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第一章 二

「ブルーウッド上等兵」

 その呼びかけにわたしは返事を返さなかった。ロドリゲスが言うように、赴任したばかりの人物をはなから無能と決めつけるのはよくないのはわかっているが、この男に対する妙な苛立ちがそれを正当化させていた。

「ランドリーの場所を教えてくれないか。ここのFOBにはランドリーがあるって聞いたんだが、まだ勝手がわからなくて」

 そのとき薄鼠色のディスターシャが視界に入り、助け舟とばかりにわたしは叫んだ。

「アジーズ!」

 集めた洗濯物をカートに積み上げていたアジーズがこちらを振り向いた。

「やあブルーウッド上等兵」

 濃く量の多い口髭から白い歯がこぼれた。サンダルに、ディスターシャとよばれる足首まで覆う薄手のシャツに身を包んでいる。この街に限らず基地ではどこでも、外国人の従業員が清掃などの雑務に従事している。以前はフィリピン人やネパール人も見かけたが、最近では街の住民が多く雇用されるようになった。中隊長いわく、街の雇用を充実させるのも重要な任務なのだそうだ。洗濯は基本自分で手洗いするが、出動の要請がしょっちゅうかかる毎日では間に合わず、アジーズのような現地雇用員に任せる者も多い。ふつうFOBにはランドリー設備などというぜいたく品はないが、これもユーフラテス河の恩恵のおかげだった。

 アラブ人共通のふさふさとした濃い髪には白いものが混じり、生え際もやや後退しはじめている。刺繍が施された胸ポケットには何枚もの注文用紙が入っている。洗濯物を預けにくる兵士の名と階級をいつも正確に記憶しているアジーズを、スパイではないかと勘ぐる者もいた。アジーズが抵抗勢力が多く潜むI地区から通ってきているのも理由のひとつのようだ。だがアジーズはわれわれがここに来る以前から働いており、そのころはI地区もまだ荒れていなかったと聞いている。

 毎日カートに山のような洗濯物を積んで回収してまわる。以前は街から往復していたが、ランドリー設備ができてからはそこでまとめてするようになったようだ。その返却先をアジーズが間違えたことはない。その実直な仕事ぶりに胡散臭い目を向ける者もなくなっていった。

 スパイだと勘ぐる気持ちも無理はない。敵はわれわれのようにひとつにまとまった組織ではない。多くが住民に紛れて日常を送っており見た目には区別がつかない。

 政権はすでに連合国暫定当局(CPA)からイラク暫定政権に移譲されていたが、敵は昨年の開戦当時と比較にならないほど増加、しかも複雑化していた。旧バース党の残党、サダムに厚い忠誠心を抱くフェダイーンや共和国防衛軍、さらに十字軍以来の聖戦を遂行しようと国外から入り込んでくるジハーディストたちが、混乱に拍車をかけていた。長く駐留している者の話によると、はじめのうち、イラク正規軍はもちろん、戦争終結後も抵抗勢力たちは黒いディスターシャに赤いカフィエなど、何らかの目印になる恰好をしており、待ち伏せであれ何であれ、姿を現して正面から向かってきていたという。だがいまはその姿も攻撃方法も完全に日常の中に紛れていた。普段、街の床屋や電気屋、露天商などである彼らは、買い物でにぎわう街の雑踏、アパートのバルコニーや屋根から気まぐれのようにAK47やRPG対戦車ロケット砲を発砲してくる。そして戦闘が終わると何食わぬ顔で自分の仕事に戻っていくのだ。陽が落ちるとダンボール箱やゴミ、動物や人間の死体に埋め込んだ手製の爆発物を街のどこかに仕掛けて去っていく。戦闘終結から一年以上、治まるどころか日々激しさを増す抵抗勢力を街から排除し、治安を早期に回復することが、この街に駐留するわれわれの役目だ。

 フォックスを強引にアジーズに任せると、苛立ちに急き立てられるように兵舎から逃げ出した。昼間の強烈な陽射しが剥き出しの顔や首を刺す。ちぎれ雲ひとつ許さない完璧な青空は頭をわずかに明瞭にしてくれたが、外の空気で気分を一新しようなどという試みは、ここでは瞬く間に熱風にかき消される。パトロールに出発したハンビーたちの巻き上げた粉塵が視界を遮った。その向こうに消えていくハンビーを見送りながら、新たな軍曹が来たということは、近いうちに再びパトロールの任務に戻るのかもしれないと思った。


 兵舎に戻ると、うわついた活気が溢れていた。本国からの手紙や荷物を手にした兵士が行き来しており、わたしのベッドにも手紙が置かれてあった。妹と母からだった。メールやパソコンの使い方がわからない母とは、手紙か、妹を介したメールでやり取りするのが常だった。

 手紙の内容は主に、我が家の現在の金銭状況を知らせるものだった。妹はメールにも書いたがと前置きしたあと、銀行からいくらかの金を借りることができたので、しばらく送金の心配はしなくてもいいと書いてあった。そういえばここ十日ほどメールをチェックしていない。忙しくて兵舎に戻っては眠るだけだったのと、インターネットルームの回線が何日か不通だったのが原因だ。ここ最近、基地への砲撃があったわけでもないのによく途切れる。前線でネット環境があること自体ありがたいことなので文句を言う者はいなかった。

