↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【20万PV突破・毎日更新中】転生したら錬金術が得意な貴族家の女の子でした  作者: 双葉アリア
第二章 アトリエ開業編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
155/300

136話 華やぐ夜会、迫りくる影③

うん......長いわw

  挨拶地獄に始まり、ダンスの無限のお誘いが終わったと思ったら――


 まだ、終わっていなかった。


 むしろ本当の意味での“夜会”は、ここからだったのかもしれない。


 私はゆっくりと、息を吐く。


 ようやく手に入れたはずの静けさが、ほんのわずかに揺らいでいた。


 目の前に立つ夫婦――


 エリシアの元親族。


 クラウゼル男爵夫妻。


 エルンスト・フォン・クラウゼル。


 そして、その妻マルグリット。


 先ほどの挨拶とは違う距離感で、二人はそこに“居続けている”。


 去る気配がない。


 話すために来た人間の立ち方ではない。


 ――何かを測っている。


 その事実だけが、妙に生々しく肌に残った。


 興味や、友好的なお近づき。


 そういった夜会特有の空気とは、明らかに異質だった。


 むしろそれらとは正反対に位置する感情を、丁寧に、隠すように重ねている。


 悪意。


 あるいは、それに近い“何か”。


 それを覆い隠すために、さらに別の感情を一枚、また一枚と重ねていくような――


 コートを何重にも着込むかのような、歪な気配。


 それは笑顔の形をしているのに、温度だけが欠けていた。


 ただそこにあるのは、観察と計算と、そして静かな圧。


 じわりと、胸の奥に冷たいものが落ちる。


 私は無意識のうちに、姿勢を正していた。


 礼儀のためではない。


 本能がそうさせていた。


 ――この人たちは、ただの来客ではない。


 その直感だけが、はっきりと警鐘を鳴らしていた。


 気配が、わずかに変わる。


 私の周囲に立つ騎士たちが、それを敏感に察知したのがわかった。


 一歩、また一歩と。


 距離が詰まる。


 守るための動きではなく、“いつでも止められる位置”へと滑り込むような配置。


 会場の外縁にいた別の騎士たちも、視線を交わしながら静かにこちらへ寄ってくる。


 音はない。


 だが確かに、空気だけが重くなっていく。


 夜会の華やかさとは切り離された、小さな異物。


 その中心にいるのが――あの二人だった。


「おや?」


 エルンスト男爵が、まるで旧友にでも会ったかのような軽さで口を開く。


 だがその声は、妙に滑らかすぎた。


「エリシア。久しぶりだな」


 わずかな間。


 空気が止まる。


「元気にしているか?」


 その一言は、挨拶の形をしていながら――


 温度だけが、綺麗に削ぎ落とされていた。


(絶対最初から気づいていたよね……)


 私は表情を崩さないまま、内側だけで思考を巡らせる。


(やっぱり、エリシア狙いか)


 確信に近い感覚だった。


 偶然ではない。


 たまたまの再会でもない。


 この場に現れた時点で、既に目的は定まっている。


 エリシアの肩が、ほんのわずかに動いたのが見えた。


 呼吸が浅い。


 それだけで十分だった。


 ――知っている側の反応だ。


 クラウゼル男爵は、相変わらず柔らかい笑みを浮かべたまま、続ける。


 その視線だけが、静かにエリシアへ固定されている。


 逃がさない、とでも言うように。


 私はゆっくりと一度だけ息を吐いた。


 夜会の喧騒は、すでに遠い。


 ここだけが、別の場所になっていた。


「お……お久しぶりです……クラウゼル男爵」


 エリシアの声は、わずかに揺れていた。


 だが、それを責めるような空気はどこにもない。


 むしろその揺らぎを見逃さないために、男爵はそこに立っているようだった。


「随分他人行儀だな」


 穏やかな声。


 しかし、その言葉の内容だけが、やけに重い。


「私たちはお前の親じゃないか」


 一瞬。


 本当に一瞬だけ、場の空気が止まった。


 音が消えたわけではない。


 それでも、意味だけがそこから切り離されたような感覚。


 エリシアの肩が、かすかに強張る。


 私はその横顔を見ながら、ゆっくりと理解する。


(目的はエリシアを連れ戻すための接触――ということで間違いなさそうね)


