92話 小さな机、大きな計画②
お知らせ:以前にもお知らせしましたが、諸般の都合により明日よりこれまでの一日2話更新から一日一話更新へ変更します。
理由としては、やることが多く大変なのと環境が変わるためです。
15時に更新しますので、よろしくお願いします。
「では、行きましょうか」
カイルのその言葉に、私たちは揃って席を立った。
応接室を出て、廊下を進む。
見慣れた屋敷の中を歩きながらも、これから向かう場所のことを考えると、少しだけ足取りが軽くなる。
玄関へと辿り着き、扉が開かれる。
外に出ると、初夏の風がやわらかく頬を撫でた。
「いい天気ですね!」
メルが嬉しそうに声を弾ませる。
「そうだね」
頷きながら門の方へ向かうと、一人の護衛が声を掛けてきた。
「エレノア様、本日はどちらへ行かれるのですか?」
「南門にできる予定のアトリエの土地を見に行こうかと」
そう言うと、護衛は一礼して答える。
「かしこまりました。すぐに準備を行いますので、居間でお待ちください」
「少し見に行くだけですよ?」
思わずそう言うと、護衛はわずかに目を伏せた。
「承知しております」
落ち着いた声で、静かに続ける。
「ですが、エレノア様の安全のため、外出の際は万全を期すよう仰せつかっております」
丁寧で柔らかな言い方。
けれど、その中にある意志ははっきりしていた。
「短時間であっても、変わりはございません」
「……そっか」
少しだけ考えて、肩の力を抜く。
強く言われたわけじゃない。
ただ、“そういうもの”なのだと分かる言い方だった。
「分かりました。お願いします」
「かしこまりました」
一礼すると、護衛はすぐに動き出す。
近くにいた別の護衛へ静かに合図を送り、そのまま無駄のない動きで準備が進んでいく。
声を張ることもなく、大きな動作もない。
それでも、周囲の空気がすっと整っていくのが分かった。
「……すごいですね」
メルが小さく呟く。
「うん」
頷く。
行き先を伝えただけで、あとはすべて整っていく。
詳しいことは分からないけれど、
たぶん、それが“普通”なんだと思う。
「では、少々お待ちください」
そう言い残し、護衛は持ち場へと戻っていった。
それから十分ほどだろうか。
短い時間のはずなのに、屋敷の中は不思議と静かで落ち着いていて、待たされている感覚はあまりなかった。
控えめなノックの音が響く。
「エレノア様、準備が整いました」
扉の向こうから、先ほどの護衛の声が届く。
「ありがとう」
立ち上がり、皆で玄関へと向かう。
外へ出ると、空気が少しだけ変わっていた。
先ほどと同じはずなのに――どこか整っている。
門の前には、見慣れた馬車。
そしてその周囲には、相変わらず護衛が配置されている。
数が極端に増えたわけでも、目立つようになったわけでもない。
それでも分かる。
さっきよりも――隙がない。
「……準備って、こういうことなんだ」
思わず小さく呟く。
「はい」
カイルが短く頷いた。
「問題なく移動できる状態を整えております」
簡潔な説明。
でも、それで十分だった。
「すごいですね……」
メルが感心したように周囲を見回す。
けれど、すぐに首を傾げた。
「なんだか、さっきとあまり変わらないようにも見えますけど……」
「見えるようにしているのでしょう」
カイルの言葉は淡々としていた。
変わっているのに、変わっていないように見える。
それが、たぶん“整った状態”。
馬車の傍に控えていた護衛の一人が、私たちの到着に合わせて一歩前に出る。
無駄のない動きで扉に手をかけ、静かに開いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
メルが頭を下げて乗り込み、私もそれに続く。
軽く会釈をすると、護衛は一歩下がった。
その動きに合わせるように、周囲の空気がわずかに動いた気がした。
中へ足を踏み入れながら、ふと思う。
やっぱり――少しだけ、特別だ。
でも、その理由は分からない。
分からないけれど、
きっと、大丈夫。
馬車は静かに動き出した。
窓の外には、見慣れた王都の景色が流れていく。
しばらくは賑やかな通りが続いていたが、やがて少しずつ様子が変わり始めた。
行き交う人の数が減り、代わりに荷を運ぶ人や職人の姿が目立つようになる。
「雰囲気が変わってきましたね」
メルが窓の外を見ながら言う。
「南門に近づいてきたね」
短く答える。
建物の間隔も広がり、視界が少しずつ開けていく。
それでも馬車の進みは滞ることなく、一定の速度を保ったままだった。
周囲に視線を向けても、特別なことは何も見えない。
けれど――
不思議と進みやすい状態が保たれている。
「……順調だね」
「はい」
カイルはそれだけ答えた。
余計な説明はない。
けれど、それで十分だった。
やがて視界が大きく開ける。
建物の密度が一気に薄くなり、空が広く感じられるようになった。
「もうすぐです」
