135話 華やぐ夜会、迫りくる影②
三十分後――
「……やっと……終わった……」
私は静かに、魂の抜けた声を漏らした。
長かった。
本当に長かった。
体感では三時間くらいあった。
実際にはまだ三十分程度らしい。
信じたくない。
目の前には、ようやく途切れた挨拶の列。
さっきまであれほどいた人の波が、ほんの少しだけ落ち着いている。
生還した。
たぶん。
まだ完全ではないけれど。
隣でルーカスお兄様が、同じように遠い目をしていた。
「……俺も疲れた」
「同志ですね」
「婚約話を十回は振られた」
「私はもう数えるのをやめました」
精神衛生上、その方が良い。
アメリアお姉さまは優雅にグラスを傾けながら、涼しい顔をしている。
「まだ前半よ?」
「その情報はいりません」
即答だった。
聞きたくなかった。
非常に。
エリシアが小さく笑う。
「でも、ちゃんと乗り切れましたわ」
「乗り切ったというより、生き延びた感覚です」
「似たようなものですわ」
違う気がする。
かなり。
その時だった。
ふわり、と音楽が変わる。
先ほどまでの穏やかな演奏とは違う、より華やかで、格式を感じさせる旋律。
会場の空気がまた少し変わった。
貴族たちが自然と中央へ視線を向ける。
「……あ」
私は嫌な予感しかしなかった。
そして、その予感は大体当たる。
アメリアお姉さまが、にこやかに告げた。
「ダンスの時間ね」
「帰っていいですか」
「駄目よ」
知ってた。
もう知ってた。
ルーカスお兄様も静かに顔をしかめる。
「毎回思うが、この文化なくならないか?」
「全面的に賛成です」
固い握手を交わしたい。
だが現実は非情だった。
すでに何人かの貴族たちが、こちらを見ている。
特に。
ものすごくこちらを。
見ている。
狙っている。
怖い。
非常に怖い。
私はそっと視線を逸らした。
見なかったことにしたい。
だが、その願いも虚しく。
一人の若い貴族が、意を決したようにこちらへ歩み寄ってくる。
早い。
まだ心の準備ができていない。
「エレノア様、もしよろしければ――」
「ごめんなさい」
反射だった。
あまりにも自然に出た。
若い貴族が固まる。
しまった。
早すぎた。
せめて最後まで聞くべきだったかもしれない。
いや、たぶん聞いていても結果は同じだった。
私は慌てて小さく頭を下げる。
「ダンスはあまり得意ではないのと……少し体調が優れないので……」
半分は本当だった。
いや、むしろ全部本当かもしれない。
この社交界という空間にいる時点で、かなり体調は悪い。
主に精神面が。
若い貴族は一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……それは失礼いたしました。どうかご無理なさらず」
「ありがとうございます」
綺麗に撤退していった。
優しい人だった。
申し訳ない。
でも無理だった。
本当に。
私はそっと胸を撫で下ろす。
生きた。
なんとか生き延びた。
隣ではルーカスお兄様が、露骨に顔を逸らしていた。
肩が震えている。
笑っている。
絶対に笑っている。
「……お兄様」
「いや、ちゃんと取り繕ったなと思って」
「最初の“ごめんなさい”がすべてを台無しにしてますけどね」
「そこが面白かった」
ひどい。
本当にひどい。
――だが。
それで終わるほど、社交界は甘くなかった。
「エレノア様、ぜひ一曲――」
「申し訳ありません……」
「少しだけでも――」
「ごめんなさい……」
「では、次の機会に――」
「その、たぶん、きっと……」
断る。
ひたすら断る。
丁寧に。
できるだけ角が立たないように。
でも確実に。
結果。
私の周囲には、なんとも言えないしょんぼりした空気が漂い始めていた。
わかる。
わかるけれど。
私だってしょんぼりしている。
むしろ最初からずっとしょんぼりしている。
お互い様だった。
