97話 変わらない日常、揺らぐ静寂
朝の光が、ゆっくりと部屋の中へ差し込んでくる。
薄く開けたカーテンの隙間から入り込む柔らかな陽光が、ベッドの上に落ちていた。
「……ん」
まぶたの裏に感じる明るさに、ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井。
聞き慣れた、屋敷の静かな気配。
遠くからは、庭の手入れをする音と、小鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。
「朝、か……」
小さく呟いて、身体を起こす。
特別なことは、何もない。
――いつも通りの朝。
そのはずだった。
軽く伸びをして、ベッドから降りる。床に足をつけると、ひんやりとした感触が伝わってきた。
身支度を整えようとした、そのとき――
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「エレノア様、起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた声。
「うん、起きてるよ」
「失礼いたします」
静かに扉が開き、部屋へと入ってきたのはリリアだった。
長い耳と整った顔立ち。どこか儚さを感じさせるその佇まいは、今でも時折現実感を薄くさせる。
手には整えられた衣服が丁寧に抱えられていた。
「おはようございます、エレノア様」
「おはよう、リリア」
自然と、言葉が返る。
いつもと変わらないやり取り。
いつもと変わらない、朝の始まり。
――けれど。
ほんのわずかに、何かが違う気がした。
言葉にするほどでもない、小さな違和感。
気のせいだと言えば、それで済んでしまう程度のもの。
「……?」
ほんの一瞬だけ首をかしげて、すぐに意識を切り替える。
「今日は、なにか予定あったっけ?」
「はい。本日は特別なご予定はございませんが、午前中に庭の手入れと、その後に読書の時間を――」
いつも通りの報告。
そのはずなのに。
「……そうなんだ」
なぜか少しだけ、丁寧に聞こえた気がした。
けれど、それもきっと――
「朝食の準備も整っております。皆さまも、すでにお集まりかと」
「わかった。すぐ行くね」
気にするほどのことじゃない。
そう思って、私は軽く頷いた。
――いつも通りの一日が、始まる。
扉を開けて、廊下へと出る。
屋敷の中は、いつも通り静かだった。
朝の落ち着いた空気。
磨き上げられた床に差し込む光。
遠くで交わされる、使用人たちの控えめな声。
見慣れた景色。
変わらないはずの、日常。
「こちらへどうぞ、エレノア様」
「うん」
リリアに案内されながら、ゆっくりと廊下を歩く。
――そのときだった。
「……おはようございます」
すれ違った使用人が、足を止めて深く頭を下げる。
「おはようございます」
いつも通り、挨拶を返す。
それだけのこと。
それだけの、はずなのに。
(……あれ?)
ほんのわずかに、違和感が残った。
礼の角度が、ほんの少しだけ深かった気がする。
気のせい、と言われればそれまでの差。
でも――
そのまま歩いていくと、すぐ近くにいた別の使用人も、同じように足を止めた。
そして、やはり少しだけ深い礼。
(やっぱり……?)
思わず視線を横に向ける。
けれど、リリアは何も言わず、いつも通りの表情で前を見ていた。
気づいていないのか。
それとも、気づいていても触れないのか。
「……?」
一瞬だけ迷って、結局そのまま歩みを進める。
考えすぎかもしれない。
そう思った、そのとき――
ふと、視界の端に庭が映った。
朝露に濡れた草花が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
その一角――
私が管理している薬草区画。
さらに奥にある、マンドラゴラの区画。
ほんの一瞬だけ。
土が、わずかに揺れたように見えた。
「……?」
足を止める。
じっと目を凝らす。
けれど、次の瞬間には何も変わっていなかった。
風が吹いたわけでもない。
音がしたわけでもない。
ただ、いつも通りの庭があるだけ。
「……気のせい、かな」
小さく呟いて、歩き出す。
リリアは特に何も言わない。
やっぱり、気のせいなのかもしれない。
「エレノア様」
「ん?」
「朝食の準備が整っております」
「あ、うん。今行くね」
思考を切り替えて、再び歩き出す。
廊下の先には、食堂の扉が見えていた。
家族が待っている場所。
変わらない、はずの時間。
――けれど。
胸の奥に残る小さな違和感は、消えないままだった。
食堂の扉を開けると、すでに二人の姿があった。
「お、来たか」
先に気づいたのはルーカスお兄様だった。
椅子に腰掛けたまま、こちらに視線を向けてくる。
「おはよう、お兄様」
「おう。おはよう」
いつも通りの軽い返事。
そのまま何事もなかったかのように、手元のパンに視線を戻している。
「エレノア、おはよう」
アメリアお姉さまが柔らかく微笑む。
「おはよう、お姉さま」
向かいの席に座りながら、二人の様子をそっと見る。
……いつも通りだ。
本当に、何も変わらない。
さっき感じた違和感なんて、まるでなかったかのように。
(やっぱり、気のせい……?)
