顔でこちらを見る。
「準備、大丈夫です!」
「私の心以外は」
「それはもう諦めてください!」
ひどい。
でも否定できない。
カイルが静かに扉へ手をかける。
「では――開店します」
その言葉と同時に。
扉が、開いた。
次の瞬間。
――どっ。
「うわっ」
本当に、文字通り。
一気に人が流れ込んできた。
冒険者。
商人。
貴族の使いらしき人。
常連のお客様。
そして、なぜか近所の奥様方までいる。
情報網が怖い。
「回復薬をまとめて十本!」
「こっち予約分の受け取りです!」
「新作のパンはまだありますか!?」
「前に買ったあのポーション、もう一本欲しいんだけど!」
「エレノア様に相談が――」
「順番にお願いします!!!!」
私の声が、朝から店内に響き渡った。
戦場だった。
完全に。
接客という名の戦場だった。
メルはパンを次々と並べ。
カイルは会計をさばき。
商会から派遣された人たちも総動員。
エリシアたちは補充に走る。
全員フル稼働。
誰一人止まれない。
私も、気づけば質問対応と相談と説明に追われていた。
「これは一日何本まで使用可能ですか?」
「症状によります!」
「次の入荷予定は!?」
「未定です!」
「予約できますか!?」
「その列に並んでください!」
何が何だか分からない。
時間の感覚すら怪しい。
ただ、ひたすら忙しい。
そして。
本当に、あっという間だった。
「……え?」
気づけば。
棚が、空だった。
ポーション棚。
完売。
パン棚。
完売。
綺麗なくらい何もない。
開店から――まだ三十分。
「……三十分?」
「はい」
エリシアが静かに頷く。
「三十分です」
「意味が分からない」
「私もです」
メルが、最後のトレーを抱えながら、遠い目をしていた。
「パン、全部なくなりました……」
「焼きたてだったのに……」
「さっきまであったんだけどな……」
幻だったのかもしれない。
私は静かに天を仰いだ。
「……これ、午後どうするの」
私の切実な問いに、誰もすぐには答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
全員、同じ顔をしていた。
――知らない。
ですよね。
しばらくの沈黙。
その空気を破るように、入口の扉が勢いよく開いた。
「すまん!! まだ回復薬あるか!?」
飛び込んできたのは、見覚えのある冒険者だった。
装備には新しい傷。
鎧には土埃。
どう見ても、ついさっきまでダンジョンにいた顔をしている。
だが。
その視線の先にあるのは――
綺麗さっぱり何もない棚。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「……終わった?」
「終わりました」
私が静かに告げると、冒険者は天を仰いだ。
「嘘だろ……」
「私もそう思います」
完全に同じ気持ちだった。
彼はしばらく絶望した顔をしていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
「やっぱり皆ここに来てたのか……」
「皆?」
「ああ。新しいダンジョンが見つかっただろ?」
その一言で、全員の視線が集まった。
冒険者はカウンターにもたれながら、大きくため息をつく。
「中層から先がかなりきつい。魔物の数も多いし、状態異常も面倒だし、とにかく回復薬がいくらあっても足りない」
「嫌な予感しかしない話ですね」
「しかも、誰かが言い出したんだよ。“あそこのアトリエのポーション、やたら効く”って」
「犯人が口コミ」
「たぶんギルド経由だな。あっという間に広がった」
ああ。
なるほど。
全部繋がった。
新ダンジョン。
急増した回復薬需要。
そして高性能ポーションの噂。
それらが綺麗に合体した結果が――
今朝の地獄。
「つまり」
私は空っぽの棚を見つめながら、静かに言った。
「新ダンジョンと口コミのダブルパンチ」
「そういうことだな」
「最悪ですね」
「だな」
満場一致だった。
嬉しくない一致である。
その時、メルが小さく手を挙げた。
「ちなみに、外の列……まだ減ってません」
「なんで?」
「完売したって伝えても、『予約だけでも!』って」
「強い」
お客様の意志が強い。
ものすごく強い。
私はもう一度、静かに天を仰いだ。
「……静かに研究して暮らしたいだけなのに」
「それ、最近ずっと言ってるな」
冒険者がしみじみと言った。
「願い続けることに意味があるんです」
「叶いそうか?」
「ありません」
即答だった。
誰一人として否定しなかったあたり、現実は残酷である。
その時だった。
「エレノア様……」
恐る恐る、メルが帳簿を抱えてこちらにやって来る。
その顔は、どこか引きつっていた。
嫌な予感しかしない。
「……何ですか」
「予約なんですが……」
「はい」
「ちょっと、えげつないことになってまして」
「具体的には」
メルは静かに帳簿を差し出した。
私はそれを受け取り、ぱらりとページをめくる。
「…………」
もう一枚。
「…………」
さらにもう一枚。
「…………」
まだある。
「なんで?」
「私もそう思います」
帳簿が厚い。
とても厚い。
予約というより、もはや小さな事件簿だった。
しかも内容が重い。
回復薬十本。
二十本。
三十本。
中には「可能な限り全部」という雑な願望まであった。
「雑」
「皆さん切実なんだと思います」
「分かるけど雑」
私は静かに額を押さえた。
寝不足の頭にこれは優しくない。
優しくないどころか、完全に追撃だった。
「……無理ですね」
「はい」
「全部は絶対に無理ですね」
「はい」
満場一致だった。
私は帳簿を閉じ、深く深くため息をつく。
「予約、一旦打ち切りましょう」
「ですよね」
即答だった。
そこに迷いは一切ない。
「これ以上受けたら、たぶん誰か倒れます」
「たぶん私ですね」
「たぶんじゃなくて確定です」
「ひどい」
「事実です」
ひどい。
でも事実だった。
メルはすぐに頷いた。
「ポーションの予約受付は終了にしておきます。
パンの方は、追加で焼きながらお店だけ開けておきますね」
「ああ……そっちはお願いします」
せめて、パンのお店くらいは通常営業していてほしい。
全部閉めると、今度は本当に心配の嵐になる。
それに、焼きたてのパンを楽しみにして来てくれるお客様まで巻き込みたくはない。
……まあ、そのパンも朝の三十分で一度消えたのだけれど。
「今日は何回焼くことになるんでしょうね……」
メルが遠い目をした。
「数えない方が幸せだと思います」
「それはそうですね!」
なぜか笑顔だった。
強い。
朝からずっと思っていたが、メルは本当に強い。
私は静かに覚悟を決めた。
午後。
それはもう、分かりきっている。
接客ではない。
説明でもない。
ひたすら。
ただひたすら――
「調合ですね……」
「調合ですね」
エリシアが、綺麗に頷いた。
逃げ道はなかった。
午後の予定、確定。
ポーション。
ポーション。
ひたすらポーション。
研究?
知らない子ですね。
静かに暮らしたい?
夢でした。
私は白衣を羽織りながら、遠い目をした。
「……今日は、長くなりそうですね」
「まだ始まったばかりですよ」
「聞きたくなかった」
そのまま私は、再び調合室へと向かった。
表では、メルの店が焼きたての香りを漂わせながら、なんとか営業を続けている。
そして奥では。
薬草を刻む音と、私の現実逃避したい心の声だけが、延々と響き続けることになるのだった。




