表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第一章 一

「おいアーニー、アーニーってばよ」

 ベッドからはぎとったシーツを叩きながら、自分の名を呼ばれているのにしばらく気付かなかった。

「またそんなことしてんのか」

 正中に昇った太陽が、なにもかも奪うような明るさで第二海兵師団第八海兵連隊第一大隊K中隊の兵舎テントを支える大型の鉄製ポールと、そこにもたれたステイシーの明るいブラウンの髪を白く輝かせている。

「またすぐ砂まみれになるんだ、時間と体力の無駄だぜ。いいかげん慣れろよ」

 ステイシーの呆れ顔を無視してシーツを抱え兵舎に入った。この街に派遣されて三か月、いまだにこの国の気候には慣れないし、隙間という隙間から侵入する砂にはいつも苛々させられる。

「フィグは?」

 ステイシーがベッドのそばを見まわす。

「便所かなんかだろ」

 この極小粒の砂の大移動にはじめて遭遇したとき、フィグは巨大な岩が迫ってくると表現した。パトロールの準備中、何キロか彼方に現れたと思うとあっという間に景色を飲み込んでしまった。にぶい茶色の夕暮れが落ちてきたみたいだった。五メートル先のトラックが霞み、シルエットでしか判別できなくなった。兵舎テントの分厚いキャンバス地が頭につくほどたわみ、ぎしぎしと恐ろしげな音を立てていた。小一時間ほどたって通り過ぎた後は髪から下着の中まで砂が入っていた。ハンビー(高機動装輪車輌)の回転砲座に搭載してあったブローニングM2重機関銃も砂まみれになり、他の小隊に代わりの機銃を借りる羽目になった。鼻をかむと砂が混じり、口の中には翌日の夕食時にまで潜んでいた。ハリケーンみたいに屋根やトラックを持っていかないだけ可愛いもんだと誰かが負け惜しみのようにつぶやいたのを覚えている。

「なんだこれ。色からして小便じゃねえようだが」

 ステイシーがシーツに顔を近づけた。ぎりぎりマットレスと呼べなくもない薄いスポンジのついた軍用簡易ベッドに広げたシーツに、手の平ほどの薄い緑色の染みが広がっている。

 隣のフィグのベッドに目をやったステイシーが腹を抱えて笑いだした。そこには同じ色の染みが点々と広がり、屑入れの横にはクールエイド(粉末ジュース)のパッケージが丸まって転がっていた。

「あいつまたおれのベッドで」

「手のかかる子で母ちゃんも苦労するねえ」

 背もたれに亀裂の入ったプラスチック製の椅子に腰かけ、他人事のように眺めているステイシーを無視してシーツを丸める。ランドリーバッグを肩にかけて立ち上がったわたしに、ステイシーは溜息をついて言った。

「新軍曹さんだとよ」

 わたしは立ち止った。

「二、三日のうちには来るそうだ。小隊長が話してるのをボブが聞いたんだと」

 ステイシーが親指で示した先、ロドリゲスのベッドの周りにはボブやアキラなど小隊の面々が集まっていた。わたしはバッグを投げ出してそちらに駆け出した。


「なんたって妙な野郎ばっかりまわされてくるんだ」

 ボブが身をもたせていたドレッサーの側面を蹴った。衝撃で扉が開き、リュックやボディアーマー、キャメルバッグ(背負い型水筒)や丸まった靴下が砂粒といっしょに転がり出た。

「前任のバグダッドで一個小隊つぶしちまった奴なんだと。中隊をたらい回しにされておれたちの所に行き着いたらしい。グリーンゾーンにいたそうだ」

 ロドリゲスのベッドに腰を下ろしたステイシーが、手にしたミネラルウォーターのボトルを無表情に見つめながら言った。

「グリーンゾーンは司令部だろ、戦闘なんてあったっけか。開戦直後の二〇〇三年ならともかく、いまじゃ高え壁に囲まれて入り込めねえって聞いたんだがな」

 アキラが言うと、

「とにかくおれぁ、ホワイトの野郎がそう言ってるのを聞いたんだ。やばいやつには変わりはねえってこったろ」

 ぎょろりと睨んだボブの白目が、黒い肌に真昼の太陽のように白く見えた。胸元で組まれた、第二次世界大戦とヴェトナム戦争に参加した祖父と父親の名を彫り込んだ上腕の筋肉が兵舎の電灯を反射している。

