96話 国家機密、無傷の身体
翌朝――
「それじゃ、行ってくる」
「私もそろそろ行ってくるわね」
「いってらっしゃい。今日は授業中に大怪我しないでくださいね?」
「おい、前提がおかしいだろ」
ルーカスお兄様が呆れたように眉をひそめる。
「事実ですよね?」
「否定はしねぇけどよ……」
肩をすくめ、ちらりと視線を逸らす。
その仕草に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
「……気をつける」
ぼそっと付け足す声も、いつもより少し低い。
「珍しいですね。素直に聞くなんて」
軽く言うと、
「……昨日、ちょっとな」
短く、それだけ返ってきた。
「?」
思わず首を傾げる。
けれどルーカスお兄様は、それ以上は何も言わずにさっさと踵を返した。
「もうこの話は終わり!」
ルーカスお兄様がそう言うと、大慌てで馬車が待つ門前へと向かっていった。
「本当に何があったんだろう……」
「私にも教えてくれないのよねー」
アメリアお姉さまも、ルーカスお兄様に何があったのかはわかっていないらしい。
「昨日、ルーカスお兄様だけ帰ってくるの遅かったでしょ?」
アメリアお姉さまが、何気ない調子でそう言った。
「……そういえば」
言われてみれば、確かに遅かった気がする。
私は先に部屋へ戻ってしまっていたため、はっきりとは把握していないけれど――
「結構遅い時間だったわよ。戻ってきたとき、ちょうど見かけたの」
「……何かあったんですか?」
「さあ? ただ――」
一拍置いて、
「そのまま裏庭で特訓してたわ」
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出る。
「しかも、かなり本気のやつ」
アメリアお姉さまは苦笑する。
「“授業で大怪我するなんて情けない”って、こっぴどく言われたみたいでね」
「……」
その言い回しに、ぴくりと反応する。誰に言われたか、考えるまでもない。
「そのあと、屋敷の魔法練習場で何かがあったらしいよ」
「……何か、ですか?」
「詳しくは知らないわ。でも――」
一瞬だけ、アメリアお姉さまの表情が引き締まる。
「使用人が“音を聞いた”って」
「……音?」
「地面が割れるような音、って言ってたわね」
「……」
思わず言葉を失う。
魔法練習場は、多少のことでは壊れないように強化されているはずだ。それでもなお、“割れる音”がしたとすれば――
「……本気、ですね」
「ええ。本気も本気」
アメリアお姉さまが小さく息をつく。
「それで、そのあと戻ってきたときには――」
「……」
「さすがに少し、疲れてたみたいよ」
「……」
あのルーカスお兄様が。
それだけで、どれほどのことが行われたのかが分かる。
アメリアお姉さまと、何とも言えない恐怖を感じていると――
「アメリア様、ルーカス様がお待ちです。お急ぎください」
使用人の声が、現実に引き戻す。
「あら、もうそんな時間?」
アメリアお姉さまが軽く目を瞬かせる。
「ええ。すでに馬車の前でお待ちです」
「……それは急がないとね」
苦笑混じりにそう言って、アメリアお姉さまが馬車へと歩き出す。
「じゃあ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
二人が乗る馬車を見送ると、屋敷内は朝の忙しい時間を終えた時特有の静けさが広がった。
「……」
ほんの少し前までの慌ただしさが嘘のように、空気が落ち着いている。
使用人たちの足音も遠く、どこか穏やかな時間。
「……さて」
小さく息をつき、私は屋敷の中へと戻る。
そのまま居間に入り、
「ねぇメル、お茶をお願いできる?」
「わかりました!」
明るく返事をして、メルがぱたぱたと準備へ向かう。
その背中を見送りながら、私はソファへと腰を下ろした。
手に取るのは、先日から読み進めている本。
栞を挟んでいたページを開き、ゆっくりと文字を追い始める。
「……」
静かな時間。ほんの少し前までの慌ただしさが嘘のように、落ち着いた空気が流れている。
しばらくして、
「お待たせしました!」
軽やかな声と共に、メルが戻ってきた。
カップがテーブルに置かれ、ふわりと紅茶の香りが広がる。
「ありがとう」
一言礼を言い、カップを手に取る。一口含むと、ほっと息が抜けた。
そのまま本へ視線を戻し、ページをめくる。
紙の擦れる音だけが、静かに響く。
――いつも通りの朝。
穏やかで、何も変わらない時間のはずだった――
