86話 静かなる芽、神族の策
――神の領域・万神至高神殿
これは、エレノアの誕生日が目前に迫ったある日の出来事。
万神至高神殿には、すべての神が集結していた。天井を突き抜けるような広間に並ぶ神々は、それぞれ異なる光や力を宿しており、場の空気は張り詰めている。
その重苦しい空気を、一際鋭く切り裂く声が響いた。
「今日、皆に集まってもらったのは、緊急で話し合わねばならぬ事案が発生したためだ」
原初の母神・ソフィア・エステラが、静かだが確固たる口調で切り出した。その眼差しは鋭く、場に集う神々の誰もが思わず背筋を正すほどだった。
「内容は――すぐに理解できるものではないかもしれぬ。しかし、神族全体の今後に関わる重要事項だ」
ソフィアの言葉に、神々の間に沈黙が走る。互いに視線を交わしつつも、誰一人として口を開こうとはしない。全員が、この“緊急事案”の重大さを肌で感じ取っていた。
「で、どういう話だ?」
戦闘の神――アルが腕を組み、鋭い視線をソフィアに向ける。彼の雰囲気だけでも、場の空気は一段と引き締まった。
「このままでは、大規模なエングラム災害が発生する可能性を予知した」
ソフィアの言葉に、神々の間にざわめきが広がる。その響きは単なる報告ではなく、迫りくる危機を告げる警鐘のようだった。
「……規模はどの程度だ?」
「前例のないレベルだ。もし対策を講じなければ、神界にも人間界にも甚大な影響を及ぼす」
言葉の重みが、会場を支配する。誰もが事態の深刻さを理解し、緊張の糸をぴんと張った。
ソフィアが静かに手を掲げると、空間に淡く光る資料群が浮かび上がった。
「……これが、緊急事案の予測資料よ」
神々は息を呑み、浮かび上がったデータに目を凝らす。資料には、膨大な規模での災害発生の可能性が細かく示されていた。
ミストルティンは資料をじっと見つめる。
「……ふむ、なるほど」
アルが眉を寄せる。
「具体的にはどういうことだ?」
ミストルティンは軽く首を振る。
「……正直、前世でエレノアが関わった、地球を管理する神たちが大慌てした案件と比べても――いや、それ以上のようね」
その言葉に、場の空気がさらに重くなる。アルも低く唸る。
「……比べるのも恐ろしいが、そうか」
神々の表情が一層引き締まり、万神至高神殿に重苦しい沈黙が広がる。
沈黙を破ったのは、柔らかくも揺るぎない声――生命を司る女神・エルヴィータだった。
「皆、まず落ち着いてください」
その声はまるで、重苦しい空気を切り裂くかのように響いた。長い緑の髪が微かに光を帯び、母性と慈愛に満ちた眼差しで神々を見渡す。
「今回の災害は……確かに、極めて深刻です。しかし、恐れることはありません」
神々が首を傾げる。アルが腕を組み、警戒の視線を送る。
「……どういうことだ?」
エルヴィータは微笑みを浮かべ、柔らかく答えた。
「最悪のケースでも、エレノアちゃんとその近しい関係者は保護できます」
「万が一、この災害が現実となっても、命は守れるのです」
その言葉は神々の間に微かな安堵を生む。しかし、表情には決して油断はなく、覚悟と責任が滲む。
「……ですが」
少し声を落とす。
「世界全体の修復には、途方もない時間がかかります。その期間は……見当もつきません」
神々の顔色が一層重くなる。資料に示された20年以内の予測――しかしエルヴィータは柔らかく神々を見渡し、力強く告げる。
「それでも、命を守ることが最優先。人が無事であれば、世界の再生は少しずつでも可能です」
母性に満ちた女神の言葉は、重苦しい予測の中に一筋の光を差し込んだ。神々は静かに頷き、それぞれの覚悟を胸に秘める。
「……なるほど……」
闇の精霊王――ノクスは資料から視線を上げ、冷徹な声で静かに言った。
「エレノアと、その近しい人間を仮に保護したとしても……修復期間が見当もつかないなら、結局無駄じゃないか? 何億年という歳月を、冥界や神の領域に置くとしても……べ、別に否定してるわけじゃないがな」
「……はぁ?」
ソフィアの声に、ノクスはわずかに顔を背け、声をそらし気味に続ける。
「……つまりだ、守る手段としては可能だ。可能だが――修復にかかる期間が全く読めない以上、意味のある保護になるかどうかは疑問ってことだ……」
ちらりと目を逸らすその姿は、冷徹な声とは裏腹に、確かにエレノアたちを守ること自体は気にかけていることを示していた。
「あんたのツンデレ、そろそろなんとかならないの?」
ソフィアが小さくため息をつき、ノクスを見やった。
「……べ、別にツンデレなんかじゃ――いや、そういう意味じゃない!」
ノクスは少し顔を赤らめつつ、慌てて否定する。
「ええい、黙っていればいいのに……」
ソフィアは冷静に、少し呆れた声で言う。
「肝心なのは、エレノアちゃんたちをどう守るかでしょ? あなたの小さな意地なんかどうでもいいわ」
「ち、違う! だから――俺はな、守れる手段を考えてるだけだ」
ノクスは資料を脇に置き、落ち着いた声で続ける。