去っていく青年貴族たちの背中が、どこか寂しげに見える。
申し訳ない。
本当に申し訳ない。
でも踊れないものは踊れない。
精神的にも。
技術的にも。
非常に。
私は小さくグラスを持ち直し、そっと視線を逸らした。
見てはいけない。
あれは見てはいけないやつだ。
隣でルーカスお兄様が、完全に面白がっていた。
「すごいな。片っ端から撃沈してる」
「好きでしてるわけじゃありません」
「会場の男性陣の士気が目に見えて下がってるぞ」
「知りたくなかったです」
非常に。
知りたくなかった。
向かいではアメリアお姉さまが、優雅に紅茶を口にしながら小さくため息を吐く。
「もう少し夢を見せてあげてもいいんじゃないかしら」
「その結果、踊ることになるので却下です」
「即答ね」
「当然です」
そこに妥協はなかった。
エリシアは完全に楽しそうだった。
「ここまで綺麗に断られると、逆に皆様燃えてしまいそうですわね」
「やめてください」
それは本当にやめてほしい。
切実に。
すると案の定、また一人。
今度はかなり気合いの入った様子の青年が、意を決してこちらへ歩いてくる。
目が真剣だ。
ものすごく真剣だ。
なぜそんな決戦みたいな空気なのか。
私はまだ何もしていない。
「エレノア様……!」
来た。
完全に来た。
「どうか、どうか一曲だけでも――!」
すごい熱量だった。
圧がすごい。
私は一瞬だけ目を逸らし、そして静かに、申し訳なさのすべてを込めて言った。
「……ごめんなさい」
青年の肩が、目に見えて落ちた。
しょんぼり、という言葉がそのまま人になったみたいだった。
「……ですよね」
そう言って去っていく背中が、やたらと哀愁を帯びていた。
罪悪感がすごい。
非常にすごい。
私は思わず小さく呟いた。
「……私、悪いことしてます?」
「してる」
「してないわ」
ルーカスお兄様とアメリアお姉さまの返答が同時に来た。
どっちなのか。
判断に困る。
エリシアはもう完全に笑いを堪えていた。
「大人気ですわね」
「嬉しくないです」
今日何度目かわからない台詞だった。
本当に。
心の底から。
――そして。
その空気は、思わぬ方向へと変化した。
「……ねえ」
「もしかして」
「エレノア様って……」
ひそひそ。
ひそひそ。
妙に意味深な視線。
今度は女性陣からだった。
令嬢たちが、こちらを見ている。
ものすごく見ている。
さっきまでとは種類の違う圧。
嫌な予感しかしない。
私はそっとルーカスお兄様を見る。
完全に面白がっていた。
助ける気がない。
ひどい。
「……なんですか、その顔」
「いや、お前」
ルーカスお兄様はグラスを揺らしながら、にやりと笑った。
「片っ端から男を振りすぎた結果だな」
「嫌な言い方をしないでください」
「たぶん今、会場では“エレノア様は女性がお好きなのでは”説が流れてる」
「やめてください」
即答だった。
非常にやめてほしい。
アメリアお姉さまが扇の向こうで肩を震わせている。
笑っている。
絶対に笑っている。
「でも確かに、そう見えなくもないわね」
「見えないでください」
「エリシアと仲も良いものね」
「そこを根拠にしないでください」
風評被害だった。
完全に。
だが、その時。
ふと視線を感じて、私はそちらを向いた。
「……陛下」
少し離れた場所。
陛下がこちらを見ていた。
しかも。
ものすごく楽しそうに。
完全に面白がっている顔だった。
非常に。
ひどい。
私の周囲を取り囲む令嬢たち。
そして、明らかに困り果てている私。
その全部を見て。
陛下は口元を押さえ、肩を震わせていた。
笑っている。
絶対に笑っている。
かなり笑っている。
助ける気は、たぶん一切ない。
私は無言で視線を送った。
助けてください。
本当に。
切実に。
すると陛下は、こちらに気づいて。
にこり。
とても良い笑顔。
そして。
また、ぐっ!