 母からの手紙は相変わらず天候と、わたしの体を気遣うものだった。もう十月も近いというのにニューヨークではまだ暑さが続いている。来週いっぱいは雨が降り続くそうなのでそのあとは涼しくなってくれるといいが。父さんと同じ、こんな戦場にあなたをとどめさせているテロリストは一人残らず世界からいなくなればいいのに。戦地勤務が終了してニューヨークに戻ってくる日を心待ちにしていると締め括られてあった。

 わたしと同様、父も海兵隊に所属していた。ヴェトナム戦争に従軍し、除隊後は重機を含む車の整備技師として働いていたが、常に酒を飲んでおり、二年前、飲酒運転のうえ人を巻き込んだ事故で被害者への莫大な治療費と賠償金を残して死んだ。飲酒運転が原因の事故では対人保険もおりず、父の生命保険と、家の蓄えを全部崩しても支払額にはとどかなかった。事故車をスクラップに出し、もう一台あった父の車を売って家族全員の生活費も最小限に減らしたが、わたしのカレッジの次の学期分の授業料を加えてどうにか間に合わせることができた。次の学期のために奨学金を当たってみたが、ウェイターをしていたわたしのアルバイト代と母のパートの収入を合わせると、受給条件である最低収入をわずかに上回っていたため申請できず、カレッジに休学届けを出したわたしは、軍に入隊した。

 入隊した二〇〇三年は、ニューヨークの崩壊したWTC(世界貿易センタービル)跡地では行方不明者の捜索がまだ続けられていた。同期にはテロリストどもを八つ裂きにしてやると息巻く者も大勢いたが、わたしはそんなことはどうでもよかった。軍に入れば基礎訓練中から安定した給料が入ってくるし、アクティブ(戦地を含むフルタイムの現役勤務)を勤め上げればカレッジの学費は全額免除のうえ最低限の生活費も支給される。戦地勤務が生むプラスアルファの収入もわたしの家族にとって大いに助けになるものだった。

 息子が同じ兵士としての道を選んだことを天国の父がどう思っているかは知らない。父はわたしに入隊を勧めたこともなければ、軍隊時代のことを話したこともない。その頃のことを父が口にするのは、週に一度訪ねてくる父の友人にだけだった。その男はいつも擦り切れて穴が開いた、年月が経って白っぽくなったオリーブドラブのヴェトナム時代の海兵隊戦闘服を着ていた。うつむいて絶えず周囲の様子に神経を尖らせ、父がコーヒーを入れる間じゅう、キッチンの椅子に腰かけ片方か両方の足をせわしなく揺らしている彼が、子供の頃のわたしは怖かった。窪んだ眼窩の奥でぎょろりと動く目がこの世にいない人のもののようで、彼がいる間はキッチンに近付かなかった。車を持たないのかクイーンズからマンハッタン経由で地下鉄を乗り継ぎ、ブルックリンにある我が家まで二時間近くかけて通ってきていた。父のほうから出向いたり、父の車で他の友人のところに出かけることもあったようだ。

 父が死んでからわたしは再びロングアイランドの射撃場に足を向けるようになった。幼いころ父が言っていた言葉が思い出された。

「いいかアーネスト」

 父はセレクターをSAFEに戻し、M16の銃口を斜め上に離してからわたしを見下ろす。

「道具というのはなんでもそうだが、人の役に立つために作られたものだ。どんな道具もその役割を知って適切に扱えば、とてもいいパートナーになってくれる。とくにこいつは正しいときに正しい使い方をすれば、いままでに見たことのない最上の景色を見せてくれる」

 父が死んでから何年かぶりに足を向けたロングアイランドの射撃場で、それはわたしに会うのを待ちわびていたように身体のすみずみにわたって呼びおこしてくれた。

 数あるMOS(Military Occupational Specialty:軍事専門職種)の中でわたしが選んだのは、後方勤務のロジスティック(補給科)でもインテリジェンス(情報科)でもなく、インフェントリー(歩兵科)だった。母は「なにもこんな時にそんな職種を選ばなくても」と泣いたが、わたしは何とこたえればいいのかわからなかった。

 手紙の最後に、妹は庭の観葉植物のようすも報告してくれていた。わたしのいいつけではじめは義務的にやっていたが、いまでは自分から報告してくれるようになった。水やりと枯葉摘みを欠かさないので、植物はちゃんと青さを保っているという。その植物は何年か前、99セントショップで母が気まぐれに購入し、ちゃんとした鉢に植え替えられることもないまま冷蔵庫の上で黄色くなっていたのを、わたしが植え替えたものだった。植物の名前は知らない。土いじりなどしたことも、しようと思ったこともなかったわたしが、なぜそんな手間をかける気になったのかはわからないが、キッチンの隅でだれにも見向きもされず捨て置かれたままでいるのを、放っておくことができなかった。庭に植えて二、三日もすると根元から新たな葉が顔を覗かせた。それからはみるみるうちに葉を広げ、いまでは庭の一角を覆うほどになっている。

イラク戦争が舞台のフィクションです。

アメリカ在住時に退役現役軍人の方々への取材をもとに、兵士の目線で現代の「戦争」を描いてみました。

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