閑話 それでも財布は軽くならない
閑話だけど長くなっちゃったw
魔道具店から店を出ると鮮やかなオレンジ色が空を染めていた。
王都の街並みが、夕暮れの光にゆっくりと包まれていく。
昼間の賑わいとはまた違う、少しだけ穏やかな空気。
けれど――
「……全然穏やかじゃない」
私の心は、まったく穏やかではなかった。
五千万ルミナ。
使った。
確かに使った。
かなり使った。
なのに。
『あと六千万ルミナですね』
――あの笑顔が脳裏から離れない。
「顔が死んでます」
隣を歩くメルが、淡々と言った。
「生きてるよ……たぶん」
「たぶんって言いました」
「現実を直視したくないだけです」
本当にそうだった。
大金を使ったはずなのに、まったく達成感がない。
むしろ、“まだある”という事実だけが重い。
「エレノア様」
後ろから、リリアが小さく声をかけてきた。
「この後食材と日用品の買い出しを行いたいのですがよろしいですか?」
「買い出し?」
振り返ると、リリアはこくりと頷いた。
「はい、元々買い出しのついでに市場に来ていたので
お肉ですとかお野菜ですとか食材全般を買いたくて」
「……あ」
そうだった。
完全に忘れていた。
宝石店。
服飾雑貨店。
魔道具素材一式。
あまりにも濃すぎて、最初の目的が綺麗に吹き飛んでいた。
「……そういえば、そうだった」
「忘れてましたね?」
メルが静かに言う。
「忘れてたね」
素直に認めるしかなかった。
「まったくエレノア様は……」
そう言いながら、前を歩くフィリアさんが小さくため息をつく。
「どんだけ早く帰りたいんですか……」
その声は、どこか呆れているような響きだった。
「だって帰りたいし……」
思わず本音が漏れる。
市場は賑やかで楽しい――
けれど、人が多すぎて疲れる。
どこを見ても人、人、人。
活気があるのは分かるし、見ていて面白い。
でも、その分だけ気を張る。
かなり張る。
しかも護衛の人たちも、常に私たちのすぐ近くにいる。
……普通ではない。
分かっている。
分かっているけれど、最近はもうそれが日常になってしまっていた。
屋敷の外に行くたびに自然と周囲に人が増える。
視線も増える。
落ち着くわけがない。
静かにふらっと歩く、なんてことはまずできない。
自然と、出かける機会は減っていった。
バレンシアへ派遣されて以降は、特に。
仕事が増えたのもあるし。
そもそも、必要なものは大体屋敷とアトリエで完結してしまう。
――わざわざ外に出る理由があまりない。
「元々そんなに出歩く方じゃないですしね」
メルがさらりと言った。
「否定できない」
むしろ、かなり正しい。
休日に何をするかと言われれば、屋敷で本を読むか実験室に籠る。
静か。
落ち着く。
最高。
「完全に研究者気質ですね」
リリアが少しだけ苦笑する。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてます」
それならよかった。
私たちは馬車へと乗り込み、食品や日用品を多く扱うエリアへと向かった。
市場とはいえ、魔道具関連の物を扱う区画はメインの通りから少し奥まった場所にある。
そのため、馬車はゆっくりと王都の景色を横切っていった。
石畳を進む車輪の音。
窓の外を流れていく街並み。
夕暮れの色を帯びた建物たちが、昼間とはまた違う表情を見せている。
大通りに出ると、お昼頃とは空気が変わっていた。
人はむしろ増えている。
けれど、その賑わいは昼のそれとは少し違う。
買い物を楽しむ人たちというより――
帰り道の人。
仕事を終えた職人。
店じまいの準備を始める商人。
そんな、どこか一日の終わりを感じさせる人たちが多かった。
「なんだか、少し落ち着きますね」
リリアが窓の外を見ながら、ぽつりと言う。
「分かる」
私は小さく頷いた。
昼の市場の勢いも嫌いじゃない。
