140話 優しい店主、予想外の戦場②
目の前に置かれたそれを見て。
私は、しばらく何も言えなかった。
「…………」
「…………」
隣のメルも、無言だった。
エリシアですら、珍しく言葉を失っていた。
カイルは静かに目を伏せている。
護衛の騎士さんは、どこか遠い目をしていた。
分かっていた。
たぶん、この人だけは分かっていた。
そして、私もようやく理解した。
――“少なめ”とは何だったのか。
目の前。
そこには。
どう見ても。
どう見ても。
山があった。
チーズミートグラタン。
……のはずだった。
だが、私の知っているグラタンは、こんなに標高が高くない。
こんがり焼けたチーズ。
湯気を立てる濃厚なソース。
ごろごろ入った肉。
たっぷりの野菜。
そして、その下にまだ何かが眠っている気配。
深い。
ものすごく深い。
「……これ、グラタン?」
「はい!」
店員さんが、ものすごくいい笑顔で答えた。
「少なめにしておきました!」
「どこが?」
「当店だとこちらが少な目の基準ですね!」
「大盛りを遥か彼方に通り越してます!!」
思わず本音が漏れた。
店員さんはにこにこしている。
一切悪気がない。
それが一番怖い。
隣では、メルの煮込み定食が運ばれてきていた。
鍋だった。
「定食って鍋なんだ……」
「すごいです!」
メルは嬉しそうだった。
強い。
精神が強い。
エリシアの魚の香草焼き定食は、一尾まるごとだった。
しかも大きい。
すごく大きい。
「魚って、こんなに主張してきましたっけ」
「新鮮ですね」
エリシアも若干引いていた。
珍しい。
カイルの日替わり定食に至っては、皿数が多すぎて机が見えない。
「日替わりって何」
「本日のおすすめ、だそうです」
「おすすめが多い」
護衛の騎士さんの肉料理は、安心感のある肉だった。
ポークジンジャーソテーということもあって匂いもすごくよくとてもおいしそうだった。
100点!!
量以外は。
量以外は。
「…………」
私はもう一度、自分のグラタンを見た。
湯気。
香り。
見た目。
全部おいしそう。
すごくおいしそう。
でも。
量。
圧倒的、量。
「これ、食事じゃなくて討伐対象では?」
「異象討伐の時に流れるBGMが脳内に流れたんだけど......」
メルはそう言いながら苦笑いしてた。
「パンお代わり自由なので足りなかったら遠慮なく言ってくださいね!!」
店員さんのその一言に。
全員の動きが止まった。
「…………」
「…………」
いや。
待ってほしい。
今、何と?
「足りなかったら?」
私は、ゆっくり確認した。
「はい!」
店員さんは満面の笑みだった。
「パンはおかわり自由です!」
「この状況でその言葉が出るの、すごく強いですね」
本気で感心した。
いや、感心している場合ではない。
目の前にはすでに山がある。
パン以前の問題だった。
メルはきらきらした目で。
「おかわり自由……!」
「目を輝かせないで」
「焼きたてですよ!」
「知ってる」
「しかもこの香り!」
「知ってる」
「最高では?」
「理屈ではそう」
感情が追いつかないだけで。
理論上は最高だった。
理論上は。
護衛の騎士さんが、静かに口を開く。
「ちなみに、食べきれない場合は持ち帰りも可能です」
「先に言ってください」
それはかなり大事な情報だった。
救い。
圧倒的救い。
私は心の中で騎士さんに拍手した。
やはりこの人だけは味方だった。
「でも、できれば温かいうちに食べた方が美味しいですよ!」
店員さんの笑顔が追撃してくる。
分かっている。
それは分かっている。
だから困っている。
「……とりあえず」
私は深呼吸をひとつした。
「食べます」
「はい!」
「人は食べないと生きていけないので」
「すごく当たり前のことを言ってますね」
エリシアが静かに突っ込んだ。
その通りだった。
でも、今はその当たり前を再確認しないと立ち向かえなかった。
いざ食べようとしたその瞬間。
私たちの隣の席の冒険者グループーー
「ポークカツ定食の5枚をーー」
そう言いかけた瞬間
「バカ!! その5枚は最低保証だぞ! 実際は4倍の量はくるぞ!!」
隣の席から、そんな悲鳴にも似た声が響いた。