 だが、それだけでは終わらない気がしていた。


 この言い方は、単なる再会の挨拶ではない。


 “所有”という概念を、当然のように会話へ混ぜ込んでいる。


 それが、じわりと背筋に冷たいものを走らせた。


 これは比喩でも冗談でもない。


 関係性そのものを、最初から固定された事実として扱う言い方だ。


 マルグリット夫人が、ふっと微笑む。


 優しいはずの形をしているのに、温度はない。


「そうですわよ、エリシア」


 静かな声。


「そんなに距離を取る必要はありませんのに」


 その言葉は、慰めのようでいて――


 逃げ道を、丁寧に、順番に塞いでいく響きを持っていた。


 まるで、最初から“戻ること”しか選択肢がないと決めているかのように。


 その空気の中で、私は静かに呼吸を整える。


 ――違和感。


 さっきからずっと、同じ種類の違和感が積み重なっている。


 エリシアを「親」と呼ぶその言葉。

それはまるで、周囲に対しても自分たちこそが正当な関係者であると、既成事実として認識させるための響きを持っていた。


距離や意志といったものを挟み込む余地を、最初から許さない言い方だった。


 距離を詰めるのではなく、最初から距離など存在しないと言い切る態度。


 そして何より――


(この人たち、“選ぶ自由”を当然のように否定している)


 ふと、過去の記憶がよぎる。


 この世界では珍しくない話だ。


 家の方針、期待、役割。


 それに従うことが“正しい在り方”とされることは多い。


 けれど。


 それでも。


 線引きはある。


 越えてはいけない領域があるはずだ。


 私はゆっくりと視線を上げる。


 男爵の言葉が続く前に、その場に一瞬だけ別の沈黙が落ちた。


 それは偶然ではない。


 周囲の騎士たちが、ほんのわずかに重心を変えたせいだ。


 空気が、さらに一段階だけ張り詰める。


 その中で――私はようやく理解する。


(この人たち……“選択”そのものを理解していない)