そう思いかけたとき――
「どうかした?」
お姉さまが小さく首をかしげる。
「あ、ううん。なんでもないよ」
すぐに首を振る。
「そう?」
「うん」
それ以上は何も言われない。
ただ、穏やかな朝の空気が流れているだけ。
「今日はどうするんだ?」
お兄様が何気なく問いかける。
「特に予定はないかな。庭の手入れをしたあと、少し本を読もうと思ってる」
「へぇ、珍しくのんびりだな」
「いつもだよ?」
「いや、結構いろいろやってるだろ」
軽く笑いながら言うお兄様。
「エレノアは、気づいたら何かしてるものね」
お姉さまもくすっと笑う。
「えぇ……そんなことないと思うけど」
「あるある」
「あるわね」
二人に揃って言われて、思わず言葉に詰まる。
けれど、そのやり取りもどこか楽しくて。
自然と小さく笑みがこぼれた。
会話はそのまま、何気ない話題へと移っていく。
朝食のこと。
今日の天気。
ほんの些細な出来事。
変わらない日常。
穏やかな時間。
――それなのに。
(……やっぱり、なんだか変な感じ)
誰も気にしていない。
いつも通りに笑っている。
なのに、私だけが――
ほんの少しだけ、引っかかっている。
朝食を終えたあと。
約束通り、私たちは庭へと出ていた。
柔らかな陽光が降り注ぐ中、手入れの行き届いた花壇が色とりどりに咲き誇っている。
風は穏やかで、どこか温かい。
テーブルには、すでにお茶とお菓子が用意されていた。
「いい天気だね」
「そうね。こういう日は外が気持ちいいわ」
お姉さまがカップを手に取りながら微笑む。
「ほんとだな。たまにはこういうのも悪くねぇ」
お兄様も、どこかリラックスした様子で椅子に背を預けている。
その光景を見ながら、私も席に着いた。
カップから立ち上る湯気。
甘い香りのお菓子。
穏やかな時間。
――いつも通りの、午後。
「エレノア、そのお菓子どう?」
「おいしいよ。すごく優しい味」
「それならよかった」
お姉さまが嬉しそうに笑う。
「それ、あとで俺にもくれ」
「いいよ、お兄様」
「最初から自分で取ればいいのに」
「いいだろ別に」
軽口を交わしながら、自然と笑いがこぼれる。
なんでもない会話。
なんでもない時間。
それが、とても心地いい。
ふと、視線を庭の奥へと向ける。
薬草畑の向こう。
さらにその奥にある、マンドラゴラの区画。
静かに、そこにあるはずの場所。
――そのとき。
葉が、わずかに揺れた。
風は、ほとんどない。
それでも、ほんの一瞬だけ。
まるでこちらを見ているかのように。
「……?」
思わず目を細める。
けれど、次の瞬間には何も変わらない。
いつも通りの景色。
「どうかしたの?」
お姉さまの声に、はっとする。
「あ、ううん。なんでもないよ」
「そう?」
「うん」
気のせいだと思う。
そういうことに、しておく。
「ぼーっとしてんな」
お兄様がくすっと笑う。
「ちょっとだけね」
軽く返して、カップに口をつける。
温かい紅茶が、喉を通っていく。
その温もりが、少しだけ気持ちを落ち着かせた。
再び、会話が始まる。
他愛もない話。
笑い声。
穏やかな時間。
――何も変わらない、はずの一日。
そう思っていた。
この場所も、この時間も。
ずっと続いていくような気がしていた。
けれど。
ほんのわずかに感じる、違和感。
誰も気づいていない、ほんの小さなズレ。
それは、確かにそこにあって――
そう思っていたのは、きっと私だけだった。