「え?」
思わず、私たち全員の視線がそちらへ向く。
そこには、いかにも仕事帰りといった雰囲気の冒険者たちが数人。
一人が元気よく注文しようとしていて。
もう一人が、全力で止めていた。
「いや、でも腹減ってるし――」
「減ってるとかそういう問題じゃない!!」
「五枚くらい余裕だろ?」
「その“五枚”を普通の店基準で考えるな!!」
ものすごく必死だった。
命を懸けて止めている感じだった。
私は静かにスプーンを持ったまま固まる。
「……今、聞き捨てならない言葉があった気がする」
「最低保証って言いましたね」
エリシアが、たいへん冷静に頷いた。
聞き間違いではなかったらしい。
「定食に最低保証って何?」
「私も初めて聞きました」
メルが小さく呟く。
だよね。
普通ないよね。
定食ってそういうものじゃないよね。
隣では、なおも攻防が続いていた。
「いいか、前に俺は“ものすごく軽めで!スズメの涙の量”って言って三枚追加された!!」
「なんで!?」
「店主の優しさだよ!!」
「優しさの方向性がおかしい!!」
完全に同意だった。
心の底から同意だった。
店主さんは、少し離れた場所でにこにこしている。
否定しない。
否定してくれない。
つまり事実なのだろう。
「……この店、食堂の皮を被った何かでは?」
「訓練場かもしれません」
カイルが静かに言った。
「すごく納得した」
むしろそっちの方が自然だった。
食事ではなく、試練。
挑戦。
修行。
そう考えると、全部しっくりくる。
その時。
止められていた冒険者が、ちらりとこちらを見た。
そして。
私の前にそびえるグラタンの山を見て。
「……あ」
察した顔をした。
「初見か」
「はい」
「頑張れ」
「その一言で済ませないでほしい」
切実だった。
彼は、どこか遠い目をしながら言った。
「最初はみんなそうなんだ……。
“少なめ”って言葉を信じるんだよ……」
「やっぱり被害者いたんだ」
「何人もな」
重い。
言葉が重い。
歴史を感じる。
メルはそんな会話を聞きながら、きらきらした目で。
「なんだか冒険者っぽいですね!」
「食事でその感想が出るの、本当に強い」
でも、少し分かる。
確かにこれは戦いだ。
剣ではなく、フォークとスプーンを持った戦い。
平和なのかどうか判断に困る。
私はもう一度、自分のグラタンを見た。
まだ山だった。
まったく削れた気がしない。
「……強敵だ」
「まだ始まったばかりですよ」
「聞きたくなかった」
だが、逃げるわけにはいかない。
これは今日のご褒美なのだ。
美味しい。
すごく美味しい。
だからこそ、ちゃんと味わって食べたい。
私は静かに覚悟を決めた。
異象討伐。
増産依頼。
予約地獄。
そして今。
チーズミートグラタン。
人生とは、本当に理不尽との戦いなのかもしれない。
私は静かにスプーンを握った。
まるで決戦前の騎士のような気持ちだった。
「……いきます」
「ご武運を」
カイルが淡々と言った。
「食事にその言葉使う?」
「今の状況なら適切かと」
「否定できないのが嫌」
私は深呼吸をひとつ。
そして、意を決して。
チーズの表面に、スプーンを差し込んだ。
――ずっしり。
「重い」
「グラタンってそんな感想から入ります?」
メルが笑いをこらえている。
いや、重かった。
物理的に。
完全に重量級だった。
だが。
すくい上げたそれは。
とろりと伸びる濃厚なチーズ。
たっぷり絡むクリームソース。
じっくり煮込まれた柔らかな肉。
香ばしい焼き目。
そして、想像以上にたっぷり詰まっていたマカロニ。
……おいしそう。
すごく。
ものすごく。
「これは……勝ちたい」
「敵認識なんですね」
「勝たないと帰れない気がする」
半分本気だった。
私は、その一口を口へ運ぶ。
「…………」
熱い。
うまい。
すごくうまい。
思わず、無言になった。
濃厚なのに重すぎない。
肉の旨みがしっかりあって、野菜の甘みもちゃんとある。
チーズの香ばしさが全部まとめていて。
これは確かに人気が出る。
量以外は完璧だった。
いや、味に罪はない。
完全に量だけだった。
「……おいしい」
「でしょう?」
店主さんが、なぜか少し誇らしげだった。