 エリシアの肩が、ほんの少し揺れた。


 その小さな動きが見えた瞬間、私は一歩だけ踏み込みかけて――


 止めた。


 まだだ。


 ここで不用意に言葉を挟めば、この場の力関係が崩れる。


 代わりに、私は静かに男爵を見た。


 その視線の先で、エルンスト・フォン・クラウゼルは変わらぬ笑みを浮かべている。


 まるで当然のことを確認するように。


 そして――


 その口が、再び開こうとしていた。


 その口が、再び開こうとしていた。


 わずかに息を吸う、その一拍。


 ――その瞬間だった。


「……親、ですか」


 低い声が、割って入った。


 エリシアでもない。


 私でもない。


 背後でもなく、横でもなく。


 空気そのものの外側から落ちてきたような声。


 クラウゼル男爵の動きが、ほんのわずかに止まる。


 その一瞬の間に、周囲の騎士たちの気配がさらに鋭くなるのがわかった。


 声の主は、ゆっくりと一歩前に出る。


 夜会の光の中でも、やけに輪郭のはっきりした男だった。


 そのまま、淡々と続ける。


「親……と名乗るのは構いません」


 静かな声。


 だが、その内容だけが鋭い。


「しかし、自らが望む職務を授けられなかったという理由で、家計から外す判断を下した人物を、果たして“親”と定義することは可能でしょうか」


 一拍。


 会場の音が、ほんのわずかに遠のいたような錯覚。


「少なくとも、養育と庇護の責任という観点からは、一貫性を欠くように見受けられます」


 淡々とした指摘。


 感情はない。


 だが、逃げ道もない。


 ただ“事実としての矛盾”だけを突きつけてくる。


 エリシアの肩が、かすかに揺れた。


 クラウゼル男爵の笑みが、ほんのわずかに固まる。


「……ほう」


 それだけ。


 だが、その一言に温度が落ちる。


 マルグリット夫人の視線が、男へと移った。


 柔らかい笑みのまま。


 けれど、その奥だけが静かに測る色へと変わる。


 男はそれを気にする様子もなく、ただ結論だけを置くように言葉を締めた。


「したがって、その呼称は現時点において適切性を欠くものと判断します」


 静寂。


 夜会の喧騒が、さらに遠ざかる。


 代わりに残るのは、張り詰めた一本の線だけだった。


「それに現在はセレスティア伯爵家の養子でもあります」


 一拍。


 空気が、さらに硬くなる。


「格上の貴族に対する振る舞いとしても、問題があるように見受けられますな」


 その言葉は、穏やかだった。


 穏やかであるがゆえに、逃げ道がない。


 事実と形式だけを並べている。


 それなのに、相手の立ち位置だけを確実に崩しにいく言い方だった。


 クラウゼル男爵の視線が、ゆっくりとその男へ向く。


 笑みは崩れていない。


 だが――わずかに“温度のない部分”が増えている。


「……養子、か」


 低い声。


 確認するような響き。


 マルグリット夫人が、ふっと扇を口元に寄せた。


「まあ……それはそれは」


 柔らかい声。


 けれど、その目だけが静かに細められる。


 まるで、情報を一つずつ棚に並べ直すような視線。


 エリシアの肩が、さらに小さく揺れた。


 その瞬間、私はようやく気づく。


(この人、止めてるんじゃない)


(“通してる”)


 言葉を。


 論点を。


 そして――相手の反応を。


 すべてを一度受け止めて、整えている。


 クラウゼル男爵が、わずかに口角を上げた。


「なるほど」


 たったそれだけ。


 だが、その一言で場の空気が“次の局面”へと移る気配がした。


 そして男爵は、静かに言葉を続ける。


「では逆に聞くが」


 一拍。


 視線が、男へと正確に固定される。


「この国の法令――出生及び家族関係に関する規定第十四条において、親とは原則として生物学的な血縁者を指すものと定義されている」


 滑らかすぎる引用。


 記憶ではなく、前提としてそこにある知識。


「また、養子縁組の成立には、当該権利の放棄および正式な認可手続きが必要とされる」


 淡々とした声。


 だが、その一文一文が“場を裁く刃”のように積み上がっていく。


「すなわち、これらの要件が満たされていない限り、養子としての法的効力は限定的であり、関係性の主張には法的根拠を欠く可能性がある」


 そこで、一度だけ間が落ちた。


 そして――男爵の視線がわずかに細くなる。


「その点について、あなたの見解を伺いたい」


 一拍。


 次の瞬間。


「――なお」


 静かに、しかし確実に続ける。


「一介の騎士が、この場で貴族間の法解釈に口を挟むこと自体も、適切性を欠くのではないかね」


 空気が、ぴたりと止まった。


 夜会の喧騒はもうどこにもない。


 そこにあるのは――


 言葉だけで組み上げられた、冷たい盤上だった。


 空気が、ぴたりと止まった。


 夜会の喧騒はもうどこにもない。


 そこにあるのは――言葉だけで組み上げられた、冷たい盤上だった。


 男爵の視線が、静かに騎士へと向く。


 そこへ、別の声が割って入った。


「――補足いたします」


 低く、抑えた声。


 一人の騎士が一歩前へ出る。


 鎧の音すら、妙に遠い。


「出生及び家族関係に関する判例集・第二巻」


 一拍。


 そのまま、淡々と続ける。


「過去の裁定において、“家計からの完全な除外”が継続的かつ明示的に行われた場合、それをもって実質的な扶養義務の放棄と認定された事例が存在します」


 静寂。


 わずかに、空気の質が変わる。


 数字でも感情でもない。


 ただ“先例”という形をした現実がそこに置かれた。


「当該事例では、形式上の血縁関係が維持されていたとしても、社会的・経済的関与の断絶を理由に、親権的主張は制限されました」


 そこで一度言葉を切る。


 そして、視線を上げる。


「よって、先ほどの引用は一般論としては成立し得ますが、本件への適用は不適切である可能性が高いと考えられます」


 一拍。


 空気が、さらに静かになる。


 クラウゼル男爵の目が、ゆっくりと細くなった。


 だがまだ、笑みは崩れない。


 むしろ――その笑みの“形だけ”が、わずかに整えられたように見えた。


「ほう......少なくとも王城へ届け出ている家系図にはエリシアの名前は残っているはずだが?