「卑怯者の次は小隊つぶしか。まともな兵舎もないようなFOB(Forward Operating Base:前哨基地)だからって、そんなのばっかり勘弁してくれよなあ」

 十字を切って天をふり仰いだステイシーのカールした短い髪が微かに揺れ、一年前まで好きな時に出入りしていたという森の気配が顔を覗かせた。ジョージア州、アパラチア山脈の国立公園近くで育ったというステイシーは、大型扇風機がなぐさめ程度の換気を送る汗と装具の臭いのこもった兵舎テントの中でさえ、どこか涼しげな空気を振りまいている。

「まあ待てよ。会ってもいねえのに、今度のやつが能無しだって決めつけるのは早いだろ」

 ロドリゲスが言った。転がり出た私物を拾い集める後ろ姿は餌をあさる熊のようだ。メキシコ系ヒスパニックのロドリゲスは分隊の中では最年長の二十八歳。一一〇キロを超える巨体は大男のボブでさえ小さく見える。入隊前は食肉加工工場で働いていたと聞いて、冷凍倉庫に吊り下げられた巨大な牛肉塊を叩き割る姿を想像したわたしに、ロドリゲスは穏やかに微笑んで「鶏のほうだ」と言った。本人はもっぱら空の弾薬箱を重ねた机にむかい家族へ手紙を書くのに精を出しているだけだが、鷹揚で人の話に辛抱強く耳を傾けるロドリゲスのそばにはいつも誰かの姿があった。兵舎にひとつしかないテレビがロドリゲスのベッドの隣にあることもあり、灯火に引き寄せられる虫のように、わたしたちはロドリゲスの所に集まっていた。

「いくら上が無能だからって、小隊全滅させるような下士官を野放しになんかしとくかな」

 わたしが言うと、ボブが固く丸めたドリトスの袋をゴミ箱に投げ入れながら言った。

「軍曹の野郎だって野放しだったようなもんじゃねえか」

「だが、奴のおかげでここまでやってこれたってのもある。軍曹の野郎は人でなしだが、派遣されたばかりで前線のことをなにも知らねえおれたちを叩き上げてくれたのはあいつだ。実績はあったんだし無能というわけではないだろう」

 ロドリゲスが言った。

「けっ、自分の部下を盾にしてよ。ただの腰抜けの卑怯者じゃねーか」

「ボブ」

 それまで黙っていたアキラがたしなめた。仲間の間に生じた重い空気にボブはしぶしぶ口をつぐんだ。アキラは別分隊だが、一か月ほど前から分隊として頭数が足りなくなったわたしたちの補助に加わっている。アジア人特有の、余計な贅肉をそぎ落としたすらりとした体躯と、きめ細かい肌は実年齢より五つは幼く見える。日本人だがわたしと同じニューヨーク市から入隊したという。お互い小隊に配属されるまで面識はなかった。

「まあ、まわされてきたってのも考えすぎだろう。この街は小さくてもラマディやバグダッドに続くハイウェイがあるんだし、ファルージャではまたでっかい作戦が始まるらしいからな。河沿いのポイントはどこも気は抜けないはずだぜ」 

 その場の空気を払拭するようにステイシーが口を開いた。

 イラクは十八の行政区画に分かれて管理されている。バグダッドのあるバグダッド県や、ペルシャ湾とクウェートに隣接するバスラ県。中でもわれわれの駐留する街が所属するアンバール県はシリアやヨルダンなどにも国境を接し、国内最大の面積を有している。この街の北東約六〇キロに位置するファルージャもアンバール県に属している。人口約三十万人のうち一割が抵抗勢力で、住民の大半がそれをサポートしているといわれているファルージャでは、われわれがこの国に赴任する二か月ばかり前の二〇〇四年四月、大規模な掃討作戦が行われたところだった。