「すごくおいしいです」
「それは良かった!」
「でも量はやっぱりおかしいです」
「ははは!」
笑って流された。
強い。
この人は強い。
隣では、メルが煮込みを一口食べて目を輝かせていた。
「おいしいです!!」
「知ってた」
「お肉がほろほろです!」
「良かったね」
「でも鍋です!」
「そこは変わらない」
エリシアも静かに魚を口に運び。
「……これは、かなり当たりですね」
「珍しくテンション高い」
「骨との戦いはありますが」
「やっぱり戦いなんだ」
カイルは日替わり定食を前に、すでに静かに食べ進めていた。
「どう?」
「とても美味しいです。
ただ、何から攻略すべきか少し迷います」
「攻略って言った」
やはり全員、同じ認識らしい。
護衛の騎士さんだけは慣れた様子で、黙々とポークジンジャーソテーを処理していた。
頼もしい。
この人だけ経験値が違う。
「騎士さん、よく来るんですか?」
「たまに。
訓練帰りなどに」
「訓練帰り」
なるほど。
完全に用途が一致していた。
納得しかない。
その時。
隣の冒険者席から、再び声が上がる。
「いける!! まだ二枚だ!!」
「その言い方がもうおかしい!!」
「パンを挟め! パンで流れを変えろ!!」
「戦術指示みたいに言うな!!」
完全に戦場だった。
食堂とは。
私は人生について、また少し考えた。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
にぎやかで。
美味しくて。
馬鹿みたいに量が多くて。
みんなで笑いながら食べるご飯。
こういうのは、たぶん。
すごく、悪くない。
「……来てよかったかも」
ぽつりと呟くと。
メルがにこっと笑った。
「でしょう?」
「ただし次は普通のお店がいい」
「それはたぶん無理ですね」
カイルが即答した。
「なんで」
「店主さんが次回はデザートもぜひ、と」
「帰りたい」
まだ食べ始めたばかりなのに。
未来にまで胃が苦しい。
人生は理不尽だ。
本当に理不尽だ。
けれど。
たまには、こういう理不尽なら悪くない。
私はもう一口、グラタンをすくった。
まだ山だった。
先は長い。
とても長い。
でもまあ。
今日はちゃんと、美味しいご飯を食べている。
それだけで、少しだけ。
明日も頑張れる気がした。
だが、その思いも束の間だった。
数分後。
「…………」
私の手は、ものの見事に止まっていた。
いや。
正確には。
止められていた。
胃に。
物理的に。
「……まだ全然減ってない」
現実は残酷だった。
さっきまであれほど美味しかったはずなのに。
いや、美味しい。
今もちゃんと美味しい。
味に一切の罪はない。
問題は純粋に、量だった。
圧倒的な物量。
暴力的な物量。
これはもう兵站の話である。
「強敵ですね……」
メルも、煮込み鍋を前に真顔だった。
さっきまでの勢いがない。
ついに現実を知ってしまったらしい。
「鍋が減りません……」
「ようこそ、こちら側へ」
仲間が増えた。
嬉しくはない。
エリシアも静かにフォークを置く。
「魚って、こんなに持久戦でしたっけ」
「違うと思う」
魚に罪はない。
この店がおかしい。
カイルはまだ淡々と食べていたが、その動きは確実に鈍っていた。
「……大丈夫?」
「理論上は」
「理論で食べないで」
その理論、胃には通用しない。
そして。
訓練や鍛錬で、明らかに私たちより食べるはずの護衛の騎士さんですら。
「…………」
静かに、遠い目をしていた。
「騎士さん?」
「いえ……」
彼は、人生を振り返るような声で言った。
「今日は昼も少し多かったな、と」
「完全に敗因分析してる」
強者ですらこれ。
絶望しかない。
隣の冒険者たちも、さっきまでの勢いはどこへやら。
「……あと三枚」
「まだ三枚あるのか……」
「いける、いける……たぶん……」
「その“たぶん”が一番危ない」
戦場だった。
完全に消耗戦だった。
私は静かに、自分のグラタンを見つめる。
減った。
ちゃんと減った。
でも。
まだ山だった。
「なんで」
心からの疑問だった。
「私、ちゃんと食べてるよね?」
「ええ」
エリシアが静かに頷く。
「かなり真面目に戦っています」
