89話 新たな扉、魔法学院へ③
「俺と決闘しろ」
――その一言で、場の空気が凍りついた。
誰も、すぐには反応できなかった。
ざわめきすら起こらない。
ただ、張り詰めた静寂だけが広がる。
(……やっぱり、そうなるよね)
小さく息を吐く。
視線は、すべてこちらに集まっていた。
逃げ場はない。
「……正気か?」
低く呟いたのはルーカスお兄様だった。
「ここは学院だぞ。私闘は――」
「正式な模擬戦として申請すれば問題ないだろ」
即座に返される。
迷いのない声音。
最初から、そのつもりだったのが分かる。
「それに」
男子生徒は、真っ直ぐこちらを見たまま言った。
「“見学者”とはいえ、実力を見せた以上は例外じゃない」
ざわり、と空気が揺れる。
周囲の学生たちも、息を潜めたまま様子を窺っていた。
(完全に囲まれてるな……)
護衛は動かない。
だが、いつでも介入できる位置にいる。
つまり――
「危険はない」と判断されている。
「……エレノア」
アメリアお姉さまが小さく声をかけてくる。
その表情は、心配と、ほんの少しの期待が混ざっていた。
「無理しなくていいのよ?」
「いや」
首を横に振る。
ここで逃げれば、余計に面倒になる。
それは、さすがに分かる。
「大丈夫」
短く答える。
それだけで、周囲の空気がわずかに変わった。
「……受けるのか?」
男子生徒が、確認するように言う。
一歩、前に出る。
距離が詰まる。
視線がぶつかる。
「条件は?」
静かに問い返す。
その瞬間――
「おいおい、本気かよ……」
「やるのか……!?」
押し殺していたざわめきが、一気に広がった。
だが、もう止まらない。
男子生徒は、わずかに口元を上げる。
「シンプルでいい」
そう言って、指を一本立てた。
「一対一。制限なし」
「先に戦闘不能になった方の負けだ」
――空気が、さらに張り詰めた。
ざわめきが、さらに広がろうとした――そのとき。
「……何をしているのですか」
低く、静かな声が割り込んだ。
一瞬で、空気が止まる。
振り返るまでもない。
その場にいる全員が、その声の主を理解していた。
「校長……!」
人垣の外側から、ゆっくりと歩み寄ってくる。
変わらない落ち着いた足取り。
だが、その一歩ごとに、場の熱が冷えていく。
自然と道が開いた。
先ほどとは違う。
今度は“意図的に”距離が取られていく。
「説明してもらえますか」
校長の視線が、周囲の学生へと向けられる。
それだけで――
「は、はい……!」
数人が慌てて口を開いた。
「その……決闘を……」
「彼が、申し込んで……」
「エレノア様に……」
言葉が途切れ途切れに繋がっていく。
校長は最後まで黙って聞いていた。
表情は変わらない。
だが――
静かに、視線だけが動く。
そして。
そのまま、決闘を申し込んだ男子生徒へと向けられた。
「……そうですか」
一言。
それだけで、空気がさらに重くなる。
男子生徒は、わずかに顎を上げた。
引かない。
その姿勢だけは崩さない。
「問題がありますか」
真正面から言い返す。
周囲が息を呑む。
だが――
校長は、わずかに首を横に振った。
「いいえ。規定上、模擬戦としての決闘は認められています」
ざわり、と空気が揺れる。
「ただし――」
一歩、踏み出す。
距離が詰まる。
「相手は選ぶべきでしたね」
静かに、言い切る。
男子生徒の表情が、わずかに揺れた。
「……どういう意味ですか」
問い返す声は、先ほどよりも低い。
校長は、その視線を正面から受け止めたまま告げる。
「あなたは優秀です」
はっきりとした評価。
周囲がわずかにざわつく。
「成績も、実戦能力も、この学院の中では上位でしょう」
否定の余地はない。
それは事実だった。
だからこそ――
次の言葉が、重く落ちる。