 ニューヨークとワシントンが同時に攻撃を受けてから二年後の二〇〇三年三月、合衆国軍はアフガニスタンに続き、このイラクに進攻を開始した。クウェートから北上した合衆国軍率いる有志連合軍はバスラ、ナシリヤ、カルバラなどでの戦いを経て、三週間たらずでバグダッドを陥落させた。その後、ティクリートやキルクークといった北部の主要都市も次々と鎮圧、一か月半という異例のスピードでイラク全土を制圧した。

 二〇〇四年に入ってから、ファルージャの指揮権は陸軍から、現在われわれ第二海兵師団がサポートする第一海兵遠征軍(I・M・E・F)に委ねられたが、そんな中、ノースカロライナに本社のある民間軍事会社のコントラクターが食料運搬車輛隊(コンボイ)を護衛中、抵抗勢力に殺害されるという事件が起きた。市内を引きずり回され、目も当てられないほどに損壊された黒焦げの遺体がファルージャ郊外の鉄橋に吊るされた映像は、合衆国民を恐怖と憎悪で震え上がらせた。

 この国の人々を長年の圧政から解放した合衆国軍への挑戦ともとれるこの事件を受け、行われたのが四月の掃討作戦だった。『ビジラント・レゾルブ(油断なき決意)』と名付けられたこの作戦で、合衆国軍は東西南北からの囲い込みと空からの攻撃により街の四分の一を確保するまでに至ったが、作戦の苛烈さがメディアで報道されると攻撃を疑問視する声が国内外で高まり、作戦は事実上の中止を余儀なくされた。以来、イラク暫定政権の下で編成された新イラク軍が治安を維持しているはずだったが、ファルージャの抵抗勢力はこれまでになく膨れ上がっているということだった。誘拐や斬首など過激な方法で反米を煽り続けているヨルダン人の過激派ザルカウィも、ファルージャに拠点を移したと言われている。集結しつつある抵抗勢力に、同じアンバール県に属するこの街でも警戒を強めるようにとの通達があったところだ。

「ふん、臨むところだぜハジども。こちとら一か月近くも歩哨所詰めで体がなまってんだ。あのときの借りは百倍にして返してやる」

 ボブが手にしたコークの缶を握り潰した。

ランドリーから戻ると隣のベッドでフィグが眠っていた。兵舎の窮屈な簡易ベッドも体の小さいフィグだとそこそこの広さに見える。口が半分開いており、左手首から肘の内側にかけて描かれたイチジクの枝葉を象ったタトゥーがベッドから垂れ下がっている。

 床には読みかけのピンナップ雑誌をはじめ、使いかけの鉛筆や定規、タオル、齧りかけた食パンなどが散乱している。定規はインチ表記とセンチ表記二種類の目盛りが上下に分かれて表示されているもので、基礎訓練時代を思い出して少し懐かしくなった。軍に入ると、度量衡の単位をそれまでのヤード・ポンド法からメートル法に切り替えさせられるため、慣れるまではこの定規でしょっちゅう目幅の違いを確認していた。インチ表記に比べてセンチ表記は目盛りが細かく目がチカチカしたが、換算基準のばらばらなヤード・ポンド法と違い、すべてが十進法で繰り上がっていくメートル法はシンプルでわかりやすく、いまでは、なぜわが国でいまだにメートル法が普及しないのか不思議に思えるくらいだ。ふつうは一、二か月もすればこの定規の世話になる必要もなくなるが、フィグはいまでもたまに持ち出しているようだ。

 わたしの気配で目を覚ましたフィグがゆっくり上半身を起こした。寝起きの顔をしかめているフィグにランドリーバックから取り出したシーツを投げてよこすと、ぼんやりした目でわたしを見上げた。