「それなのに」
「敵が強いんです」
「RPGのボスみたいに言わないで」
でも否定できない。
こいつは強い。
たぶん中ボスくらいある。
いや、終盤の隠しボスかもしれない。
その時。
にこにことした店主さんが、再びやってきた。
「どうだい? 足りるかい?」
「その質問が成立するのすごいですね」
思わず真顔で返した。
店主さんは豪快に笑う。
「若いんだから、たくさん食べないと!」
「気持ちはありがたいんですけど、胃が追いつきません!」
「ははは!」
笑ってる。
この人、絶対楽しんでる。
でも嫌いじゃないのが悔しい。
たぶん、こういう人だからこの店は愛されているのだろう。
理不尽だけど。
すごく理不尽だけど。
――そう思った、その時だった。
「それと!」
明るい声とともに、別の店員さんがやってくる。
その手には。
皿。
嫌な予感しかしなかった。
ものすごく。
「本日はサービスで、サラダをお付けしておきました!」
「なんで!?」
反射だった。
完全に反射だった。
目の前に。
置かれた。
山盛りの。
サラダ。
いや。
サラダと呼ぶには、あまりにも存在感が強い。
これはもう草原――いや、ちょっとした山だった。
瑞々しいレタス。
山のようなトマト。
惜しみなく盛られた豆。
見たことない量のゆで卵。
そして、なぜか厚切りベーコン。
もはや副菜ではない。
立派な主戦力だった。
「いやー、いい野菜が安かったんでつい買いすぎてね!!」
店主さんが、まったく悪びれずに笑う。
「その“つい”で命が危ないんですが!?」
「新鮮なうちが一番うまいからな!」
「理屈は正しいのが余計につらい!」
ぐうの音も出ない。
完全に善意。
百パーセント善意。
だからこそ断れない。
理不尽だった。
優しさって、時々凶器になるんだなと私は学んだ。
メルが、きらきらした目でサラダを見つめる。
「すごいです! これだけでお店開けそう!」
「お願いだから前向きに受け止めないで」
「でも野菜ですよ?」
「量の話をしてるの」
エリシアも静かに頷く。
「栄養バランスは完璧ですね」
「そこは認める」
「完璧すぎて命の危機ですが」
「ほんとそれ」
カイルは少しだけ目を伏せた。
「店主さんなりの善意かと」
「善意が物理で殴ってくる」
新しいタイプの親切だった。
護衛の騎士さんですら、完全に黙っていた。
察してほしい。
その沈黙で。
隣の冒険者席から、小さな声が聞こえる。
「……来たか」
「サービスサラダだ……」
そこまでは、まだよかった。
だが。
一人が、私たちの卓を見て。
目を見開いた。
「……まじかよ」
「どうした」
「いや、あれ……」
彼は、信じられないものを見る目で、山盛りのサラダを指差した。
「今日、いつもより明らかに量やばいぞ」
「は?」
「普段でも十分おかしいのに、あれは完全に店主の機嫌がいい時のやつだ」
「そんな判定あるの!?」
思わず突っ込んだ。
冒険者の男は、深く頷いた。
「ある」
断言だった。
「市場で安く仕入れできた日とか、機嫌がいい日とか、たまにやるんだよ……」
「そんなイベント発生しなくていい」
「今日は完全に当たり日だな」
「外れでは?」
「客側からすると、まあ……うん……」
急に歯切れが悪くなった。
つまりそういうことだった。
私は静かに、目の前の草原――いや山を見つめる。
なるほど。
通常ではないらしい。
なんで今日なんだ。
どうして今日なんだ。
よりにもよって、私が来た日に。
「エレノア様、運がいいですね!」
「たぶんその“運”の意味が違う」
メルだけが楽しそうだった。
強い。
本当に強い。
隣の冒険者が、どこか同情するような目で言う。
「初見でこれはきついな……」
「ええ、本当に」
「頑張れ」
「またそれ」
励ましが雑だった。
でも、気持ちは伝わる。
たぶんこの店では、それが精一杯なのだろう。
戦場だから。
私は静かにサラダを見つめた。
新鮮そうだった。
とても美味しそうだった。
すごく健康に良さそうだった。
だが。
今じゃない。
圧倒的に今じゃない。
「……持ち帰り、ありですよね」
私は、もはや祈るような気持ちで確認した。
「もちろん!」