「ですが」
わずかな間。
逃げ場のない沈黙。
「エレノア様には、絶対に勝てません」
――空気が、凍りついた。
誰も、声を出せない。
男子生徒ですら、言葉を失う。
それほどまでに、断定的だった。
「これは誇張でも、牽制でもありません」
校長の声音は変わらない。
あくまで、淡々と。
「純粋な事実です」
視線が、静かに突き刺さる。
「それでもなお、挑みますか」
逃げ道は与えられている。
だが――
それは同時に、選択を迫る言葉だった。
場の全員が、固唾を呑んで見守る中。
男子生徒は――。
静寂の中。
すべての視線が、一人に集まっていた。
男子生徒は――
ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……それでも、やります」
はっきりと、言い切った。
ざわり、と空気が揺れる。
誰もが、その選択に息を呑んだ。
「ほう」
校長の目が、わずかに細められる。
「理由を聞いても?」
問われても、男子生徒は視線を逸らさない。
むしろ――
一歩、踏み出した。
「納得できないからです」
短く、だが迷いはない。
「俺より年下で」
視線が、エレノアへ向く。
「その上、あれだけの護衛を引き連れてる」
周囲がざわつく。
護衛たちは微動だにしない。
「そんなやつに――」
一瞬の間。
そして。
「負けるわけがない」
言い切った。
挑発とも、確信とも取れる声音。
空気が、ぴんと張り詰める。
(……言うなあ)
内心で小さく思う。
だが――
不思議と、嫌な気はしなかった。
ただ、まっすぐだ。
「……なるほど」
校長が、静かに頷く。
否定はしない。
止めもしない。
その代わりに――
一歩、前へ出た。
「では、その認識を正す機会を設けましょう」
ざわり、と空気が揺れる。
「本来であれば、関係者のみで行うべきですが――」
視線が、周囲へと巡る。
すでに集まっている学生たち。
抑えきれない関心。
「ここまで注目を集めてしまっては、収拾がつきません」
淡々とした分析。
そして。
「放課後」
わずかな間を置いて――
「全校生徒をアリーナに集めます」
――空気が爆発した。
「は!? 全校!?」
「マジかよ……!」
「公式戦扱いになるのか!?」
抑え込まれていたざわめきが、一気に溢れ出す。
だが。
「静粛に」
その一言で、再び押し潰される。
校長は、そのまま続けた。
「本決闘は、学院主導の模擬戦として実施します」
逃げ場はない。
言い訳もできない。
「両者とも、それで構いませんね」
視線が向けられる。
まずは、男子生徒。
「……望むところです」
即答だった。
次に――
こちらへ。
「……はい」
小さく頷く。
それで、すべてが決まった。
「では、準備に入ります」
校長が踵を返す。
その背中に、迷いはない。
「詳細は後ほど通達しますので、それまで各自持ち場へ戻りなさい」
解散の一言。
だが――
誰一人、すぐには動けなかった。
(……大事になったなぁ)
内心でため息をつきながら。
私は、静かに視線を上げた。
放課後。
すべてが決まる。
ざわめきは、解散の後もしばらく消えなかった。
廊下に出ても、どこへ行っても――
「本当にやるのか……?」
「全校って、あのアリーナだよな?」
「相手、誰だっけ……上位生だろ?」
ひそひそとした声が、途切れることなく続いている。
(完全に広まってる……)
苦笑するしかない。
「いやー、とんでもないことになったな」
ルーカスが肩をすくめる。
その隣で、アメリアが小さくため息をついた。
「校長があそこまで言うなんて……」
「普通は止める場面だろうけどな」
ガイウスも腕を組む。
「……逆に“見せる価値がある”と判断した、か」
ユリウスが静かに言った。
その一言で、少しだけ空気が引き締まる。