親指を立てた。
違う。
だから違う。
応援はいらない。
救援をください。
私は静かに視線を逸らした。
だが、現実は非情である。
一人の令嬢が、意を決したようにこちらへ歩み寄ってきた。
待ってほしい。
本当に待ってほしい。
私はまだ心の整理ができていない。
「エレノア様」
「……はい」
「もし、よろしければ……今夜、ぜひお話を――」
近い。
距離が近い。
笑顔が眩しい。
しかもすごく綺麗な人だった。
圧がすごい。
私は思わず一歩引いた。
「ご、ごめんなさい」
反射だった。
完全に。
令嬢が固まる。
私も固まる。
またやった。
学習しない。
本当にしない。
「ち、違うんです、その、そういう意味ではなくて……!」
慌てて取り繕う。
だが、何をどう言えば正解なのかわからない。
完全に詰んでいた。
「その……ダンスも、お話も、今日はちょっと、その……」
しどろもどろだった。
令嬢は一瞬きょとんとして――
そして、ふっと柔らかく笑った。
「……ふふ。可愛らしい方なんですね」
「え」
「失礼いたしました。またの機会に」
優雅に礼をして去っていく。
強い。
圧倒的に強い。
私はその背中を見送りながら、静かに膝から崩れ落ちそうになった。
「無理です」
「知ってる」
ルーカスお兄様の返事が早い。
「完全に面白いことになってきたわね」
アメリアお姉さまは楽しそうだった。
ひどい。
「大人気ですわ」
エリシアまで笑っている。
「嬉しくないです!」
もはや本日何度目かわからない叫びだった。
だが。
それを合図にしたかのように。
今度は。
本当に。
女性陣が。
押し寄せてきた。
「エレノア様、ぜひお茶をご一緒に」
「今度、うちのサロンへ――」
「わたくしもぜひ親しく――」
「その髪飾り、とても素敵ですわね」
「お肌も綺麗で……」
近い。
近い近い近い。
距離感が近い。
しかも全員強い。
社交力が。
圧が。
眩しさが。
全部強い。
――その中に。
ひときわ圧の強い人がいた。
明らかに。
明らかに目が違う。
熱量が違う。
距離感が違う。
危険信号が全力で鳴っている。
深紅のドレスを纏った、年上の令嬢。
美人。
とても美人。
なのに怖い。
ものすごく怖い。
彼女はまっすぐ私の前まで来ると、うっとりしたように目を細めた。
「……ずっと、お会いしたかったんです」
「はい?」
「男性を寄せつけず、それでいてこの可憐さ……」
待ってください。
嫌な予感しかしません。
「まるで運命みたい」
「違います」
反射だった。
食い気味だった。
令嬢は頬に手を当て、さらに一歩近づく。
「強がらなくても大丈夫ですわ。
わたくし、理解がありますの」
「ないです」
「きっと私たち、分かり合えるはず――」
「分かり合えません」
即答だった。
ものすごい速度だった。
周囲の令嬢たちがざわつく。
ルーカスお兄様は完全に顔を背けている。
肩が震えている。
笑っている。
絶対に笑っている。
そして視界の端では。
陛下がついに顔を逸らしていた。
肩が震えている。
たぶん。
完全に爆笑している。
見なくてもわかる。
ひどい。
国家元首がひどい。
「エレノア様……そんな照れなくても」
「照れてません!」
「その必死なところも素敵ですわ」
「やめてください!」
もうだめだった。
完全に会話が成立していない。
私は完全に包囲されながら、静かに悟った。
方向が変わっただけで、地獄は終わっていなかった。
むしろ。
新しい地獄が始まっただけだった。
その後も、令嬢たちからの猛攻は続いた。
「ぜひ今度、お茶会を」
「王都でも評判になっておりますのよ」
「今度おすすめの香油を――」
「その本、わたくしも読んでおりますの」
次から次へと会話が飛んでくる。
しかも全員、距離感が近い。
物理的にも。
精神的にも。
私は笑顔を貼り付けたまま、完全に処理落ちしていた。
「……はい」
「そうなんですね」
「ありがとうございます」
「ええ……」
またしても自動応答モードだった。
たぶん今の私は、会話する高級置物である。
ただし精神は瀕死。
そんな中。
一人の年配の侯爵夫人が、くすりと笑った。
「ふふ、皆さま。あまり困らせてはいけませんわ」
柔らかい声音。
だが、その一言で周囲の空気が少し和らぐ。
さすが年長者。
圧の種類が違う。
「エレノア様は、ただ真面目で慎重なお方なのでしょう。すぐに“そういう意味”に結びつけるのは、少々気の毒ですわ」
「……え」
令嬢たちが、はっとしたように顔を見合わせた。
「た、確かに……」
「そうですわよね」
「わたくしたち、少し盛り上がりすぎて……」
ざわざわ。
ざわざわ。
……あれ?
もしかして。
誤解、解けた?
