95話 報告すべき異常、無傷の身体
「……本当に、もう痛くないのか?」
静かな声だった。
けれど、その場にいる全員が、その一言に意識を引き寄せられる。
問いかけたのはカイル。
視線の先にいるのは、腕を軽く回しているルーカスお兄様だった。
「おう。ほら、この通り――」
ぐるり、と肩から肘、手首までを滑らかに動かす。
止まることも、鈍ることもない。
さっきまで重傷だったとは、とても思えない動きだった。
「……違和感は?」
今度は私が問う。
その声音は落ち着いているが、わずかに硬い。
「違和感? いや、別に――」
言いかけて、ルーカスお兄様は一瞬だけ言葉を止めた。
そして、ゆっくりと自分の腕を見下ろす。
「……いや、あるな」
「あるの?」
メルが不安そうに身を乗り出す。
ルーカスお兄様は少し考えるようにしてから、言葉を選んだ。
「痛くないとか、動かしにくいとか、そういうのじゃないんだ」
そう言って、軽く拳を握る。
「――“壊れてた感じがしない”」
「……」
一瞬、空気が止まった。
「折れてたんだ。確かに。あの瞬間の衝撃も、痛みも覚えてる」
それでも、とルーカスお兄様は続ける。
「今は……なんていうか、最初から無事だったみたいな感覚なんだよな」
ぽつりと落とされたその言葉に、
今度こそ、はっきりと沈黙が広がった。
誰も、すぐには口を開けない。
その違和感の正体を、理解しかけていたからだ。
――これは、“回復”ではない。
私は、無意識に自分の手元の瓶へと視線を落とす。
透き通った液体は、ただ静かに揺れているだけ。
けれど、その中にあるものが、決して“ただのポーション”ではないことを、
今、この場の全員が理解し始めていた。
沈黙を破ったのは、カイルだった。
「……なるほど」
小さく、しかしはっきりとした声。
考えがまとまったときの、それだった。
「たぶん、だけど――」
カイルは一度だけルーカスお兄様の腕を見て、それから私へと視線を移す。
「これは“治してる”んじゃない」
「……うん」
私も、薄々感じていた。
けれど、言葉にされると、それは決定的になる。
「“元の状態に戻してる”」
「戻す……」
メルが小さく繰り返す。
「回復魔法とかポーションってさ、傷ついた部分を“修復”するものなんだよね」
カイルは指を立てて、一つずつ整理するように続ける。
「だから基本的には、ちゃんと治れば痕は残らない。そこは普通」
その前提を共有する。
「でも――」
一拍置いて、
「重度だったり、治療が遅れたりすると、“歪み”が残ることがある」
筋肉の引きつり、わずかな可動のズレ、違和感。
「完全に“元通り”にはならないことがあるんだ」
それが、この世界の常識。
「でもこれは違う」
カイルの視線が、ルーカスお兄様へ向く。
「そもそも“修復してる感じ”がない」
「……ああ」
ルーカスお兄様もすぐに頷く。
「普通なら、こう……治ったって感じがあるんだよな。多少でも」
けれど、と続ける。
「これは違う。違和感がないんじゃない」
「――“何も起きてない感じ”なんだ」
その言葉に、空気が静かに張り詰めた。
「つまり――」
カイルが結論を置く。
「“綺麗に治ってる”んじゃない」
一瞬の間。
「“最初から壊れてなかった状態に戻ってる”」
「……っ」
メルが息を呑む。
ルーカスお兄様も、もう軽口を叩く様子はない。
「だから違和感が出る。体としては“何も起きてない”状態だから」
「……なるほどな」
自分の腕を見ながら、小さく呟く。
私は、ゆっくりと手元の瓶を持ち上げた。
揺れる透明な液体。
見た目は、どこまでも普通なのに。
「再現は、できた」
ぽつりと呟く。
「同じ材料、同じ手順で、同じ結果」
つまり――
「量産、できる可能性がある」
その言葉の意味を、全員が理解していた。
もしこれが広まれば。
もし、誰でも使えるようになれば。
「……戦い方が、変わるな」
ルーカスお兄様が低く言う。
「多少の怪我なんて、無かったことにできるってことだろ」
「“多少”で済めばいいけどね」
カイルが即座に返す。
「限界がどこか、まだわかってない」
「……あ」
メルが、小さく声を上げた。
「もし、これ……」
言いかけて、言葉が止まる。
けれど、その先は誰もが同じことを考えていた。
――致命傷だったら?
――死ぬ直前なら?
――どこまで“戻る”?