陛下がいらっしゃるのであれば確認することもできるぞ?」


 一拍。


 空気が、さらに静かになる。


 クラウゼル男爵の目が、ゆっくりと細くなった。


 だがまだ、笑みは崩れない。


 むしろ――その笑みの“形だけ”が、わずかに整えられたように見えた。


「ほう……」


 低い声。


 まるで、こちらの論理を一度机の上に並べ直すような間。


「少なくとも王城へ届け出ている家系図には、エリシアの名は残っているはずだが?」


 一拍。


 視線が、わずかに周囲へ流れる。


 そして、ゆっくりと戻る。


「陛下がいらっしゃるのであれば、確認することもできるがね?」


 その瞬間。


 空気の“質”が変わった。


 ただの法や判例の話ではない。


 今度は――権限の話だ。


 誰が記録を保持し、誰がそれを正とするか。


 視線が自然と、会場の奥へと吸い寄せられる。


 そこには。


 いた。


 陛下。


 相変わらず優雅にグラスを持ったまま。


 そして――


 こちらを、最初から“全部わかっている目”で見ていた。


 楽しんでいる、というより。


 状況そのものを一段上から眺めているような視線。


 クラウゼル男爵の言葉を聞いた瞬間も、表情は崩れない。


 むしろ、わずかに目を細めた。


 ――知っている側の静けさだった。


 そして陛下は、ゆっくりと口元を上げる。


 笑っている。


 だが、それは先ほどまでの“面白がり”とは違う。


 確信を持った人間の笑みだ。


 こちらと視線が合うと、一瞬だけ小さく肩をすくめる。


(やるねぇ)とでも言いたげな表情。


 助ける気はない。


 だが、止める気もない。


 ただ“見届けている”。


 クラウゼル男爵は、その反応を当然のものとして受け取ったように続ける。


「確認できるならば――それで終わる話だ」


 その言葉に対し、陛下はようやく静かに口を開いた。


 楽しげでもなく、冷たくもなく。


 ただ事実を置くように。


「家系図の修正申請は、すでに承認されている」


 一拍。


 静寂。


 一歩前に出た騎士が、淡々と告げていた。


「エリシア・フォン・セレスティアの記載は、正式に更新済みです」


 一瞬、間が落ちる。


 そして続ける。


「申請人はエレノア様および陛下御自身」


 その瞬間、空気が“確定”した。


 理解が追いつくまでの沈黙だけが、場に残る。


 クラウゼル男爵の笑みが、ほんのわずかに揺れる。


 だが、それでも崩れない。


 崩れないまま、形だけを保っている。


「……ほう」


 低い声。


 ゆっくりと視線が騎士へ向く。


「それはまた随分と迅速な対応ですな」


 騎士は一切揺れずに答える。


「緊急案件として処理されています」


 事実だけを置く声だった。


 そこに感情はない。


 ただ、既に処理済みであるという事実だけが積み上がる。


 クラウゼル男爵は一度だけ、短く息を吐いた。


「なるほど」


 その言葉には、納得でも否定でもない。


 状況を再計算するための“間”だけがあった。


 そして――視線をゆっくりと上げる。


「では現在の関係性は、公式に更新されたものとして扱われている、ということかね」


 騎士は即答する。


「その通りです」


 一切の迷いもない。


 その瞬間、場の重心が完全に変わった。


 議論ではなくなった。


 解釈でもなくなった。


 残っているのはただ一つ。


 既に“そう定義されている現実”だけだった。


「では、それを証明する証文を提示して頂こう」


 一拍。


 静寂が、さらに一段深く沈む。


「戸籍法第三十四条――養子関係を証明する書類の提示を、今この場でお願いしたい」


 言葉は丁寧だった。


 だが、その実態は“検証の要求”ではなく“即時の裏付け要求”だった。


 空気がわずかに張り詰める。


 誰も動かない。


 次の瞬間。


「あと――」


 男爵の声が、静かに続いた。


 その一言で、場の温度がさらに下がる。


「セレスティア伯爵には、ひとつ法令違反がある」


 一拍。


 視線が一斉にエレノアへ向く。


 いや、正確には“セレスティア伯爵家の側”へ。


 言葉は軽い。


 しかし内容は重い。


 それは社交の話ではない。


 完全に、法務の領域だった。


クラウゼル男爵は笑みを崩さないまま、淡々と続ける。


「養子申請法第三条には、一定期間の居住実態、ならびに出生法にて定義される親権者への通知および承認が必要と明記されている」


 一拍。


 視線が、静かに場をなぞる。


「だが、我がクラウゼル男爵家にはその通知は一切届いていない」


 ゆっくりと続く。


「それどころか、居住実態も確認できない」


 空気がわずかに揺れる。


 しかし男爵の声は変わらない。


「つまり――」


 一拍。


「虚偽の申請により、陛下を欺いた可能性がある、ということになるが?」


 その瞬間、場の温度が完全に変わった。


 夜会の空気ではない。


 すでに社交でもない。


 法と権限の衝突だけが残っていた。


 騎士たちの間に、わずかな緊張が走る。


 そしてその中で――


 一人の騎士が静かに動いた。


 鎧の音を極力殺しながら、視線を外すことなく後退する。


 そのまま、壁際へ。


 さらに数歩。


 会場の外縁へ。


 誰にも悟られないように――しかし確実に。


 陛下のいる方向へと向かっていく。


(このままでは埒が明かない)