「おれのまで洗濯してきてくれたのか」

「ついでだったからな。それよりおまえ、おれのベッドで飲み食いするなって何度言ったらわかるんだ」

「そんなことしてないぞ。この前怒られてから気を付けてんだから」

「クールエイド飲んだのはおまえだろうが」

 フィグの眉が下がり、眉間に二本の縦皺が入った。肩が眉と同じ傾斜に落ち、わたしは年の離れた弟をいじめているような気分になる。

「あれだな、混ぜる時に飛んじまったんだな。ごめんよアーニー」

 うつむいたフィグの顔が歪んだのでわたしは焦ったが、その口は大きく開き最終的にあくびになった。無防備に開かれた口からのぞく歯にはいくつかの空洞が見える。

 故郷のシカゴでよく喧嘩をしていたというフィグは、その時折られた歯を、入隊後すぐに軍のベネフィット、トライケア(軍人専用の医療保険)を使って、長年放置していた数本の虫歯とまとめて治そうとした。虫歯は一本残らず修復できたが、抜けたり折れたりした箇所には、医師に歯並びのことも考えてインプラントをすすめられ、それが歯茎に金属製のねじを埋めると知って戦慄した。

「そんなもんおめえ、いま時分心臓にだって機械を埋めるってのに、歯茎にねじの一本くれえどうってことねえだろ」

 故郷のテネシーでは保険がなくて自分で歯を抜く奴もいるのに、と南部訛り丸出しで他人事のように言ったボブに、保険がないのはシカゴでも同じだと言い、金属で飯を食ってもちっともうまくないと言い返していた。以来、フィグの口の中にはいくつかの空洞が残るままとなっている。

「フィグ(イチジク)」という名は本名ではない。紫がかった黒い髪が頭の天辺でぴんと立ち上がっており、それが小柄な体と相まってイチジクみたいだとアキラが言い、そう呼ばれるようになった。本人いわく頭に二つの渦が重なってあるせいだそうで、どんな髪型にしてもむだなのだという。軍規定の短いハイアンドタイトにもかかわらず、いまもフィグの頭の上で見事な角を形作っている。「フィグ」なんて響きにしまりがないとこぼしていたフィグも、いまではその{絵|イメージ}を左腕に彫り付けている。

 ファースト・ネームで呼ばれることに慣れていた入隊前とは違い、軍では苗字と階級で呼称されるようになるが、しばらくすると仲間からは好き勝手に呼ばれるようになる。女みたいだから気に入らないという本音を不覚にも漏らしたステイシーはその場で運命が決定し、フィグにいたってはアキラの他愛ない一言がそのまま採用されてしまった。分隊でのわたしの呼称は単にファースト・ネームの「アーネスト」を略したものだ。呼称としては長すぎるからか、上官を除いて「ブルーウッド」という苗字で呼ばれたことはない。「ブルー」はスコットランド系の名前だそうだが、その下にウッドが付くつとなると聞いたことがない。父方の祖先はスコットランド系だが、おおかた合衆国に入植する際勝手に変名したか何かだろう。 

 丸められたバーガーキングのクーポン券が床に転がっている。それは何日か前、後方支援基地に出かけた帰りにフィグが投げ捨てたものだった。

 司令部付きの基地や後方支援基地には、マクドナルドやサブウェイなどの店舗が多く店を構えている。食事と言えばMRE(Meal, Ready-to-Eat:戦闘携行食)か、それに毛が生えただけのような食堂(チャ―ホー)の料理しか口にしていないFOB勤務のわたしたちにとって、用事でたまに出かけることのある後方支援基地でのファーストフードはめったにありつけないご馳走だ。本国から持ってきたフィグのバッグの底からクーポンが出てきたと聞き、喜び勇んでファーストフードのコンテナに向かったわたしたちだったが、クーポンは店のカウンターで無情に突き返された。クーポンには「合衆国中部地域のみ有効」という文字が小さく記載されていた。わたしたちがその地域のどこかに期限までにたどり着くことは不可能だった。

 同じ海兵隊の基地でも、物資の豊富にある後方支援基地での生活を、わたしたちはいつも羨ましく思っていた。そもそも必要最低限の設備しかない前線のFOBをビクトリーコンプレックスや後方支援基地などと比較するのが間違いなのだが。