「エレノア」
アメリアお姉さまがこちらを見る。
「本当に大丈夫なの?」
「うん」
迷いなく頷く。
「軽くやるだけだから」
沈黙。
「その“軽く”が信用できないのよ……」
(そんなにかな……)
いまいち実感がない。
「まあ、あいつも相当やるぞ」
ルーカスが視線を少し遠くへ向ける。
「さっきのやつ、三年だ。実戦成績も上位」
「……ああ、見覚えあると思ったら」
ガイウスも頷く。
「決闘系の成績、かなり高いはずだ」
(へえ……)
少しだけ興味が湧く。
「……それでも?」
アメリアお姉さまが問いかける。
その目は、まっすぐだった。
「うん」
短く答える。
それで、十分だった。
それ以上、誰も何も言わなかった。
時間は、あっという間に過ぎた。
気がつけば――放課後。
学院全体が、妙な熱気に包まれていた。
廊下を歩けば、人の流れが同じ方向へ向かっている。
「急げ! 始まるぞ!」
「席取れるかな……!」
「立ち見でもいいから見たい!」
隠す気もない高揚。
誰もが、この一戦を待っていた。
(ここまでになるとはなぁ……)
少しだけ、他人事のように思う。
やがて――
視界が開けた。
巨大な円形施設。
学院の中央に位置する、最大規模の演習場。
「……これが」
思わず、足を止める。
「アリーナだ」
ルーカスが言った。
その声音にも、わずかな高揚が混ざっている。
すでに、観客席は埋まり始めていた。
いや――
ほとんど埋まっている。
「早すぎない?」
「全校だぞ?」
ガイウスが苦笑する。
「むしろ遅いくらいだ」
(すごいな……)
ざわめきが、波のように広がっている。
だがその中心――
闘技場だけは、不思議なほど静かだった。
「こちらです」
職員に案内され、関係者用の通路へ入る。
外の喧騒が、すっと遠ざかる。
「控室をご用意しております」
扉の前で止まる。
「開始の合図までは、こちらでお待ちください」
「はい」
頷く。
扉が開かれる。
中は、簡素だが整えられた空間だった。
椅子と机。
最低限の準備設備。
「……静か」
思わず呟く。
さっきまでの熱気が嘘みたいだ。
「逆に落ち着くだろ」
ルーカスお兄様が壁にもたれる。
「直前に騒がしいと集中できねえしな」
「そういうものなの?」
「そういうもんだ」
あっさりと返される。
アメリアお姉さまは、こちらに歩み寄ってきた。
「本当に無理はしないで」
小さな声。
「……うん」
それに、短く答える。
メルとリリア、そして護衛はいつも通り。
変わらない距離。
変わらない配置。
(ほんと、安心するな……)
軽く息を吐く。
緊張は――
ないわけじゃない。
でも、不思議と落ち着いていた。
どれくらい経ったか。
「――時間です」
控室の外から、声がかかる。
空気が、切り替わる。
ルーカスが体を起こす。
「来たな」
アメリアお姉さまが小さく頷く。
四人のクラスメイトも、真剣な表情になる。
「行こう」
扉へ向かう。
護衛が、静かに動く。
いつも通り。
それが、逆に心強い。
扉が開かれる。
外の音が、一気に流れ込んできた。
「おおおおおおおおお!!」
歓声。
ざわめき。
熱気。
すべてが、渦巻いている。
(……すごい)
一歩、踏み出す。
視界が開ける。
無数の視線。
すべてが、こちらを見ている。
そして――
反対側の入場口。
そこにも、一人。
男子生徒が立っていた。
すでに準備は整っている。
視線が、ぶつかる。
逃げない目。
強い意志。
(いいね)
小さく、そう思った。
中央へと歩いていく。
足音が、やけに響く。
やがて――
闘技場の中心。
互いの距離が、止まる。
そのとき。
「――両者、位置につきなさい」
響く声。
見上げると、観覧席上段。
校長が、こちらを見下ろしていた。
場を支配する視線。