店主さんは、満面の笑みで頷いた。
救済措置。
圧倒的救済措置。
私は心の中で鐘を鳴らした。
勝てない戦いは、撤退もまた戦略である。
無謀と勇気は違う。
私は賢い。
たぶん。
「じゃあ、残りは包んでおきますね!」
店員さんのその一言に、私は深く安堵した。
助かった。
本当に助かった。
今日はここまで生き延びれば勝ちだ。
そう思っていた。
――甘かった。
「それと、デザートもつけておきます!」
「なんで!?」
即答だった。
反射だった。
「サービスです!」
「だから優しさが重い!!」
重い。
物理的にも精神的にも重い。
店員さんはにこにこしている。
断れる空気が一切ない。
その後。
私たちの卓には、次々と包みが積まれていった。
グラタン。
サラダ。
煮込み。
パン。
なぜか焼き菓子。
そして。
「明日うち休みなんで、余った惣菜も入れときました!」
「なんで!?」
本日三回目だった。
いや、もう何回目か分からない。
包まれていく。
どんどん包まれていく。
肉料理。
野菜のマリネ。
揚げ物。
スープ用の具材。
見たことのない量の副菜。
「待ってください、これ持ち帰りの範囲超えてません?」
「いやあ、せっかくなんで!」
「せっかくの方向性がおかしい!!」
完全におかしい。
だが誰も止めない。
止められない。
そして最終的に。
私の前に置かれたのは。
「…………」
「…………」
それはもう。
持ち帰り用の包みではなかった。
完全に。
お花見用のお重だった。
しかも二段。
それが、人数分。
「なんで?」
心からの問いだった。
誰か答えてほしかった。
でも、誰も答えなかった。
答えられなかった。
メルは、お重を前に目を輝かせていた。
「すごいです! 遠足みたいです!」
「遠足じゃない」
「ピクニック?」
「もっと違う」
「じゃあ冒険ですね!」
「それはちょっと近い」
むしろ討伐の戦利品だった。
エリシアが静かに、お重の蓋を少し開ける。
「……綺麗に詰められていますね」
「そこに職人技を発揮しないでほしい」
本当に美しかった。
彩りまで完璧だった。
赤、緑、黄色。
肉も魚も野菜もある。
栄養バランスすら隙がない。
悔しいことに、ものすごく美味しそうだった。
カイルが静かに分析する。
「三日ほどは食事に困らないかと」
「それもう店じゃなくて支援物資なのよ」
完全に補給だった。
冒険前に渡されるやつ。
護衛の騎士さんですら、さすがに少し困った顔をしていた。
「……訓練所でも、ここまではなかなか」
「比較対象が訓練所なのがまずおかしい」
隣の冒険者たちが、それを見て静かに頷く。
「やったな」
「完全にフルコースだ」
「初見でそこまでいくの、逆に才能あるぞ」
「いらない才能ですね」
切実だった。
店主さんは腕を組み、満足げだった。
「若いんだから、しっかり食べて、しっかり働く!」
「理屈は正しいんです!」
「だろう!」
「でも量が違うんです!!」
「はっはっは!」
通じない。
まったく通じない。
この人はたぶん、一生このままだ。
そしてたぶん、それでこの店は愛されている。
理不尽だけど。
本当に理不尽だけど。
私は、目の前のお重を見つめた。
ずっしり重い。
未来が詰まっている。
主に胃袋方面の未来が。
「……これ、屋敷に帰ったら絶対みんなに驚かれる」
「むしろ信じてもらえないかもしれません」
エリシアが冷静に言う。
「写真を撮りたいレベルです」
「この世界にスマホがないのが惜しい」
本当に惜しい。
証拠として残したかった。
絶対に。
メルはにこにこしながら、自分のお重を抱えていた。
「明日の朝も楽しみです!」
「前向きだなあ……」
「美味しいものは、何回でも嬉しいです!」
「それはそう」
そこは否定できなかった。
結局。
味は本当に最高だったのだ。
量が狂っていただけで。
いや、その“だけ”が致命的なのだけれど。
私は、ようやく小さく息を吐いた。
「……また来る気がしてきた」
「でしょう?」
店主さんが即答した。
「まだ何も言ってませんけど」
「顔を見れば分かる!」
「読まないでください」
でも。
たぶん、本当にまた来るのだろう。
こういう場所は、不思議と忘れられない。