カイルの言葉と同時に、馬車の速度が緩やかに落ちていく。
そして――静かに停止した。
外から扉が開かれる。
「到着いたしました」
「ありがとう」
先にメルが降り、私もそれに続く。
足を踏み出した先に広がっていたのは――
何もない土地だった。
整備もされていない、ただの空き地。
ところどころに草が伸びているだけの、手つかずの状態。
……けれど、
「井戸……?」
少し離れた場所に、ぽつんと一つ。
簡素な井戸が設けられているのが目に入った。
「はい。この土地には最低限の水源が確保されています」
カイルが簡潔に答える。
「建設を見越した事前整備かと」
「なるほど……」
完全な更地ではない。
けれど、それでも――
「……本当に、他には何もないんだね」
「はい……」
メルが少し戸惑ったように周囲を見回す。
けれど、
「いいね」
自然と、そう言葉が出た。
遮るものがない。
決まっている形もない。
そして、水もある。
「ここなら――自由に作れる」
その一言に、わずかに力がこもる。
視線の先に広がる土地を、ゆっくりと見渡す。
端から端まで、ざっと見てもかなりの広さがある。
「……思ってたより、広いね」
「はい。南門外の開発予定地の一角ですので、ある程度余裕を持って区画が確保されております」
カイルの説明に頷きながら、改めて周囲を見る。
建物を一つ建てるだけでは、明らかに余る。
それどころか――
「これ、アトリエだけじゃ余るね」
「……そうですね」
わずかに間を置いて、カイルが同意する。
その“間”に気づかないふりをして、私は続けた。
「お店用の薬草畑、作れそう」
ぽつりと呟く。
日当たりも悪くないし、周囲に高い建物もない。
管理もしやすい。
「栽培用の区画を設けるのであれば、十分すぎる広さかと」
「だよね」
すでに頭の中では配置が組み上がり始めていた。
アトリエ本体、その周囲に薬草畑。
用途ごとに区画を分けて――
「あと、水もあるし……」
視線が自然と井戸へ向く。
「小川、引けるかも」
「……小川、ですか?」
メルが目を瞬かせる。
「うん。簡単な水路でもいいけど、流れがあった方が管理しやすいし」
ただ汲むだけじゃなく、循環させる。
「水生植物も育てられるし」
「水生植物……」
メルが小さく繰り返す。
「薬効のあるものもあるし、調合の幅も広がるよ」
もう一度、ぐるりと周囲を見渡す。
本当に、広い。
「……それでも、まだ余りそう」
思わずそう呟いていた。
一瞬の沈黙。
「……エレノア様」
カイルの声が、少しだけ低くなる。
「はい?」
「現時点での用途は、あくまでアトリエの建設予定地です」
「はい、分かってるよ?」
あっさりと頷く。
「その範囲で考えてるだけ」
「……そう、ですか」
わずかな間。
納得していないわけではないが、警戒はしている。
「でも」
もう一度、前を見据える。
「せっかくなら、ちゃんと使い切りたいしね」
どうせ作るなら――全部、使う。
風がゆっくりと吹き抜けた。
「……エレノア様」
カイルの声が、今度ははっきりと割って入る。
「一点、補足がございます」
「はい?」
「この区画の一部には、詰め所の建設も予定されております」
「詰め所?」
「はい。南門周辺の警備強化の一環として、常駐部隊の拠点が設けられる予定です」
「ここ、全部が自由に使えるわけじゃないんだね」
「その通りです」
もう一度、土地を見渡す。
「……そっか」
小さく息をつき、頭の中の配置を組み直す。
「でも、それでも十分だね」
「……前向きに捉えられるのですね」
「うん。制約がある方が、ちゃんとした形になるから」
再び土地へ視線を向ける。
全部は使えない。
でも――それでも、十分すぎる。
「……やっぱり、いい場所だね」
一歩、足を進める。
「詰め所がこの辺りに来るとしたら……アトリエは少し離して、動線を確保して――」
「動線、ですか?」
「人の流れだよ。出入りが重なると危ないし、作業にも影響が出るから」
「なるほど……」
「薬草畑は日当たり優先でこっち側かな」
太陽の位置を見上げながら言う。
「水路は井戸から引いて……流れは緩やかにした方が管理しやすいかも」
「本当に作る前提なんですね……」
「うん? 作るなら、ちゃんと使える形にしたいし」
さらに視線を巡らせる。
まだ余白は多い。
「あとは……働く人の宿舎も必要だね」
「宿舎、ですか?」
「住み込みの方が管理しやすいし、通うのも大変でしょ?」
「……なるほど」
しばらくの沈黙。
「……エレノア様」
カイルの声が、今度ははっきりと重くなる。
「計画の規模が、当初の想定を大きく超えているように見受けられますが」
「そうかな?」
首を傾げる。
「アトリエに必要なものを考えただけだよ?」
「……そう、ですか」
もう一度、広い土地を見渡す。
「……楽しみだね」
「……予算の確認が必要ですね」
カイルのその一言だけが、妙に現実的に響いた。