本を読み進め、お茶に手を伸ばした時。
「エレノア様」
低く落ち着いた声が、不意に差し込まれた。
「……?」
顔を上げると、護衛の隊長、アランさんが立っていた。
いつの間に入ってきたのか、気配を感じなかったことに一瞬だけ驚く。
「どうかしましたか?」
本を閉じながら問いかけると、アランさんは一礼する。
「おくつろぎのところ申し訳ありません」
「いえ、大丈夫ですけど……」
その言い方に、わずかに違和感を覚える。
「王城より、至急エレノア様にお話があると」
「……王城、ですか?」
思わず、言葉が一拍遅れる。
日常の空気が、一瞬で張り詰めたものへと変わる。
「はい。すぐにお話がしたいとのことで、至急ご準備をお願いします」
「……」
“すぐに”。その一言が重く響く。
「……分かりました」
静かに本を閉じ、テーブルへ置く。
伸ばしかけていたカップには触れず、そのまま立ち上がった。
「すぐに準備します」
そう言い、私は自室へと向かう。
廊下を進む足取りは、自然と早くなる。
――王城からの呼び出し。それだけで、軽い用件でないことは明らかだ。
自室へ入り、メルとリリアに着替えを手伝ってもらう。
急ぎではあるが、王城へ向かう以上、身だしなみを疎かにできない。
「王城から、ですか……?」
メルが少し不安そうに呟く。
「ええ。至急、とのことです」
それ以上は言わない。二人とも何かを察したのか、無駄口を挟まず手を動かし続けた。
ほどなく準備が整う。
「お嬢様、整いました」
「ありがとう」
短く礼を言い、自室を後にする。
そのまま居間へ戻ると、アランさんがすでに待っていた。
「お待たせしました」
「いえ」
軽く一礼した後、アランさんが続ける。
「王城へ行く際に、先日作成されたポーションを持参していただけると助かります」
「……」
一瞬、思考が止まる。だが次の瞬間には、すべてが繋がった。
王城からの至急の呼び出し。そして、わざわざ指定される“あのポーション”。
「……やはり、ですか」
小さく息を吐く。
予想はしていたが、こうして明確に示されると話は別だ。
「分かりました。すぐに用意します」
「お願いいたします」
アランさんが一歩下がる。
私はそのまま、保管してあるポーションのもとへ向かった。
保管場所へ向かう途中、頭の中で何度も考えが巡る。
――こんなにも早く呼び出されるということは、嫌な予感しかしない。
まるで空気が重く締め付けられるような感覚。
手元の瓶をしっかり握り締め、足を早める。
居間を抜け、屋敷の奥へと進むと、アランさんが静かに立っていた。
「こちらへ、エレノア様」
声に促され、私は護衛棟へ案内される。
「……あの、馬車じゃないんですか?」
思わず口にしてしまう。王城へ向かうときは、いつも馬車での移動が基本だった。
アランさんは落ち着いた声で答える。
「今回は緊急のため、護衛棟の転移門から直接王城へ向かいます」
――転移門?
その言葉に、私は一瞬足を止めた。護衛棟にそんなものがあること自体、初めて知ったのだ。
胸の奥がざわつく。これほど急いで呼び出されるということは、やはりただ事ではない。
アランさんの後ろについて進むと、普段は立ち入ることのない護衛棟の奥に、ひときわ光を放つ大きな門が視界に入った。
「……これが、転移門……?」
思わず息を呑む。手元のポーションをぎゅっと握り締める。
門の前に立つと、アランさんが小さく頷いた。
「それでは、こちらから王城へ――」
揺れる光の中、私は一歩、転移門へ踏み出した。
――そして、目の前の景色が一変した。
騎士団の区画。整然と並ぶ石畳の通路、その両脇には規律正しく立つ騎士たち。
私の前後をアランさんと護衛たちが固め、通路を進むごとに騎士の壁が徐々に厚くなる。
――ここまで厳重な警戒態勢の中を進むのは初めてだ。
足音だけが響く静寂。緊張で心臓が早鐘のように打つ。
やがて、通路の先に重厚な扉が現れる。
その奥には、陛下や宰相が待っている。
手元のポーションをもう一度確かめ、深く息を吸い込む。
アランさんが扉を押し開け、私は静かにその場へ足を踏み入れた。
――王城の中で、誰もが緊張を隠さず待つ部屋。
ここから先、ポーション案件の話が始まろうとしていた。
部屋に入ると、陛下と宰相様に加え、衛生大臣もすでに待っていた。
「急に呼び出して申し訳ない」
陛下の声は穏やかに聞こえるが、その奥には確かな緊張感が隠されている。私は深く一礼した。
「陛下、宰相様、衛生大臣様」
「お久しぶりです。エレノア嬢」