空気が、重く沈む。
「……もっと検証する必要があるね」
私が静かに言う。
「でも――」
一度、言葉を切る。
「これは、私たちだけで抱えていいものじゃない」
その一言で、空気が決定的に変わる。
個人の研究ではなく、
“扱いを決めなければならないもの”へと。
カイルも、すぐに頷いた。
「うん。これはもう――王城案件だと思う」
「……だよな」
ルーカスお兄様も苦い顔で同意する。
メルは不安そうに私を見る。
「……エレノア様、これ……」
視線が集まる。
判断を求められている。
私は一瞬だけ目を閉じて、
それから、静かに開いた。
「――これ、どうする?」
手の中の瓶を見つめたまま、呟く。
そして、顔を上げる。
「報告、すべきかな」
その問いに、
誰も答えを出せないまま、しばらくの沈黙が続いた。
重く、張り詰めた空気。
けれど――
「……とりあえずさ」
その空気を、ルーカスお兄様があっさりと崩した。
「悩んでても仕方なくないか?」
「ルーカス様……」
メルが少し呆れたように名前を呼ぶ。
だが、ルーカスお兄様は肩をすくめた。
「いや、だって俺たちだけで決めるにはデカすぎるだろ、これ」
ちらりと私の手元の瓶を見る。
「判断できるやつに投げるのが一番早い」
「……それは、そう」
カイルもすぐに同意する。
冷静に考えれば、それが最適解だった。
抱え込むには重すぎる。
かといって、軽々しく外に出していいものでもない。
「じゃあ――」
私は小さく息を吐く。
「一旦、お父様に聞こうか」
その一言で、方向が決まった。
準備はすぐだった。
ポーションは厳重に封をし、私自身が持つ。
最低限の人員で、屋敷本邸へと向かうことになった。
「……なんか、普通に歩いてるの変な感じだな」
移動中、ルーカスお兄様がぽつりと呟く。
「さっきまで大怪我してたのに」
「変なこと言わないでください……」
メルが小声で返すが、
その気持ちは全員同じだった。
ついさっきまでの出来事が、現実感を失っている。
――それほどまでに、このポーションは異常だった。
屋敷本邸。
応接室へと通された私たちは、
ほどなくして入室してきた人物に、自然と背筋を伸ばした。
「どうした、こんな時間に揃って」
お父様が、穏やかな声で問いかける。
だがその視線は鋭く、ただ事ではないと既に察している様子だった。
「お父様」
私は一歩前に出る。
「少し、ご相談したいことがあって」
「……内容によるな」
軽く言いながらも、その声音は真剣だ。
「まずは話してみなさい」
促され、私は一度だけ手元の瓶を見た。
そして――
「新しく調合したポーションの件です」
そう前置きしてから、ゆっくりと説明を始める。
再現性があること。
鑑定結果と実際の挙動にズレがあること。
そして――
「重傷を負ったルーカスお兄様に使用しました」
「……ほう?」
お父様の目が、わずかに細くなる。
「結果は?」
「完全修復です」
間を置かず、言い切った。
「違和感も後遺症も、一切なし」
その言葉に、室内の空気が静かに変わる。
「……ルーカス」
「ああ」
呼ばれ、ルーカスお兄様は一歩前に出た。
「さっきまで普通に腕やられてたけど、今はこの通りだ」
軽く動かして見せる。
淀みのない動き。
訓練を積んだ者だからこそ分かる、“完全な状態”。
「……なるほど」
お父様は短く呟くと、ゆっくりと私へ視線を戻した。
「詳細を聞こう」
そこからは、早かった。
カイルが補足し、
私が要点を整理し、
ルーカスお兄様が実体験を補強する。
説明は簡潔に、だが漏れなく。
そして――
「つまり」
お父様が静かに結論を口にする。
「それは“回復”ではなく、“元の状態への復元”に近い、と」
「……はい」
私は頷く。
一瞬の沈黙。
その間に、お父様はすべてを整理した。
危険性。
影響。
そして、必要な判断。
次の瞬間――
ふっと、小さく息を吐く。
「――これは」
その声は、穏やかだったが、
内容は一切穏やかではなかった。
「完全に王城案件だな」
「……ですよね」
私は小さく呟く。
予想していた答え。
けれど、実際に言葉にされると、その重みは段違いだった。
「詳細は私から上に上げる」
お父様は即断する。
「お前たちは、これ以上触るな。検証も含めて、一旦停止だ」
「はい」
誰も異論はなかった。
「あと――」
ふと、お父様がルーカスお兄様を見る。
「お前、授業中に大怪我したと言ったな」
「え? ああ、まぁ……」
「後で詳しく聞く」
「……はい」
少しだけ気まずそうに視線を逸らすルーカスお兄様。
その様子に、ほんのわずかだけ空気が緩んだ。
だが――
それも一瞬。
部屋の中心にあるのは、変わらず“それ”だった。
無色透明の、小さな瓶。
どこにでもありそうなそれが、
王城を動かすことになるとは――
私たちは、まだ知らなかった。