 そう判断した動きだった。


 会場の中心では、クラウゼル男爵がなおも笑みを浮かべている。


 対する沈黙の側は、まだ答えを持たない。


 だがその沈黙は、もはや“空白”ではなかった。


 誰が最後に盤面へ戻るのか――それだけが、静かに待たれていた。


「繰り返しになるが」


 一拍。


 その声は、先ほどと同じ騎士のものだった。


 だが今度は、さらに一段だけ冷静だった。


「申請人はエレノア様および陛下御自身だ」


 視線がわずかに動く。


 しかし騎士は止まらない。


「また、例外規定が存在する」


 一拍。


「当該規定により、陛下御自身が申請人に含まれる場合、あるいは陛下が“緊急を要する案件”と認定した場合」


 淡々とした声。


 それは感情ではなく条文の読み上げだった。


「通知義務および居住実態確認要件は免除される」


 静寂。


 一瞬だけ、場の空気が“固まる”。


 クラウゼル男爵の笑みが、ほんのわずかに止まった。


 だが崩れない。


 崩れないまま、次の一手を探している。


 そのときだった。


 会場の外縁が、わずかに動く。


 先ほど離脱した騎士が戻ってくる。


 そして、その背後に――


 ゆっくりと現れる影があった。


 陛下。


 今度は“完全に呼ばれた側”として。


 軽い足取り。


 しかしその視線だけは、場の中心を正確に捉えている。


 そして一言。


「……楽しい夜会で一体何があった」


 静かな声。


 だが、その一言だけで、場の空気が“整理”される。


 陛下がゆっくりと周囲を見渡した。


 クラウゼル男爵。


 エリシア。


 騎士たち。


 そして、微妙に視線を逸らす貴族たち。


 沈黙。


 誰も説明しない。


 できない、ではなく――今この瞬間に“誰が説明権を持つか”を測っている沈黙だった。


 陛下は小さく息を吐いた。


「……なるほど」


 一拍。


 それだけで、状況の“重心”が確定する。


 視線がクラウゼル男爵へ向く。


「君は」


 静かな声。


「この場で、養子申請の正当性に異議を唱えている、という理解でいいか?」


 男爵は笑みを崩さない。


「ええ、陛下」


 即答。


 丁寧。


 だが一切の退きはない。


「形式上の整合性に疑義があるため、確認をお願いしているだけです」


 一拍。


 陛下は軽く片眉を上げる。


「確認、ね」


 短い言葉。


 それだけで、空気がさらに一段変わる。


 そして、陛下は視線を横に滑らせた。


 私を見る。


 その目は、いつもの“面白がり”でも“観察者”でもない。


 状況を正しく把握する側の目だった。


「エレノア嬢」


「はい」


 即答。


 声は揺れていない。


 陛下は一拍置いてから、静かに言った。


「説明してもらおうか」


その言葉で、場の空気が“裁定”に変わる。


私が口を開きかけた、その瞬間。


陛下の視線が、別の一点に落ちた。


クラウゼル男爵。


「その前に」


静かな声。


だが、温度が一段下がる。


「一点、確認がある」


一拍。


「居住実態のない者を、王城へ届け出る家系図に記載したまま保持していた場合――」


陛下はそこで言葉を切る。


そして、ゆっくりと続けた。


「それはそれで、別件の法令違反だな」


空気が止まる。


「虚偽記載及び戸籍管理義務違反」


淡々とした列挙。


「場合によっては、拘束対象にもなり得る」


その瞬間、場の重心が一気に傾いた。


騎士たちの手がわずかに動く。


しかし誰も踏み込まない。


まだ“命令”ではないからだ。


陛下は一歩だけ前に出る。


クラウゼル男爵を、真正面から見る。


「つまり君たちは今、この場で二つの問題を抱えている」


一拍。


「養子申請の正当性と、戸籍管理の不備だ」


静かな声。


だが、逃げ道を一つずつ潰していく声音だった。


「場合によっては――」


陛下の視線が鋭くなる。


「この場で拘束することもできるが?」


その一言で、空気が完全に凍る。


クラウゼル男爵は、なおも笑みを浮かべていた。


だが、その笑みは初めて“固定”されたように見えた。


そして――


その沈黙の中で、エリシアが一歩前に出る。