緊張を解すかのような優しい声で衛生大臣が挨拶をする。
「今回の件、まず経緯から説明してほしい」
陛下の穏やかな声に、私は背筋を伸ばす。宰相様も衛生大臣も視線を向けているが、圧力で押し潰されるような威圧感はない。あくまで的確に状況を把握しようとする、静かな緊張感だ。
「はい。今回このポーションが生まれたのは、ポーションの性能や効果が素材を変更した際にどのくらいかわるかの実験で生まれたものです。」
「どの素材の変更をしたのか、聞いてもいいですか?」
衛生大臣の声は穏やかだが、確かな重みがあった。王城としても、安全面や影響範囲を把握する必要があるのだろう。
「はい。 通常の私の手順ですと基本材料となる水は、蒸留水を使用し薬草類は一般的に作られている薬草と同じものを使用しています。
あのポーションは、水を純水に変更し、通常の薬草と下処理をしたマンドラゴラの根を使用しています。」
「確か強力解毒ポーションもマンドラゴラの根を使用していたと聞いておるが、日常的に使えるほどマンドラゴラの根を持っているのかい?」
陛下の問いに、部屋の空気がわずかに引き締まる。単なる確認のようでありながら、王城としての安全性への配慮が感じられる質問だ。
「いえ、数は多くありませんが、屋敷内の小さな管理区画で四株ほど育てております。定期的に収穫できるため、割と自由に使用は可能です」
そう言うと宰相様と衛生大臣が頭を抱えた。
「上級錬金術師や王城でさえ滅多に入らないマンドラゴラを栽培しているとは……」
宰相様と衛生大臣が、わずかに困惑した表情で頭を抱える。精霊としての性質を持つマンドラゴラは扱いも難しく、日常的に栽培・使用すること自体が稀なのだ。
陛下が静かに口を開く。
「では、そのポーションの具体的な使用結果を、改めて聞かせてほしい。レーヴェン子爵からは概要を伺っているが、詳細はまだだ」
私は背筋を伸ばし、手元でポーションの瓶を軽く握り締める。
「はい。実は、今回のポーションは偶然、重傷を負ったルーカスお兄様に使用する機会がありました」
陛下の視線が鋭くも穏やかに私を捉える。宰相様も衛生大臣も、じっと耳を傾けている。
「事故ではなく、授業中の想定外の怪我でしたが、その際に通常の回復薬と比べ、体内での吸収が早く、効果も安定して現れました」
私は手元でポーションを軽く回し、説明を続ける。
「腕の骨折に対し使用した結果、通常の回復とは違い、まるで“再生”という言葉が適切なほど、怪我をする前の状態に完全に戻っていました」
陛下の目が一瞬、驚きにわずかに見開かれる。宰相様も唇を引き結び、衛生大臣は静かに眉を上げる。
「……副作用などは?」
私の声は落ち着いていたが、部屋の緊張感は一層増す。
「今回の使用では副作用は確認されていません。投与後の疲労感や倦怠感もほぼなく、体内のバランスも安定していました」
宰相様が手元の資料を軽く押さえ、低く静かな声で問う。
「エレノア嬢を疑うわけではないが、これが事実なら大変なことになります......」
それに続くように衛生大臣が説明する
「一歩間違えれば、戦争利用など、本来の使用用途を逸脱した使われ方をされる可能性がありますね」
衛生大臣の声は落ち着いているが、言葉には確かな重みがあった。部屋の空気が、一瞬ひりつくように張り詰める。
陛下は静かに息をつき、宰相様も深く頷く。
「王城としても、このポーションの扱いには細心の注意を払わねばなりません。エレノア嬢、今回の開発・実験内容を全て、正確に王城に報告してもらえないだろうか」
「はい。すでに記録をまとめておりますので、詳細な工程や結果もすべてお伝えできます」
私が手元でポーションを軽く握り直すと、陛下は柔らかくも厳かな声で告げた。
「わかった、そのポーションについてだが一般に供給させるのはリスクが大きすぎる
故に王城からの作成依頼でこのポーションを作るのは控えてほしい」
深く一礼すると、陛下は微かに頷き、宰相様と衛生大臣もそれぞれ静かに確認するように目を細めた。
部屋に漂う空気は緊張感に満ちているが、どこか穏やかな締めくくりの感覚もあった。
今回のポーションが持つ力の大きさと、同時にそれに伴う責任の重さを改めて感じながら、私は深く息をつく。
「当面の間、このポーションは禁忌指定に登録し、国家機密として扱う」
陛下のその一言に、事の重大さを改めて胸に刻む。王城からの正式な依頼があった場合のみ、その力を使う――それが今の私に課せられた使命だった。