でも、この時間の方が好きだった。
騒がしすぎず。
でも静かすぎない。
街がゆっくりと夜へ向かっていく、この感じは嫌いじゃない。
「帰る人を見ると、自分も帰りたくなります」
思わず本音が漏れた。
「まだ帰りません」
フィリアさんが即答した。
「知ってる」
知ってるけど、言いたかっただけである。
少しして、食品や日用品を扱うエリアに到着し、馬車の扉が開かれた。
昔こそ、目的の店の前に馬車を横付けして買い物をする者も多かったらしい。
けれど二年ほど前。
馬車同士の接触事故や通行妨害、歩行者との揉め事が相次ぎ――市場全体でかなり大きな問題になった。
さらに、屋台や露店の数も年々増え、通りそのものが慢性的に混雑していたこともあって。
王都では新たに、市場周辺での馬車の乗り入れを制限する法が定められた。
その結果、市場の中央付近には大規模な待機スペースが整備され、馬車はそこで乗り降りすることが義務付けられている。
そこから先は徒歩。
それが今の王都では当たり前になっていた。
「こういうところだけ妙に現実的ですよね」
メルが周囲を見回しながら呟く。
「貴族の都合だけで回る場所じゃないってことですね」
フィリアさんが静かに答えた。
「むしろその方が助かります」
私は素直に頷いた。
あの狭い通りに馬車が何台も入ってきたら、普通に危ない。
万が一、馬車に轢かれでもしたら普通に大怪我をする。
ポーションで治るとはいえ、痛いものは痛い。
できれば遠慮したい。
「エレノア様の場合、“治るからいい”で突っ込みかねませんからね」
メルが真顔で言った。
「そこまで雑じゃないよ?」
「少し考えましたね?」
「……否定はしない」
少しだけ。
本当に少しだけ。
「してください」
フィリアさんが静かに言った。
最近この人、本当に容赦がない。
そんなことを話しながら、私たちはまず食材を扱う通りへ向かった。
夕方ということもあって、人の流れはかなり多い。
店先には新鮮な野菜や果物が並び。
肉屋からは香ばしい匂いが漂い。
魚屋では威勢のいい声が飛び交っている。
市場、という感じがして嫌いじゃない。
「まずはお肉ですね」
リリアが慣れた様子で言う。
「このあたりのお店は品質が安定しているので」
「さすが」
「毎日使いますから」
それは確かにそうだ。
食材の質は、日々の満足度に直結する。
かなり大事だ。
私たちは評判の良い肉屋へと足を向けた。
並んでいるのは見事な肉の塊ばかりで、見ているだけでも分かる。
高い。
かなり高い。
「……美味しそう」
思わず本音が漏れた。
「でしょう?」
フィリアさんが、にこりと笑う。
その笑顔が少し怖い。
「エレノア様」
一拍。
「そろそろ、日常の食事や日用品もグレードを上げましょう」
「……はい?」
隣で、リリアがぴたりと止まった。
「はい?」
完全に同じ声だった。
「今までは必要以上に質素すぎました」
フィリアさんは冷静だった。
「今の収入と生活水準を考えれば、もっと良いものを使って問題ありません」
「いや、でも」
「問題ありません」
即答だった。
強い。
かなり強い。
「例えばこちら」
店員さんが見せてくれたのは、見た目からして格が違う肉だった。
霜降り。
圧倒的霜降り。
見ただけで高いと分かる。
「高級すぎません?」
「ちょうどいいです」
「ちょうどよくない」
「いいえ」
一拍。
「今までが安すぎました」
反論が難しい。
かなり難しい。
「これをお願いします」
「ありがとうございます!」
話が早かった。
早すぎた。
「あと、バターと牛乳、それから卵も質の良いものを」
「承知しました!」
「待って」
私は小さく手を上げた。
「なんか一気に豪華になってない?」
「なっています」
フィリアさんは微笑んだ。
「今後はそうしますので」
「決定事項なんだ……」
逃げ道がなかった。