騒がしくて。
理不尽で。
胃に厳しくて。
でも、ちゃんと温かい。
そんな店だった。
店を出る頃には、外はすっかり夕暮れだった。
空がオレンジ色に染まり、街の灯りが少しずつ灯り始める。
両手には、ずっしりとしたお重。
いや、もはや物資。
完全に物資。
「……重い」
「幸せの重さですね!」
メルが元気よく言った。
「たぶん違う」
でも。
少し笑ってしまった。
こんな日も、悪くない。
忙しくて。
振り回されて。
理不尽ばかりで。
それでも。
ちゃんと笑えるなら。
きっと、それで十分なのだと思う。
私は夕焼けの空を見上げて、少しだけ肩の力を抜いた。
明日もまた忙しい。
薬理統制局の仕事も。
アトリエのことも。
王城との話も。
きっと山ほどある。
でも。
今夜の夕飯は、もう決まっている。
そして明日の朝ご飯も、たぶん決まっている。
下手をすると明後日も。
「……しばらく食費、浮くかもしれない」
「そこなんですね」
エリシアの呆れた声に。
私は、ちょっとだけ胸を張った。
「大事だよ?」
「否定はしません」
さすがエリシア、分かっている。
そんなことを話しながら。
私たちは、笑って帰り道を歩いた。
お腹いっぱいで。
両手いっぱいで。
なんだか少しだけ、心まで満たされながら。
――そして、その日の夜。
ようやく屋敷へ戻った私は。
「ただいまです……」
人生をやり切った人みたいな顔で、食堂へと辿り着いた。
両手には、例のお重。
ずっしり重い。
物理的にも、精神的にも。
メルはまだ元気だった。
「ただいま戻りましたー!」
「元気だね……」
「美味しいご飯の力です!」
「強い」
本当に強い。
食堂には、すでに夕食後のお茶を楽しんでいる神族組の姿があった。
調理を司る神――パルシア。
そして、自由奔放な神たち数名。
全員、こちらを見て。
ぴたりと動きを止めた。
「……なにそれ」
パルシアが、すっと目を細める。
料理人の目だった。
獲物を見る目ではない。
ちゃんと“中身”を見る人の目だった。
「持ち帰りです」
「持ち帰り?」
「はい」
「その量が?」
「はい」
「……なるほど」
何もなるほどではなかった。
でもパルシアは、すでに静かに立ち上がっていた。
「ちょっと見せて」
「えっ」
止める間もなく。
お重の蓋が、そっと開かれる。
一瞬の沈黙。
そして。
「……ちゃんとしてるわね」
その一言だった。
パルシアは、中をじっと見つめる。
「詰め方も丁寧。
味が移らないように仕切りも工夫してるし……
あら、この煮込みすごく手がかかってる」
完全に料理人だった。
見るところが違う。
「このベーコンもいい火入れね。
パンもちゃんと焼き直してある」
「そこまで分かるんですか」
「分かるわよ」
当然のように返された。
さすがだった。
伊達に“調理を司る神”ではない。
そして。
ふっと、パルシアが微笑む。
「美味しそう」
その言葉に。
神族組全員の目が輝いた。
嫌な予感しかしなかった。
ものすごく。
「待ってください」
私は反射的に止めに入る。
「これは私たちの明日の朝ご飯で――」
「そうね」
パルシアは穏やかに頷いた。
「でも、せっかくこんなに美味しそうなんだもの。
少しだけ、温かいうちに食べた方がいいわ」
「その理屈、今日何回目!?」
やめてほしい。
今日はその言葉に何度も殴られている。
パルシアはまったく動じない。
「大丈夫。
全部食べるわけじゃないわ。
ちゃんと明日の分も残すから」
「その言葉、信用していいんですか」
「お母さんを信じなさい」
「そこ自称なんだ……」
でも、妙に説得力があった。
すでにパルシアは、手際よく皿を並べている。
自然だった。
あまりにも自然すぎて、止める隙がない。
「ほら、メル。お皿取って」
「はい!」
「エリシアはお茶をお願い」
「かしこまりました」
「カイル、そのパンは少し温めた方がいいわね」
「了解しました」
指示が飛ぶ。
全員が動く。
完全に家のお母さんだった。
気づけば。
食堂には追加の皿が並び。
お重の中身は、綺麗に取り分けられ。
自然な流れで夜食会が始まっていた。
「これすごく美味しい!」
「でしょう?」