 ビクトリーコンプレックスとは、バグダッド国際空港を中心に合衆国軍と多国籍軍の本部が置かれた大規模な施設だ。PX(基地内の売店)やカフェがあり、俳優やミュージシャンが慰問にも訪れる。司令部のグリーンゾーンをはじめ、サダム・フセインが建てた宮殿や人口の池が点在するキャンプビクトリー、兵站や生活物資のためのキャンプストライカー、捕虜や容疑者の収容施設であるキャンプクロッパーには、昨年末に捕えらえられたサダムも勾留中と聞く。

 クウェートから陸路で国境を越えてイラクに入国しハイウェイを北上中、立ち寄った後方支援基地でプレハブ造りのエアコン付き兵舎を目にしていたわたしたちは、ようやく辿りついたFOBで目の前の砂色のテント群がこれから半年間寝起きする場所だと言われ全身の力が抜けそうになった。

 ヘースコー防壁(金網付きの大型土嚢)や特大のタンブルウィードみたいな鉄条網がぐるりと巡る基地の外周には、自爆車輌を監視するための監視所やコンクリート障壁などが置かれている。

 わたしたちが寝起きする兵舎テントの脇には{海軍工兵隊|シービーズ}が建ててくれたシャワーとトイレ施設、チャーホーがあるが、生活用水がまともに使えるようになったのは河の水をろ過できる設備がついてからで、それまでは飲料用のペットボトルの水で体を拭いていた。クウェートからここまでの行程、弾薬や燃料タンクと共に戦車の底に詰め込まれ、装具と自分の体から立ちのぼる汗の臭いに鼻が曲がりそうになりながら基地に到着し、やっとシャワーにありつけると思っていたらペットボトルの水を渡されただけだった。新兵訓練所(ブート・キャンプ)ではシャワーの時間は九十秒だったが、それさえ恋しかったのを覚えている。トイレは半分に切ったドラム缶に、蠅避けと焼却処理用のガソリンを入れただけのもので、これにはボブが、便所が四半世紀も前のヴェトナム時代から変わらないのは、おれたちを便所の紙か何かぐらいにしか考えていないせいだと、清掃当番が回ってくるたびに文句を言っている。

「おい、オズワルトを置いたままにするなよ」

 フィグの机にプラスチック製の石鹸箱が置きっぱなしにされているのが目に入り、わたしは言った。

「暗いところばかりだといやだろうと思ってさ」

 フィグは箱を慎重に机の奥にしまった。

 二日後、午後の歩哨を終えると指揮所に集まるように言われた。指揮所のテントにはわれわれの小隊担当のホワイト中尉のほかにK中隊を率いるローレンス大尉もいた。その横に小柄な男が立っており、たったいま着いたばかりなのかデザート・マーパット(砂漠用海兵隊迷彩服)とユーティリティーキャップ、同じ砂色迷彩のアリスパックを背負っていた。男の名はフォックスといった。階級はわたしたちより二つ上のE5(軍曹)で、一か月前にバグダッドで前任を終えた後、合衆国には戻らずそのままこの街へ赴任したのだという。

「よろしく」

 フォックスのキャップから、柔らかそうな金髪と青い眸が覗いた。フォックスという狡猾そうな名前とは正反対の頼りなげな風貌に、残り三か月の帰還の日が遠のく気がした。戦地勤務は二度目ということだが、補給や情報を扱う後方部隊ならともかく、肩幅の狭い繊細なたたずまいや優しげな面持ちは、長いこと太陽の下に出ていない数学教師みたいだ。年齢はロドリゲスより一つ上の二十九歳ということだが、その割に階級が低いのも引っかかる。ロドリゲスのように入隊が遅かっただけなのかもしれないが。マーパットの上腕にある、軍曹を示す三本筋の山形階級章(シェブロン)がわたしに追いうちをかける。ただフォックスの頬や額にいくつか皺が刻まれているのを見つけた。戦地勤務の兵隊に顕著にみられる皺は、わたしたちを同じ年代の民間人の若者より五から十は年嵩に見せている。わたしの顔にもそれはあらわれはじめていたが、フォックスの容貌は三十五より下には見えなかった。

イラク戦争が舞台のフィクションです。


アメリカ在住時に退役現役軍人の方々への取材をもとに、兵士の目線で現代の「戦争」を描いてみました。


面白いと思ってくれた方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