「……エレノアを冥界や神の領域に置くのは否定しない。ただ、修復期間が読めない以上、預けるだけじゃ意味が薄い。だから、とりあえずの対策手段を考える必要がある」
「ふん……まあ、あなたなりに考えてるってことね」
ソフィアは軽く頷き、にっこり微笑む。
「なら、具体的にどうするつもり?」
ノクスは一度視線を天井に向け、冷静に分析を開始した。
「まず最優先は――エレノアと、彼女に近しい者を安全に隔離することだ。場所は冥界か神の領域、あるいは両方を組み合わせる形で。期間が不明でも、とりあえず保護できる」
「なるほど……まずは避難、ね」
ソフィアが頷く。
「次に考えるのは――外部への影響を最小限に抑えつつ、修復可能な状態を維持することだ。完全な修復までに何億年かかるかはわからないが、最初に備えておけば損はない」
「ふむ……一応の安全策を固めてから、詳細な計画に移るわけね」
ノクスは小さく唸り、資料を手に再び目を通す。
「そうだ。まだ仮策に過ぎないが、まずはここから始めるしかない」
空気が少し落ち着き、神々の間にも静かな理解が広がる。
――とりあえず、エレノアを守るための初手が固まりつつあった。
ノクスが資料に目を落としながら、冷静に言葉を継いだ。
「エレノアちゃんと近しい者を保護するのはあくまで初手に過ぎない……問題は、この先だ」
「世界全体の均衡をどう戻すか……ね」
ソフィアが静かに頷く。
「今回の予測が示すのは、単なる局地的被害ではない。世界規模のエネルギーの歪みが生じる可能性が高い」
「なるほど……そのバランスを回復させるには?」
生命を司る女神・エルヴィータが柔らかい声で口を開いた。
「……まず、世界の生命力の流れを整えることです。つまり――世界樹を増やすこともひとつの手段になります」
ノクスは少し目を細め、ツンデレらしく冷静に分析する。
「……だが、安易に増やせば、他の精霊や神の領域への影響も考慮しなければならない」
「もちろん、無計画にはしないわ」
ソフィアが資料を指さし、慎重な口調で言う。
「必要なのは、段階的な増殖計画。エレノアちゃんたちの保護と並行して、世界樹を通じて世界の生命力の均衡を少しずつ戻していく――それが現実的な対策になる」
「ふむ……一応の道筋は見えたわけか」
ノクスは軽く唸り、ツンデレらしくも「……まあ、やむを得ない」と短く呟いた。
世界樹をどう増やすか、どのタイミングで、どこに植えるか……神々は慎重に議論を重ねる。
――こうして、とりあえずの避難策から、世界全体の均衡を取り戻す仮計画へと議題は移っていった。
「下手な場所に植えて枯れたり伐採されたりしたら堪ったもんじゃねぇぞ」
アルが腕を組みながら静かに告げた。
「世界樹を増やすとしても場所がねぇ……僕は眠いからあとは任せるね」
その言葉に、万神至高神殿には一瞬の静寂が訪れた。
「おいおい……」
「こんな時でもクロノアちゃんは相変わらずね」
エルヴィータが優しくたしなめる。
その後も話し合いを続けるが、いまいち決め手に欠けていた。
「まったく……場所が決まらないな」
ソフィアがため息をつくと、神々は各々の案を挙げ始めた。
「北の大平原はどうだ?」
「いや、火山地帯の地下水脈なら安定しやすい」
「砂漠のオアシス周辺もありかもしれん」
しかし、どの案も神々の慎重さや現実的な問題点で次々と却下される。
「どれも決め手に欠ける……」
「まったく、これじゃいつまで経っても決まらんぞ」
議論は堂々巡りを続け、ついには神々も疲れの色を隠せなくなる。
「もう、候補地は出尽くしたのでは?」
その時、ミストルティンと大地の精霊王が同時に声を上げた。
「……なら、エレノアの屋敷に植えるのはどうだ?」
周囲の神々が一瞬、驚きの視線を交わす。
「ここなら安全も確保できるし、周囲の環境も管理可能だ」
大地の精霊王が落ち着いた声で付け加える。
「さらに、神族の拠点としても機能する。緊急時にはすぐ対応できる」
ミストルティンも微笑みながら頷く。
「私が常駐するし、何よりエレノアなら、この屋敷と周囲の自然の力で世界樹を守るのに問題はないはずよ」
その言葉に、万神至高神殿の神々の間に小さなざわめきが広がる。誰もが納得せざるを得ない、現実的かつ最も安全な候補地──それが、エレノアの屋敷だった。
ミストルティンと大地の精霊王の提案に、一瞬の静寂が訪れる。
「……なるほど、確かに現実的だな」
ソフィアが小さく頷くと、他の神々も次々と賛同の声を上げる。
「これなら、最悪の場合でも迅速に対応できる」
「場所も安全だし、管理もしやすい」
「異議なし」
こうして、世界樹の植樹候補地は満場一致でエレノアの屋敷に決定した。
大地の精霊王はにっこり微笑む。
「よし……せっかくだし、この植樹はエレノアちゃんへの誕生日プレゼントにしよう」
万神至高神殿には、重苦しかった空気が少し和らぎ、柔らかな笑みが広がった。
エレノアの屋敷で芽吹く世界樹――それは、未来への希望の象徴でもあった。