なぜか私が誇らしかった。
違う。
私が作ったわけじゃない。
でもなんか嬉しい。
悔しい。
パルシアは、一口食べて静かに頷いた。
「うん。
ちゃんと美味しい。
こういうお店、好きよ」
「今度連れてってって言わないでくださいね」
「言おうと思ってたわ」
「やっぱり」
予想通りだった。
「ちゃんと食べさせてくれるお店って、大事なのよ。
最近みんな、忙しいとすぐ適当に済ませるんだから」
「それは……まあ……」
否定できなかった。
忙しい時ほど、食事は後回しになりやすい。
だからこそ、こういう人には勝てない。
「美味しいものをちゃんと食べる。
それだけで、明日ちょっと頑張れるでしょう?」
その言葉に。
私は少しだけ、昼のことを思い出した。
あの山みたいなグラタン。
理不尽なくらい多いサラダ。
笑いながら食べた時間。
「……そうですね」
小さく頷くと。
パルシアは満足そうに笑った。
「ならよし」
本当に。
こういうところが、お母さんだった。
隣では、神族たちがすでにかなり楽しそうだった。
「この煮込み好き!」
最初に声を上げたのは、やはりミストルティン様だった。
当然のように一番いいところを確保し、満足そうに頬を緩めている。
「このお肉、ちゃんと手がかかってるわね。
こういうお店、嫌いじゃないわ」
「そこ、一番柔らかいところでは?」
「早い者勝ちよ」
「絶対違う」
自由だった。
知っていたけど自由だった。
その隣では、ソフィア様が上品にフォークを持ち。
「このグラタン、とても良いですわね。
濃厚なのに重たすぎない。
夜食はこうでなくては」
「夜食の概念が重いんですが」
「美味しいものは別腹ですわ」
にこやかだった。
とてもにこやかだった。
だが、その皿はすでに二周目だった。
「二皿目ですよね?」
「ええ」
「否定しないんだ……」
強い。
優雅に強い。
そして。
エルヴィータ様は、焼き菓子をひとつ手に取り。
真剣な顔で頷いた。
「これは保存性の確認が必要ね」
「絶対いま必要じゃないですよね」
「必要よ。
非常時に備えるのも大切だもの」
「非常時に焼き菓子を優先するんですか」
「当然でしょう?」
当然らしかった。
しかも、言いながら二つ目を確保している。
早い。
動きが早い。
「それ、ただ気に入っただけでは?」
「違うわ。
ちゃんと確認してるの」
「何を」
「美味しいかどうかを」
「それはもう一個目で分かるんですよ」
理屈が強引だった。
でも、本人はまったく揺るがない。
さすが神族。
鋼のメンタルだった。
気づけば。
お重の中身は、着実に減っていた。
煮込み。
グラタン。
パン。
焼き菓子。
副菜。
なぜか厚切りベーコンまで消えている。
「……増えてる!!
なんで減るどころか勢いが増してるんです!?」
「美味しいからじゃない?」
ミストルティン様が、あっさり言った。
「正論なんですけど納得したくないです!」
「良いことよ。
食卓が賑やかなのは」
パルシアが穏やかにお茶を注ぎながら言う。
「いや、賑やかを通り越して略奪なんですが」
「失礼ね。
ちゃんと感謝して食べてるわ」
「そこじゃない」
だめだった。
この人たちは止まらない。
しかも全員、悪気が一切ない。
百パーセント善意。
だからこそ強い。
止められない。
メルはそんな光景を見ながら、にこにこしていた。
「みんな美味しそうで嬉しいです!」
「メルは本当に平和だね……」
「美味しいものは幸せです!」
「それはそう」
そこだけは、完全に同意だった。
悔しいけれど。
本当に悔しいけれど。
味は最高なのだ。
だから食べられてしまう。
理不尽だった。
でも、たぶんこれがこの家の日常なのだろう。
そして。
気づけば。
二段重ねのお花見仕様だったはずのお重は。
ものの見事に。
空になっていた。
「…………」
私は、その現実を前に静かに立ち尽くす。
明日の朝ご飯。
消滅。
明日の昼ご飯候補。
消滅。
しばらく浮くはずだった食費。
幻。
人生は理不尽だった。
本当に理不尽だった。
「……次からは、食費が浮く前提で計算するのはやめよう」
私は、静かにそう決意したのだった。
いよいよ2章クライマックスです!!