会場の視線が一斉に集まる。


彼女はまっすぐクラウゼル男爵夫妻を見て、はっきりと言った。


「私はクラウゼルの人間ではありません」


一拍。


「セレスティア伯爵家の人間です」


静かな声。


だが揺れはない。


そして、もう一度だけ言葉を重ねる。


「ですので、立場をわきまえてください」


さらに一拍。


そして、決定的に線を引いた。


「あと――」


エリシアは視線を外さず、淡々と続ける。


「あなた方を“親”だと思ったことは一度もありません」


 その瞬間。


 夜会の空気は、完全に書き換わった。


 ざわり、と誰かが息を呑む気配が広がる。


 だがそれすらも、エリシアの言葉の余韻の中に吸い込まれていくようだった。


 クラウゼル男爵の笑みが、ほんのわずかに――止まる。


 それは崩れたわけではない。


 ただ、これまで“当然”として成立していた形が、初めて外側から否定された瞬間だった。


 マルグリット夫人の扇が、静かに止まる。


 空気だけが、やけに重い。


 沈黙の中で、陛下が小さく息を吐いた。


「……なるほど」


 一拍。


 そして、ゆっくりと視線をクラウゼル男爵へ戻す。


「今の発言は、本人の意思表明として正式に記録してよいな」


 エリシアは一切視線を逸らさない。


「はい」


 即答だった。


 そこに迷いはない。


 その一言で、状況は完全に“固定”される。


 陛下は頷いた。


「ならば問題ない」


 一拍。


 視線が鋭くなる。


「これにより、当該人物はクラウゼル家との親族関係を明確に否定した」


 淡々とした宣言。


 だが意味は重い。


 関係の“継続”は、もう成立しない。


 残るのは記録と事実だけだった。


 クラウゼル男爵が、初めて小さく息を吐く。


 笑みはまだ残っている。


 しかし、それはもはや“余裕”ではなかった。


 ただの癖のような形だけが、顔に貼り付いている。


「……なるほど」


 静かな声。


「ここまで明確に意思表示をされるとは、想定外でしたな」


 その言葉に対し、陛下は冷静に返す。


「想定していなかったのは、そちらの方だろう」


 一拍。


「この場は終わりだ」


 短く、しかし絶対的な言葉。


 その瞬間、騎士たちの空気が一斉に変わる。


 “制止”ではない。


 “確定後の処理”の気配だった。


 クラウゼル男爵はゆっくりと周囲を見渡す。


 逃げ道を探す視線ではない。


 状況を最後まで確認するための視線。


 そして――軽く目を閉じた。


 次の瞬間。


 ふっと、いつもの笑みが戻る。


 だがそれは、最初のものとは違っていた。


「……承知しました」


 一拍。


「本日のところは、引き下がりましょう」


 静かな声。


 しかし“敗北”という言葉は一切使わない。


 代わりに、ゆっくりと一礼する。


 マルグリット夫人も、それに合わせて軽く礼を取る。


 だが去り際、その視線だけが一瞬エリシアに止まった。


 温度のない、計算の視線。


 そして――


 そのまま二人は踵を返す。


 騎士たちが静かに道を開ける。


 足音だけが遠ざかっていく。


 誰も止めない。


 止める必要がないからだ。


 完全に“終わった側”の歩き方だった。


 その背が見えなくなるまで、誰も言葉を発さない。


 やがて、陛下が小さく肩を回した。


「……夜会が長くなるな」


 軽い一言。


 だがその場の空気は、すでに元に戻っている。


 騎士たちも一歩下がり、緊張を解く。


 そして静かに、日常へ戻っていく。


 ただ一つだけ。


 さっきまでの“中心”にいたエリシアは、もう揺れていなかった。


 私はその横顔を見ながら、ようやく理解する。


(終わったんじゃない)


(終わらせたんだ)


 エリシアは静かに息を吐く。


 そして、まっすぐ前を見たまま言った。


「私はセレスティアの人間です」


 一拍。


「それだけです」


 夜会は、何事もなかったように再び音を取り戻していく。


 けれどもう、さっきまでの夜会とは違っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。