私は信じられない気持ちでその光景を見つめた。
やがて、一人の令嬢が申し訳なさそうに頭を下げる。
「失礼いたしました、エレノア様」
「い、いえ……」
「少し、勘違いしてしまって」
「本当に申し訳なく……」
「…………」
解けた。
完全に解けた。
やっと。
ようやく。
長かった。
ものすごく長かった。
私は静かに天を仰いだ。
(終わった……)
長い戦いだった。
勝ったのか負けたのかはわからない。
たぶん負けている。
でも、とりあえず生還はした。
それだけで十分だった。
隣ではルーカスお兄様が、完全に楽しそうだった。
「いやぁ、面白かったな」
「私は全然面白くありませんでした」
「陛下なんてずっと笑ってたぞ」
反射的にそちらを見る。
少し離れた位置。
陛下がグラスを片手に、まだ肩を震わせていた。
完全に笑っていた。
しかもこちらを見るたびに、また思い出したように笑っている。
ひどい。
非常にひどい。
国家元首としてどうなんですか。
助けを求めた相手なのに。
アメリアお姉さままで扇の向こうで笑っている。
「良い経験になったじゃない」
「二度と経験したくありません」
「でも人気者なのは事実よ?」
「返品したいです」
心の底からそう思った。
エリシアも優雅に頷く。
「今日は本当に大活躍でしたわ」
「活躍の定義を見直してください」
完全に被害者だった。
私は深く、深くため息を吐いた。
もう嫌だ。
本当に嫌だ。
今すぐ帰りたい。
研究室に籠もりたい。
ポーションを作りたい。
誰とも会話したくない。
そう思いながら、少しだけ人の流れが落ち着いた会場を眺める。
ようやく。
ようやく休める。
そう思った、その時だった。
「――これはこれは、エレノア様」
低く、粘つくような声。
その瞬間。
背筋が、ぞくりとした。
聞き覚えはない。
初対面だ。
それなのに。
生理的に、本能的に。
――嫌だ、と感じた。
私はゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、豪奢な衣装に身を包んだ中年の男。
その隣には、華やかな装いの夫人。
二人とも、完璧な笑顔を浮かべている。
けれど。
その目が、まったく笑っていなかった。
値踏みするような視線。
計算されたような立ち振る舞い。
そして何より――
空気が、冷たい。
まるで、綺麗に磨かれた刃物みたいだった。
笑っているのに、温度がない。
感情がない。
ただ、必要だからそうしているだけ。
そんな気配。
私は無意識に、背筋を伸ばしていた。
この人たちは危ない。
理由なんて説明できない。
でも、わかる。
こういう相手には、絶対に気を抜いてはいけない。
男は、にこやかに一礼した。
「はじめまして。エルンスト・フォン・クラウゼル男爵と申します」
夫人も優雅に裾を摘まむ。
「妻のマルグリットでございますわ」
やはり。
クラウゼル男爵夫妻。
名前を聞いた瞬間、胸の奥に嫌な重さが落ちた。
エリシアの元親族がこうして眼の前に現れた。
エリシアも、先ほどまでの柔らかな雰囲気は完全に消えていた。
表情は静かに強張り、わずかに青ざめている。
その反応だけで十分だった。
――やはり、この人たちは危険だ。
できれば関わりたくない。
心の底から。
でも、ここは夜会だ。
逃げることはできない。
私は静かに息を整え、完璧に表情を作る。
笑顔。
礼儀。
距離感。
一切、崩さない。
「……エレノア・フォン・セレスティアです」
静かに礼を返す。
自分でも驚くほど、声は冷たかった。
感情を乗せない。
必要以上に踏み込ませない。
そのまま、エルンスト男爵は楽しそうに目を細めた。
「はじめまして。ご活躍は聞いております」
にこり。
完璧な笑顔。
なのに。
まるで温度がない。
隣のマルグリット夫人もまた、優雅に微笑んでいる。
その笑みの奥にあるものを、決して見せないまま。
私は静かに笑みを返しながら、心の中では警鐘が鳴り続けていた。
危険。
非常に危険。
社交疲れだとか。
挨拶地獄だとか。
そんなものが、一瞬で吹き飛ぶくらいには。
私は静かに悟った。
――今夜、本当に警戒すべき相手が来た。