「本模擬戦は、学院の監督下にて行う」
静かに、だがはっきりと。
「勝敗は戦闘不能、または降参をもって決する」
誰もが、聞いている。
「準備はよろしいですね」
わずかな間。
男子生徒が頷く。
「問題ありません」
次に――
視線がこちらへ。
「……はい」
答える。
それで、すべてが整った。
校長が、ゆっくりと手を上げる。
アリーナ全体が、静まり返る。
さっきまでの喧騒が嘘のように消える。
完全な静寂。
――そして。
「それでは――」
手が、振り下ろされようとした――その瞬間。
「ストーップ!!」
大きな声が、場を切り裂いた。
ざわり、と観客席が揺れる。
次の瞬間。
――そこに、いた。
何の前触れもなく。
闘技場の中央、そのわずか外側に。
一人の女性が、静かに立っていた。
「……は?」
ルーカスお兄様が小さく声を漏らす。
「今、どこから……」
「……見えなかった」
アメリアお姉さまも目を細める。
「ミストルティン様……!」
その名が広がった瞬間、空気が変わる。
重く、張り詰める。
ミストルティン様は、ゆっくりと周囲を一瞥し――
校長へと視線を向けた。
「このまま開始するつもり?」
「ええ、その予定でしたが」
校長は淡々と応じる。
「何か問題でも?」
「問題だらけよ!」
即答だった。
視線が、私と対戦相手に向けられる。
「安全措置が不十分よ」
静かに、だがはっきりと告げる。
「致死に至る魔法が行使された場合、この場では対処が遅れるわよ?」
ざわめきが広がる。
「双方に防護を施すわ」
その言葉と同時に。
ミストルティン様が、わずかに手を上げた。
――空気が、軋む。
(……っ)
一瞬で分かる。
格が違う。
ルーカスお兄様が、低く呟く。
「……冗談だろ」
アメリアお姉さまも、小さく息を呑む。
「これ……」
言葉が続かない。
「――展開」
短い詠唱。
次の瞬間。
淡い光が、私と対戦相手を同時に包み込んだ。
一瞬。
だが確かに、“何か”が組み込まれる。
ミストルティン様は、淡々と告げた。
「もし、致死に至る攻撃を受けた場合、自動で防御が発動するわ」
ざわめきが爆発する。
「は!? 自動!?」
「そんな魔法あるのかよ!?」
「……つまり」
ルーカスお兄様が、ゆっくりと息を吐く。
「死ぬ心配はねえってことか」
「……ええ」
アメリアお姉さまが頷く。
「全力でぶつかっても、大丈夫ということね」
ミストルティン様は一歩下がる。
「これで問題ないわ」
校長へ視線を戻す。
校長は、静かに頷いた。
「……万全ですね」
再び。
手が上がる。
今度こそ、誰も止めない。
アリーナ全体が、完全な静寂に包まれる。
「それでは――」
手が、振り下ろされる。
「模擬戦を開始します」
――同時に。
私の内側で、何かが“軽く”なった気がした。
(……あ)
守られている、という確信。
なら――
遠慮はいらない。
小さく、息を吐く。
視線を上げる。
「――行くよ」
「臨むところだ!!!」
――その瞬間。
ぱきん、と。
空気に、ひびが入ったような音がした。
「……は?」
誰かの声が漏れる。
次の瞬間――
私と相手を包んでいたはずの防護が、淡く“軋んだ”。
ほんの、一瞬。
だが確かに。
「今の……結界、だよな?」
ルーカスお兄様の声が低くなる。
アメリアお姉さまも目を見開く。
「……ありえない」
観客席がざわめく。
ミストルティン様が、わずかに目を細めた。
その視線が、こちらに向く。
(……あれ?)
首を傾げる。
まだ、何もしていない。
なのに――
“耐えきれない”みたいに、揺れている。
「……なるほど」
小さく、誰かが呟いた。
次の瞬間。
校長の声が、鋭く響く。
「――始めなさい!」
こうして――
両者の戦いの火蓋が、切って落とされた。