かなりなかった。
一方で、野菜売り場では。
「こちらは普通ので」
リリアがあっさり言った。
「そこは普通なんだ!?」
「野菜は鮮度が大事ですので」
なるほど。
妙に納得してしまった。
「無駄に高級品にする必要はありません」
「その線引きがすごく現実的」
「生活ですから」
強い。
本当に強い。
その後も。
石鹸。
布類。
消耗品。
日用品の買い出しは続き――
なぜかそちらも、少しずつ高級品へと置き換えられていった。
「このタオル、すごく肌触りが良いですね」
「でしょう?」
「高いですね」
「でしょう?」
「会話になってない」
思わず真顔で言ってしまった。
でも、フィリアさんはまったく動じない。
「大丈夫です」
一拍。
「必要経費です」
「その言葉、最近すごく便利に使ってません?」
「便利なので」
即答だった。
潔い。
かなり潔い。
結局。
お肉は高級品。
乳製品も高級品。
卵も高級品。
日用品も、じわじわと質の良いものへ。
ただし野菜だけは妙に現実的。
その線引きが逆に怖かった。
「……なんだろう」
私は買い物袋を見ながら、小さく呟く。
「今日一日で、自分の金銭感覚がどんどん壊れていく気がする」
「今さらでは?」
メルが静かに言った。
「巨大なアメジストを買った時点で、だいぶ壊れてます」
「それは言わない約束で」
あれは勢いだった。
完全に勢いだった。
認めたくはないけれど。
「でも」
リリアが、少しだけ遠い目をした。
「なんとなく、エレノア様の気持ちが分かりました」
「……え?」
思わずそちらを見る。
リリアは買ったばかりの高級バターを見つめながら、小さくため息をつく。
「お金が余っていると、“使わなきゃ”って周りから言われるんですね……」
一拍。
「しかも、自分の意思というより、半ば強制的に」
「……そう」
私は静かに頷いた。
それだ。
まさにそれだった。
「今まで私は、“必要だから買う”しかなかったので」
リリアは少し苦笑する。
「こんなふうに、“余ってるからもっと使いましょう”って言われる感覚がなかったんですけど」
一拍。
「さっきのフィリアさんを見て、ちょっと理解しました」
「でしょう?」
思わず力強く頷く。
ようやくこの理不尽を分かってくれる人がいた。
「逃げられないんだよ」
「逃げられませんでした」
リリアも真顔だった。
「お肉も」
「バターも」
「タオルまで」
完全に通じ合っていた。
「なんですか、その妙な連帯感は」
フィリアさんが冷静に言った。
「事実です」
二人同時だった。
一瞬、静寂。
そして。
「……はい?」
フィリアさんが珍しく固まった。
ちょっと嬉しい。
かなり嬉しい。
「だって」
私は腕を組む。
「気づいたら高級肉が増えてたし」
「高級バターも増えてました」
リリアが頷く。
「そこまでいくとは思いませんでした」
「共犯ですね」
「共犯です」
「待ってください」
フィリアさんが本気で止めに入った。
「私はちゃんと生活の質を上げようとしているだけです」
「その言い方、すごく聞いたことある」
今日だけで何回も聞いた。
主に私が言われた。
「つまり」
メルが静かにまとめる。
「エレノア様は普段、周囲からこんな圧を受けていたと」
「そういうこと」
「納得しました」
リリアが深く頷いた。
「これは確かに、疲れますね」
「でしょう!?」
思わず食い気味になった。
理解者。
ここにいた。
ついにいた。
「嬉しそうですね」
「嬉しい」
即答だった。
ものすごく嬉しい。
この孤独な戦いを理解してもらえるのは、本当に大きい。
「……なるほど」
フィリアさんは静かにため息をついた。
「少し反省します」
「本当?」
「はい」
一拍。
「次からは、もう少し自然に高級品へ誘導します」
「反省してない」
全員同時だった。
本当に。
最後まで容赦がなかった。




